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「──では、また改めて契約にお伺いします」
取引先への営業を終え、君島の運転する営業車の助手席で筧は大きく息を吐いた。
数カ月前から足蹴く通っていた取引先でようやく契約了承の返事を貰えたところだった。 まだ辺りはずいぶんと明るいが、時計を見るとすでに夕方五時をまわっていた。
「今日、このまま戻るか」
「はい」
君島と一緒に仕事をするようになって一カ月。
極めて客観的にこの男を分析するとすれば、頭の回転が早く理解力も抜群。柔軟なコミュニケーション能力も持ち合わせており、取引先からの受けも悪くない。部下としてならば限りなく優秀といえる。
「筧さん。このあと飲みに行きませんか」
営業車に乗り込みハンドルを握った君島が言った。
「あー? 何で」
「何でって。せっかく契約も取りましたし。お祝いですよ」
「……おまえと、二人で祝ってもなぁ」
「ケチくさ! 森田なんて、三井さんにもう何度も飲みに連れてってもらってるそうですけど」
「……」
そう。この後輩にあるまじき図々しさと口の悪さを除けば。
「筧さんには後輩を労おうとか、そういう気持ちはないんですか」
「それを言うなら、おまえがお世話になってる:先輩(おれ)を労え」
「じゃ。俺が奢ります」
「それはそれで、余計気が進まんわ」
なぜかこのイケメンは俺を構いたがる。
「いいじゃないすか。たまにはー」
「あのなぁ。俺じゃなくても他に誘ってくれるやついるだろ? 何だっけ……受付の女の子たちとか、企画部の男共とか」
あんなカミングアウトのあとも、それはそれ、と割り切る女の子たちの誘いは耐えないらしい。所詮、ゲイだろうが、ちょっとばかりおかしなところがあろうが、イケメンならば許されるというやつ。
最近じゃ、ゲイだと公言したことが功を奏して、サクラ的な意味で男性社員たちから合コンの誘いも絶えないらしい。
「だから。そーいうのは面倒なんすよ。イイ顔するのも疲れるし」
「俺の前でもイイ顔しろよ」
「仕事中はしてるじゃないっすか。筧さんには最初からいろいろ見られてるし、今更……っていうか」
どうだろう、この言い草。最初に変な関わりを持ってしまったために、妙に“素”で絡んでくるあたり面倒くさいことこの上ない。
「おまえ、酔うとタチ悪いからヤダ」
「何がです?」
「覚えてないならいいよ」
「“お礼”させてって言ったやつすか?」
「──っ」
覚えてんじゃねーかよ!
「おい。君島、信号変わった」
筧が前を見たまま言うと、君島が静かにアクセルを踏む。
「アレ、あながち冗談でもないんですけど」
冗談じゃないなら、尚の事タチが悪いというものだ。
「おまえ、なんだって俺に構うんだ?」
「──だって、筧さんも俺側の人間だから」
君島がチラとこちらを見、左にハンドルを切りながら答えた。
「……は?」
君島が隣で小さくと笑うのと同時に、自分の顔が引き攣るのを感じた。
「図星、でしょ? 筧さんは俺と同類だ」
「……何言ってんだ」
今まで、自分がゲイだということは誰にもバレたことはなかった。学生時代から今まで──親はもちろん、近しき友達にも。
自分がそうであると自覚して、それを冷静に受け入れた。この先どう生きるべきか選んだのは自分自身だ。
べつに“普通”になりたいとは思わない。けれど、“普通”でいるほうがラクに生きられる。 世間の偏見や差別をかわす術を他に思いつかないからだ。
「俺、分かっちゃうんですよ。あ、筧さんはそういうのないですか?」
「……俺は」
訊ねられて筧は言葉に詰まった。言われてみれば確かにそうだ。どんなにその“普通”を隠れ蓑にしていても、同族の人間のそれは勘で嗅ぎ分けられることが多い。
「最初見たとき、すぐ分かりましたよ」
余程表情が硬かったのだろう。君島がすぐに言葉を続けた。
「そんな怖い顔しないでくださいよ。あなたが、そうしてる気持ちもわからない訳じゃない。むしろ、分かり過ぎるくらい分かるっていうか」
「──じゃあ、何が目的だよ」
「べつに。ただ、楽しくやれたらなってだけですよ。……というわけで、せっかくの週末なんで飲みにでも行きません?」
結局、そこに戻るのか。しかも半ば脅しみたいなもんじゃねぇか。
「それ、脅迫って言うんじゃねーの?」
「人聞き悪いな。駆け引きですよ」
そう言って余裕の笑みを浮かべたコイツに、関わらなければ良かったと本気で思うのはもう少し先の話。
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