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【10】
病院へ到着した幻子は、待機していた僕や天正堂本部から派遣されて来た祈祷師に事情を説明すると、そのまま立ち止まらずに三神三歳がいる病室へと向かった。
僕も幻子に続いて病室に向かい、今まさに扉をノックしようとする彼女の斜め後ろに立った。
そこはICUでも一般的な処置室でもない平凡な個室でしかなかったが、入り口の扉の前に立った瞬間、強烈な血の匂いに圧倒された。もちろん、中にいる三神さんの血、というわけではない。この悪臭もまた、一種の霊障なのだ。
思いつめた横顔の幻子は何故かノックを思い留まり、そのまま扉越しに話しかけた。
「こんな時間にすみません。幻子です」
グニョリ、と室内の気配が揺らいだのが僕にまで伝わってきた。
僕はこの段階でもうすでに、足がすくんでしまっていた。病室内にいるのはベッドに横たわる三神さんただ一人のはずである。だが室内からは到底一人だとは思えない数の蠢きと気配が感じられた。人ではない何かが三神さんを取り囲んでいるのだ。黒く、吐き気を催す程に気持ちの悪い何かだ。こうなればあるいは、秋月姉妹が入れ違いとなって幻子を迎えに行けなかった事は幸いだったのかもしれない。おそらく『超聴力』を持つめいちゃんは、三神さんのいる病室の前に立つことすら出来ないだろう。
「……おお」
三神さんの声だった。「戻ったかね……ゲンコ」
そして三神さんだけが、幻子の事を漢字の音読みで呼ぶ。それも今は、ごくたまにだが。
「はい。ただいま戻りました、お父さん」
「そうかい、嬉しいねえ、こりゃあ、心強い」
「必ず助けます」
何も事情を知らない筈の幻子ではあったが、小声ながら力強くそう断言する気持ちは痛い程理解出来た。
「気張らんでええ。ワシが、自らで分け入った暗闇よ」
「……」
涙を堪え、唇を噛んだまま答えない幻子の背後から、
「新開です」
と僕も声を掛けた。
「新開の。この度は、こんな事になって申し訳ない」
「謝っていただくのは事が済んだ後です。微力ながら僕も尽力します。六花さんもいます。坂東さんもいます。ここには史上最強の神の子がいます。必ず、三神さんを救ってみせます」
「……そうかね」
優しい声で三神さんはそう言ったきり、それ以降口を閉ざしてしまった。幻子はしばらくの間病室の前に立ち尽くしていたが、やがては彼女も踵を返してその場を離れた。何も言わずに、だった。
朝方になり、チョウジの坂東美千流さん、心霊探偵を生業とする秋月六花さん、その妹で都内出版社に勤めるOLのめいちゃん、そして三神幻子が一堂に会した。場所は、決して顔を揃えたくなどない、総合病院の受付待合でのことだった。
お互いの顔を見つめるなり、誰もが言葉を失った。再会の喜びを一瞬で掻き消す不安と恐怖が、それぞれの顔に浮かんでいたからだ。このままでは確実に、得体の知れない呪いを受けて、三神さんが死ぬ。
めいちゃんも同様の、あるいは酷似した特徴をもつ呪いを受けた。そして僕の妻である旧姓・辺見希璃にも、疑わしい現象が起きている。
「情報がいるな」
と、坂東さんが口火を切った。「時間がない、動ける人間全部に声をかけよう。『印』(呪いの兆候を、そう呼ぶ)の出ている人間はひとまとめにして俺の管理下に置きたい。新開の嫁さんと、めい、お前もだ。六花姉さんについててもらうから心配するな。あとはウチの若い職員で斑鳩というのがいる。幻子がなんとか応急処置を施してこの病院までつれて来たが、いかんせん相手が呪いとあっては状況がよろしくない。一刻も早く……」
坂東さんらしい、明朗な陣頭指揮だった。
感情だけが先走り、どうする、どうするしか言葉の巡らない僕とは雲泥の差である。やはり、昔から頼りになる人だったと誰もが思ったに違いない。だがそんな中、幻子だけが上の空のまま、こうポツリと言ったのだ。
「父は……喜んでいると、私はそう思います」
似つかわしいとは言いがたいその言葉に誰もが驚愕し、息を呑んだ。幻子は空中の一点を見据えたまま、言葉を紡いだ。
「父は私に言いました。自らで分け入った暗闇だと。それでも父は生きることを諦めず、皆さんがこうして駆けつけてくださるまで持ちこたえた。父は、喜んでいると思います。しかし同時に、皆さんに危害が及ぶことを望んでなどいない筈です。自らで分け入った暗闇。その言葉はきっと父の本心であり、全ての謎はそこにあります。おそらく父は、自分の意志で、あの呪いを受けた。そしてもし、そうであるならば……ッ」
顔を上げて僕を見た幻子の二つの眼に、力強い光が戻りつつあった。
――― 私が全てを引き受けます。
了
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