壊れていく、抗う資格のないまま

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壊れていく、抗う資格のないまま

 ホワイトカラーの手帳を開き、今日以降、今月いっぱいのスケジュールをざっと確認する。クリスマス、大晦日、正月……時間を取られがちなイベントラッシュが控えているため、十二月後半は受注している仕事量も抑え気味だ。  ボールペンでカレンダーを叩いて日数を数え、「大丈夫です」と、耳に当てている携帯へ返事をする。 「それくらいの量なら、仕事納めまでに十分納品できますね」 『本当? なら頼める? もうさあ、忍ちゃんだけが頼りなんだよ~~!』 「ふふ、はあい、もちろん喜んで」  感謝の言葉を情けなく間延びした声で繰り返す男は、雑誌編集者の大橋だ。声と話し方は気さくで親しみやすく、初対面でも打ち解けられそうな雰囲気があるが、実際に会ってみると暴力団関係者かと身構えるほど顔が厳つい。夏場はサングラスまでかけるから、混雑する駅で待ち合わせると大抵、彼の周囲だけポッカリとスペースができるありさまだ。  とはいえ実際の彼も、笑うと気さくで親しみやすい。着まわしコーデや旬カラーのコスメについても盛り上がれる彼は、女性ファッション誌を作っている。 『助かったよ……寝こんだライターが悪いわけじゃないけど、この時期はホント勘弁してほしい。あとで忍ちゃんには資料とフォーマットをまとめて送るからね』 「わかりました。いつもお仕事まわしてくれて、ありがとうございます」 『それはこっちの台詞、筆は早いし修正は少ないし、丁寧な仕事する謙虚な子ってチーム内でも評判いいんだから。あ、……最近、直之とは会った?』 「いえ……会ってませんけど、どうかしたんですか?」  口の中で砂利を転がすように、自分の嘘を不快に思う。  大橋と直之は、学生時代からの親友だ。  つがいを得た忍は、発情期の一週間を公休として取得できる一般的な社会人になることもできたが、発情期に皇輔と距離をとれるよう、あえてフリーランスを選んだ。特技もなかった忍が何を職にすべきか頭を悩ませていたところ、忍が中々の読書家だと知った直之が紹介してくれたのが大橋だった。  直之の顔を立て、大橋がまわしてくれた小さな記事の仕事は、今の忍のベースとなっている。ど素人と言っても過言じゃない忍に、独学では足りないライターのイロハを教えてくれたのも大橋だった。  快活で、ものごとをはっきり口にする、きつい炭酸のようなさっぱりした男だ。しかし通話口の向こう側で口ごもる大橋は、「なんでもない」と歯切れが悪い。何かあるのは明白だが、自分から話す気はないようだ。「詳しくは直之から聞いてくれ」という、遠まわしの要請みたいなものも感じる。  挨拶を交わして通話を終え、携帯をデスクへ伏せた。大橋には悪いが、全貌の見えない問題らしき渦中に飛びこめるようなバイタリティを今の忍は持っていない。 「……ふー……」  機能性重視のアーロンチェアに背を預け、仕事中だけかけている眼鏡をずらして目頭を揉む。自分では到底手の出ない額の仕事椅子は、今年の六月――つがいになって十年目の記念日――に皇輔から贈られたものだ。「さすがにもらえない」「じゃあ捨てます」なんて、プレゼントをはさんで起きたひと悶着も今となっては微笑ましい。  以前まで使っていた九千八百円のオフィスチェアとは段違いに疲れないが、酷使する眼球の疲労感はどうしようもなく、手探りで引き出しを漁って目薬を掴み取った。 「今何時……うあ、もーこんな時間……」  眼鏡をキーボードの上へ追いやり、しょぼしょぼする目に目薬を落として壁掛け時計を見る。針は十八時。昼のうちに下ごしらえはすませているが、そろそろ支度を始めないと皇輔の帰宅に夕飯が間に合わない。「おかえり」の声と夕飯の匂いに出迎えられる小さな幸せを覚えている忍の、心ばかりのこだわりだ。  作成中の記事を保存しパソコンの電源を落としたところで、脇に置いてある携帯が癒しのハープ音を鳴らす。皇輔だ。  時計を再度チラリと見やった忍は、下がる口角を無理に上げてみた。 「もしもし、どーしたの?」 『忍さんすみません、今日の夕飯はもう作っちゃいましたか?』 「ううん、まだだよ」  電話越しに、安堵の息。ここまでくれば嫌な予感は的中だ。 『今夜もちょっと遅くなります。だから夕飯はいりません。先に休んでてください』 「そっかあ、わかった」 『忍さんのご飯を食べないと元気出ないんですけどね……明日の朝は、できればオムレツが食べたいです』 「んふふー、いいよ、作ったげる。お仕事頑張ってねえ」  かさついた冬の空気へ、かすかに声を溶かしたような「はい」が、ため息交じりに聞こえる。通話を終えた忍は頬から力を抜き、ぶすっと唇をとがらせた。 「やっぱり、またかあ……」  最近は忙しいのか、こうして夕飯を断る電話がよくあった。先々週から大体、週に二回程度だろうか。年末が近づけば毎年多忙になるのはわかっているが、今年はそれが顕著だ。  キッチンで、下ごしらえをすませて冷蔵庫に入れておいた料理をチェックする。朝食に流用できる食材をざっと確認してメニューを決め、生ものは瞬間冷凍してくれるスペースに移動させた。煮物は鍋ごと冷蔵庫へ。  あとは明日の夜、皇輔が残業にならないことを祈るだけだ。  自分の夕飯はいつものごとく面倒になって、部屋へ戻った。自分のために一人分の料理を作ることほど、虚しくてつまらない作業はない。  チェストの引き出しを開け、夕飯後に飲む予定だった抑制剤をワンシート取る。デスクに座って薬をシートから全て出した忍は、そのまま白い錠剤を口に放りこんだ。  ポリポリと、ラムネを食べているような小気味よい音が鳴る。静かな部屋にその音が響くと、無味乾燥な日々を嫌でも思い出す。  皇輔と暮らし始めるまで、学校での昼食以外、忍にとって食事とは一人でするものだった。  そこそこの財を築く資産家の父に、明治時代から続く和菓子の老舗の次女を母に持つ忍は、四兄弟の末っ子だ。アルファの両親、アルファの姉、アルファの兄が二人。当然末っ子の忍もアルファであると誰も疑わなかったそうだが、小学校四年生で実施される二次性の検査結果が出てから全てが変わった。  それまでも両親は多忙であまり一緒に食事をとることはなかったが、兄弟四人で食卓を囲めばさみしくなかった。だが忍がオメガだと知った両親はそのたった二日後、敷地内の隅にプレハブで間に合わせの離れを用意し、そこに忍を放りこんだ。  オメガが初めての発情期を迎え、孕める身体になるのは個人差はあるが大体十五、六歳だ。それまでは母屋で暮らしてもいいじゃないかと、父方の祖父母が進言してくれていたのは後から知った。だが父は病床の力ない親の言葉を無視し、アルファの兄弟と間違いがおきないよう、忍を隔離することでオメガのフェロモンに対策をしたのだ。  たかが十歳の、姉や兄に甘えて育った末っ子は、単純に「捨てられた」と認識するしかなかった。週に何度か両親や兄弟の姿を遠目には見かけたが、近づこうとすると使用人に止められ、外から鍵を閉められてしまえば離れからは出られない。  一時期、あまりのさみしさとストレスで軽い摂食障害を患ったのを心配し、ベータの使用人が時間を作っては話し相手になってくれたのを覚えている。 だけど、食事はいつも一人だった。使用人は立場と雇用契約書に阻まれ、共に食卓を囲むことができなかったのだ。  広々とした忍のためだけの城の中で、砂をかむような気持ちで食事をした。母屋のほうから笑い声が漏れ聞こえてくる侘しさは、思い出すと未だに耳をふさぎたくなる。  だけど今は皇輔と、愛する人と食卓を囲む幸せを覚えてしまった。十歳までは当たり前だった、楽しい食事を思い出してしまった。  これから先は一人でもきちんと食べるように慣れていかなければいけないが、どんな訓練をすれば慣れるだろうか。十歳の忍は、どのようにして慣れていったのだったか。今となっては、薄情なまでに思い出せない。  無心でかみ砕いていた抑制剤が、最後の一粒を終える。咀嚼していたからか、満腹になった気さえする。一際苦い歯のかみ合わせを舌でなぞり、風呂は何時に沸かそうかと時計をながめていると、携帯がまた着信を受けた。  しかし今度はハープ音ではなく、その他大勢を示すスタンダードな電子音だった。  待ち受け画面を見ると、そこには「直之さん」と表示されている。ついさっき大橋との通話中に飛び出した名前だ。気持ちの整理がつききらない今、連なる四文字を見ただけで複雑な思いに胸中がよじれる。  背もたれに預けきっていた身体を警戒するように丸め、通話ボタンを押した。 「もしもし、こんばんは」 『こんばんは、忍くん。今少しいいかな』 「はい、大丈夫です」  ありがとう、と柔らかい笑い声をこぼすのに、直之からはいつもの温かみが伝わってこない。微笑むお地蔵さまのような優しい雰囲気の代わりに、今は恐怖や不安で強張っているような声だった。 『あれから……どう?』  濁した問いが何を示しているのか、わからないほど鈍くはない。忍は淡々と、正直に、自分が感じている印象を口にした。 「特に、何も……いつも通りですよ」  皇輔と詩織が運命のつがいだと判明して約一カ月経ったが、皇輔との関係は以前となんら変わらない。あいかわらず喧嘩もなく、仲良く一緒に食事をしたり、まったりとテレビを見る。  明らかに変わったといえば、忍が取りつかれたように「この時間が長く続きますように」「どうか明日も一緒にいられますように」と、卑しく祈り続けていることくらいだ。 「どうして、そんなことを?」  直視したくない自分の未練がましさを反芻させられ、気落ちした忍が訊ねる。  すると彼はいやに無感情な声で、抑揚なく質問を返してきた。 『本当に、いつも通りかな』 「……? 何が言いたい、んですか?」 『残業や、夕飯のいらない日が増えてない?』  胸の中心に掌底を食らわされたかのように、その部分が詰まって喉からおかしな音が鳴る。  直之は悲しそうに「図星だね」と、笑い声のフリをした嘆きを唇からこぼした。 『詩織と皇輔、会ってるよ』  そんなわけない、と言おうとして、直之がこんな質の悪い冗談を、わざわざ電話をかけてきて忍に告げるような男でないことを思い出した。  もはや忍が口にできる言葉はない。音になり損ねた息が漏れると、まるでそれは嗚咽のように聞こえた。 『大橋が取材中、本当に偶然、詩織と皇輔が外で会っているのを見たらしい。それから僕に事情を聞いて、僕と君を心配して、独断で二人を張っていたみたい』 「……大橋さんが」 『そう。大体週に二回程度、皇輔は定時で会社を出て、詩織のマンションに行くんだ。数時間ほど二人きりで部屋にいるみたいだね』  つい先ほど、大橋が電話口で匂わせた話題はこれだ。直之から聞いてないのであれば自分からは言えないと思ったのだろう。  大橋と皇輔は、多少面識がある程度の知人だ。だから関りの深い直之と忍のことを本気で心配してくれているのはわかる。  だけど――でも、だったら。  余計なことを、しないでほしかった。見て見ぬフリをしてくれれば、まだ、気づかないでいられたのに。  どこまでも自己中心的で卑しい自分が消えてほしいくらいに嫌で、椅子の上に両脚を立てて抱き寄せた。膝に頬を乗せ、目を閉じる。直之の言葉を聞き逃さないよう、携帯はしっかりと右手で耳に押しつけた。 「じゃあ、今日もなんですね……?」 『……いくら大橋の言葉でも信じたくなくて、今日は僕自身の目で確認したよ。皇輔がマンションへ入っていくところを』  完膚なきまでに反論の余地は握り潰されている。忍はただ渡される事実を受け取って確かめ、抑制剤なんかよりずっとずっとまずいそれを頬張って咀嚼することしかできない。  悲しい。つらい。苦しい。皇輔の口から詩織の名前が出たとき以上の嫉妬で頭が狂いそうだ。  その裏側では、感情論の及ばない場所で静観する忍が、「運命のつがいと出会ったんだから当然だよ」と、自分自身を嘲笑っている。  せめぎ合う感情が身体の中でぶつかり、火花を散らす。振りかざした正義が切りつけた想いは血だらけだ。  それでも皇輔と詩織を責める気持ちは、本当に、一切、不思議なほど湧いてこなかった。  昔、「佐久本さんはオメガだからか、なんでも受け入れようとする気質がありますね」と、皇輔に言われたことがある。強姦されたあとに何もかもが面倒になり、「仕方ないよ」とつぶやいた忍を、優しく苛烈に非難する、彼の思いやりが放った一言だった。  オメガである自分を嫌がるくせに、抗おうとはしないのか――そう言われて、ようやく忍はあきらめないことを自分に課した。苦手なはずのオメガ相手に、悔しそうな様子で手当てをしてくれる皇輔の思いやりこそ余すことなく受け入れたかったからだ。  だが今回ばかりは、颯爽と現れて安心させてくれるヒーローはいない。忍にできることといえば、静かにのみこんで受け入れることだと思った。 「そう……ですかあ……」 『ごめんね。君はきっと、聞きたくなかっただろうに』 「……けど、知らないままでいるわけにも、いかないですもん……まだ全然、整理ができてないですけど……」 『うん、僕もね……どうしたらいいかって考えてた。だけど未だに腹は立たないんだ。不思議だったけど、さっき皇輔がマンションに入っていくところを見て、わかったよ』  かすかな相づちを返すと、直之は心細そうに囁く。 『あの場で止めることもできたし、怒鳴りつけて争ったってよかったはずなんだ。でもしなかった。僕はあの子を詩織のもとへ見送った。これはね……僕の贖罪なんだ』  不穏な響きには、冷え切った希望が包まれている。底の見えない深みに心を沈める直之は、まるで微笑むオフィーリアだ。 『皇輔がハイクラス種だって診断を受けて、すぐだった。父は皇輔に、子どもらしく泣くことも、大声で笑うことも、喜ぶことすら禁止したんだ。それまでは外で走りまわって、泥まみれになって虫を捕まえてくるような子だったのに、抑圧され続けて……皇輔はまるで綺麗なお人形みたいになった』  話に聞いていた「感情を抑制する訓練」のことだろう。齢十歳の太陽の匂いがする皇輔がいかに歪まされたかを思い、忍は前髪をくしゃりと痛いほどに握りこんだ。 『欲しいものをもらえなくなって、欲しくないものをたくさん与えられて、後継者として育てられたんだ。僕は普通のアルファだから後継者から外されて、葛城本家の長男とは思えないほど自由に育てられたけど……無表情でおとなしい皇輔を見るたびに、僕がハイクラスじゃなかったせいで、あの子は何もかも我慢して可哀想な目に遭ってるんだって負い目を感じてた。だから……だから、ね』  言い淀んだ直之が何を決めたのか、何を躊躇しているのか、聞きたくはない。耳を塞げないなら、取り外してベランダの外に投げ捨ててしまいたい。できないし、しないけれど、それが本音だった。続く言葉がわかるから、余計に。  だって直之は愛している。皇輔も、詩織も。 『二人のためになるなら、身を引こうと思う』  予想通りでも、いざ聞くと身がすくむ。 『運命まで、あの子から取り上げる兄にはなりたくない。君は――どう思う?』  彼は意見を聞きたいわけじゃなく、賛同してほしいのだと察していた。不安だからだ。大切な人を手離し、自分の中に空虚な穴を作るのが怖くて、泣きたいくらい嫌で、一人じゃ押し潰されるのを予感している。だから共に苦しむ仲間を欲している。「やっぱり嫌だ」と叫びたくなったとき、自分一人じゃないと思えたら、それはストッパーになりえるだろう。  直之は皇輔と詩織のためだけに、自分があとに退けない状況を作りたがっていた。  痛々しい自己犠牲と深い情を前に、忍は一体、どんなに人でなしであれば首を横に振れただろう。 「俺、も……同じ気持ち、です」  ずず、と鼻を啜る音が聞こえ、優しい彼が涙ぐんでいることを知る。唇をかみしめて呻く悲痛な声を聞きながら、忍は歪なつがい生活の限界を認めざるをえなかった。 「俺は……その、子どもができない、です。だから皇輔に何もあげれなくって、今までたくさん幸せにしてもらったのに……なんにも返せないから……」  皇輔と詩織が魂でつながっていることを知ってからずっと、忍は自分が皇輔のつがいでいられる時間を延ばす方法ばかり考えていた。  思えば皇輔との関係は、最初から最後まで忍に都合よくできている。それはひとえに、自分のためになるよう絵を描いたせいだ。 「これからは皇輔の幸せのために何ができるか考えたい、です」 『君なら、そう言ってくれるって、思っていたよ』  ありがとう、と感謝を示される違和感については、何も言わなかった。直之と皇輔の声がそこそこ似ているせいで、皇輔に「ありがとう」と引導を渡されたようで泣きそうになる。  だが泣かない。泣けない。悲しむ資格のない忍は、ときおり鼻を鳴らす直之に自分の苦しさを勝手に預け、重ねた。  オメガ嫌いな皇輔が、それでも惹かれた運命のつがいだ。詩織もそれを受け入れている。直之と忍に黙ってでもそばにいたがっているなら、二人にはきちんと幸せになってほしい。  忍は大切な人が幸福でいられる世界の端に存在できれば、それでいい。 「十年も、つがいでいてくれました……から。もう、十分です」 『怖くはない……? この先、一人で』 「怖くないです。一人じゃないです。平気ですよ、……だって」  危ない目に遭わないよう守り、危険なときは探して助け、間に合わなければ一番心を痛めて傷に優しく触れてくれた。  そして甘え癖のついたオメガに乞われるまま、つがいにしてくれた。十年もの間、なんの不平不満も言わず、とびきり優しくして、そばに置いてくれた。 「俺はたくさん、幸せです」  これが忍の選んだ、運命だ。  長い間、自失していたらしい。  直之との通話を終えて携帯を握ったまま、我に返って時計を見ると二十一時を少し過ぎたところだった。酷い虚脱感で椅子に溶けて伸び広がりそうな気分ではあるが、明日の支度をすませておきたい。  忍はそれから、無心で家事に没頭した。  風呂を洗って湯を溜める。取りこんだ洗濯ものを綺麗にたたみ終えるとハンカチにアイロンをあて、朝から気になっていたテレビ台付近の埃もマイクロファイバーのハンドモップで除去する。  やり切って満足したところで、玄関から開錠する音が聞こえた。いつもなら心が躍るのに、今日は背筋が少しヒヤッとする。  玄関扉が開いて、閉まる音。4LDKの広々としたこの部屋はリビングから廊下へ出て、右手の突き当たりを曲がらないと玄関が見えない。だからついつい、廊下を歩く足音に耳をそばだててしまう。  足音は角を曲がり、バスルーム、脱衣所の前をすぎて、リビングの扉が開いた。 「お帰り、皇輔。お疲れさま」  いつも通りを意識して、明るく声をかけた。  皇輔は忍に気づくと、どうしてかハッと目を見張る。何にそこまで驚いているのか、広い肩がきゅっと上がった。 「っどうして……」 「皇輔?」 「いえ……なんでも。すみません、俺はもう休むので……おやすみなさい」 「え、ちょ、皇……」  呼びかけが耳に届いていないかのように、皇輔はまっすぐ自室へ消えた。 パタンと閉じる扉の音は、荒くもないのに拒絶に聞こえる。不安に駆られ、心音が気になるくらい静かなリビングで立ち尽くした。  一体どうしたのだろう。  あんなに素っ気ない皇輔を、忍は知らない。  今までどこにいたのか――なんて面倒なことを偽つがいの分際で訊く気はない。けれどなぜ顔を見て驚いたのか、忍が何かしたのか、それくらいは訊いても許されるはずだ。  口実代わりにたたんだ服を抱え、そろりと皇輔の部屋の扉へ近づく。 もう俺は、ここにいるのもだめなのかな。  しきりに浮かぶ不安を、冷たくてもいいから、一言でいいから、否定してほしかった。 「……?」  扉をノックしようとしたが、その手で口を押さえる。中から彼の息遣いが聞こえたからだ。押し殺しているのに荒く、そして艶っぽい。ときおり混じる鼻にかかった「んっ」という声が、忍を後ずさらせた。  何をしているか、などと無粋な疑惑を抱いたりはしない。  可能な限り音を立てず、すり足で数歩下がる。それから洗濯ものを抱えたまま、忍は自室へ飛びこんだ。忍の自室には、「発情期に怖い思いさせたくないから」と言って皇輔が鍵をつけてくれている。だが閉めると彼を危険視しているように思えて普段はかけないそれを、後ろ手に閉めた。ずるずると扉に背を預けたまま座りこむ。  自慰をしていた。皇輔が、扉一枚隔てたあの場所で。きっと、さっきまで一緒にいた運命のつがいを――詩織を欲して、健気に、一心に。  これまで皇輔のそういった痕跡を見つけたことはなかったし、匂わされたこともなかった。自室の掃除は彼自身が行っているし、ゴミの回収なんかも皇輔はきちんと自分でやる。  初めて目の当たりにした彼の肉欲と息遣いは、忍をおかしな気分にさせた。  発情期に入って感じる、抗えない衝動のような無粋なオメガの欲とはまた違う。  皇輔の発情を感じて、皇輔に触れたくて、皇輔に触れられたくて、皇輔を欲しがる――どうしようもなく熟れた、皇輔に恋する男としての欲情だった。  抱えた服に顔を埋める。右手でジーンズのベルトを外してフロントをくつろげると、感化されてふくらんだ性器が下着の中で窮屈さを訴えていた。ジーンズごと下着をずらし、可哀想に熱くなったそれを取り出して握る。  だめなのに、と思いながら息を吸えば柔軟剤の香りがして、別段皇輔の香りではないのに興奮した。目を閉じ、匂いを嗅ぎ、シャツを着ている皇輔を想像し、快楽を追う。息遣いを思い出しながら、右手を上下させる。  彼はこのシャツに袖を通し、内側から胸筋でパツンと張らせる。袖を折ると太い血管を浮かばせた腕が現れて、たまらなく雄くささが匂い立つ。あの引き締まった男の身体に、抱きしめられたなら。 「はぁ……っ皇輔、皇輔……」  指で作った輪でこすり、張り出した亀頭を掌のくぼみで撫でて、くびれを中心に刺激を与えていく。そこに熱が溜まるような感覚を覚え、無意識に腰がカクンカクンと揺れた。 「ぁ……う、ん、……ふぅ……っ」  じょじょに膝が開いていき、床へ踏ん張る爪先に力がこもる。自分の身体が射精へ向けて、準備を整えていく。はしたなく快感で埋め尽くされた思考は、横恋慕の背徳を取りこんで男の痴態を思い描いた。  喉から手が出るほどに、皇輔が欲しい。  触れてもいない後孔が、アルファを求めてそこを潤ませているのがわかる。だけど忍は、緩んで切なげに疼く身体の訴えを無視する。  オメガに産まれなければよかった。  そうすれば、こんなに彼に近づくことはなかった。そうすれば、こんなにも、恋をすることはなかった。 「――……ッ、ふ……おー、すけぇ……」  ドク、ドク、と吐き出す精を手のひらで受け止めながら、身体を丸めた。  かき抱いて、顔を埋めていたシャツは濃密な呼気で湿り、しわがついている。それを見ていると皇輔という大切な存在を汚してしまった気がして、虚しくて、一丁前な白濁で汚れた手を握りしめることしかできなかった。  顔が見たい、声が聞きたい、触れたい――性懲りもない欲望に冷笑を浴びせる。  こんなに汚れた手じゃ、誰も握り返してくれない。
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