第一章 昏い欲望

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 2・  そこで、記憶の回廊が破れた。  記憶の波間に漂っていたアタシの意識に飛び込んできたのは、ベッドサイドのテーブルの上で鳴り響いたスマホの着信音だった。  「リィ~ン・ゴォ~ン」、修道院の鐘の音。  それは、「逃がし屋」に新しい依頼者が現れた合図だ。ふと目をやった先の窓辺のゼラニウム花が、赤く風に揺れる。  「逃がし屋」は、十年前にパウロ横浜修道院のジュベール修道士が始めたことだった。  九年前、一色家に追われるアタシを助けてくれたのも、ジュベール修道士が作ったそのシステムだったのである。  その逃がし屋稼業を、四年間の海外生活を終えて日本に戻て来たアタシがそのまま引き継いだのだ。  五年前からは、そのほとんどの仕事は私が指揮を執っている。逃がし屋のグループ・人呼んで【黒揚羽(くろあげは)】を引き受けたのだ。  「逃がし屋」は、警察では対処しきれないストーカーの凶行に曝されている女性や、ドメスティックバイオレンスに怯える母子を助けるために存在する。民間のシェルターではとても対処できないほど、命の危険に瀕している女たちの駆け込み寺。それが逃がし屋の【黒揚羽】なのだ。  そしてどの案件も、緊急な対処が求められることが多い。  急いで着信を受けた。  「はい、アンリです」、静かに応じる。  出来る事なら何でもすると、キビシイ覚悟をする瞬間だった。  アタシにも色々な経験がある。  まるでペットのように、一色家の繁殖用だった子供時代。  無理矢理に、その一色家の右京に身体を奪われた結婚の夜。  その右京を殴り倒して逃げた九年前、アタシは行く当てのない逃亡者だった。救いの手を差し伸べてくれたジュベール修道士には、とうてい還し切れない恩がある。  そんな人生を歩んできたアタシに神様が与えてくれた四つ目の名前。それがアタシに逃亡の資金を与えてくれた。  それはミステリー作家としてのペンネーム・【皐月メイ】だ。  今では本屋さんに何冊も並んでいるそのペンネームを最初に名乗ってからもう十年になる。  五つ目の名前が【黒揚羽】だとしたら、アタシは妖怪百面相(ようかいひゃくめんそう)。  そのアタシの耳にあてたスマホから、低い妙な発音の日本語が聞こえてきた。  「おはよう、デございマス」、太くて優しい声。  「またアンリニ、お願いができマシタ」、電話の向こうに、ジュベール修道士のすまなさそうな顔が見える。  このフランス人の神父はいつまで経っても日本語が下手だ。  ベッドから出て窓辺に歩み寄るアタシの眼に、大きな池に満開の桜がハラハラと散るピンクの桜吹雪が映った。  都内の片隅にあるアパルトマン。  パリの匂いがしそうな古風な造りのアパートの一室に、アタシと家政婦のリュイが住んでからもう五年になる。
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