と、言って恋は始まる

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と、言って恋は始まる

 耳かきは煤竹(すすたけ)の極細と決めている。  石鹸や入浴剤は無香料、タオルは白の無撚糸、風呂上りのミネラルウォーターはパールカイザー、ベッドシーツは100%オーガニックコットン、そこまでが俺のマストアイテムだ。 「いい加減、メンドクサイ」  彼女は同棲を解消して部屋を出て行った。  「絶交よ」なんて言葉は子供のものだと思っていた。その語調には仲直りの意図を含む無邪気さがあって、そう深刻になるものでもないと思っていた。二年と九ヶ月、振り返ってみれば、ほつれた絲の先を引っ張り合うような日々だったかもしれない……。 「それがどうして、半年も経って連絡してくるんです?」  齧りついた鎖骨に珈琲豆の香。外は雨。  俺の腕の中で口の端を緩めた男はビクリと背を反らせ、後孔に銜え込んだ二本の指を逃すまいと締めつけてくる。浮かせた腰を挑戦的に俺にぶつけ、重なる熱の昂ぶりに愉悦の笑みが零れた。 「……彼女は郷里へ帰ったよ」 「バスターミナルにいたのは、ぅ……ん、とめっ、止めるつもりで?」 「いや、荷物を運ぶのを手伝わされただけだ。ほら、イイとこ教えて」 「『だけ』ってそれ未練!ちょ、せっかち……キスもまだ……」 「キスはしない」  ジクジクと汗ばんで匂い立ってきた男の中を指で掻き回し、前を硬くして自分で慰めようと手を伸ばすのを払い、うつ伏せに組み敷いた。耳に残る彼女の『見送らせてあげる』が遠ざかっていく。解っていた。解っていて気づかないフリをした。高慢な物言いに隠した未練に、まだそんな可愛げも残していたのかと思っても、俺には薄情なまでに何の感慨もなかった。つまりは、とっくに終わっていたんだ。 「ところで、名前は?」 「……っ、ぁああ……なっ…ん、このタイミング?」 「呼び合う方が感じるだろ?」 「アンタ……そりゃ、フラれるよな」  品のいい口ぶりは崩壊、アンタ呼ばわりがこの男の地なのかも知れない。  「一秋(かずあき)だ」と耳許へ囁くと、男は「(かえで)」と荒い息をついてシーツを掴んだ。歳は二十代半ばというところか。襟足を短くした黒髪の項に黒子(ほくろ)が一つ、指の吸い付くほどに潤う背に目測八センチの爪痕を刻まれ、何度も辿りたくなる背骨は双丘へと俺を誘う。 「……っん、ふ……来れるトコまで挿入(はい)っていいよ……」  セックスしながら別れた女の話とはナンセンスだが、俺が始めたわけじゃない。もっとナンセンスなのは、楓とは数時間前にターミナル駅の改札で知り合ったばかりということだ。もっとも彼は俺を見知っていて、行きつけのカフェのスタッフだと俺が気づかなかったのだが……。 「こんばんは。幸い貴方は傘をお持ちで、私の家は近くです」  踏切の故障で電車が運転見合わせになり、駅員が原因の究明と振替え輸送の案内に奔走する中、俺は楓に腕を掴まれ雑踏から連れ出された。  一つ傘で駆け込んだワンルームマンションは十軒ほどの瀟洒(しょうしゃ)な造りで、男の一人暮らしとはいえベッドと小さなソファーだけが窮屈に納まったうら寂しい部屋だった。シャワーに押し込まれ、背格好の変わらない彼のシャツを借り、珈琲でもと小さなソファーに肩を並べた頃になって俺は段々この状況が滑稽に思えてきた。 「中々、稀有(けう)な体験だ」 「もっと、踏み込んでみます?」  古い恋を忘れるのに秋は良い季節ですと酒を勧められ、男の形の良い唇が象った言葉に目を(みは)ってからの記憶が飛んでいる。 『オレヲダイテミマセンカ?』 魔が差すと言うのは、こういうことを言うのかも知れない……。 「どうだった?」  そう訊かれて、すぐには言葉も無かった。「()かった?」と訊かれて、頷く代わりに楓の頭を撫でた。天井を仰ぐ楓は自分の嗄れた声を笑って気怠そうに身体を伸ばしている。 「俺ね、ゲイバレしてカノジョにフラれたばかりでさ。いい子だったんだよ?年上のシッカリ者でサバサバと良く笑うんだ」 「へぇ……」  変わった男だと思った。男に抱かれた後でする話でもないだろうと、気のない相槌(あいづち)を打つ。 「一秋はさ」 「一秋さん、だ」 「え。セックスの間は呼び捨てオッケーで終わったら禁止?」 「馴れ馴れしいんだよ」 「ちぇっ」  不服そうな楓の顔がチョット可愛いなんて、俺もどうかしている。 「じゃあ、一秋さんはさ、気が強そうに思っていた女の子の泣き顔って絆されない?」 「どうかな?」 「店で……泣いていたんだ。カレシと別れたって。珈琲を淹れてあげたら夏にどうしてホットなの?って言うし、アイスコーヒーにしたらストローを抜いて一気飲みだよ、笑っちゃってさ。でも、泣き顔がクシャクシャの笑顔に変わったから良かったって素直に思ったんだよね。たまに見かける顔だったし、何となく放っとけなくてさ。それからは店に来るたび身の上相談みたいな話をするようになって、ある時、好きになったかもって言われた。それがキッカケ……」 「よくある話だ」 「……うん。そうかも……」  楓はフッーと息を吐いて、シーツの端を引き寄せた。  正直、俺は何を聞かされているのだろう?と思っていた。更に()せないのは、このモヤモヤとした気分だ。つまらないという言葉が口をついて出そうだった。 「彼女、別れた男の話ばかりするんだよ。俺に優しかったし、そんなつもりはなかったんだろうけど、三十四才の長身イケメン高学歴商社マンだってさ。車の運転が上手で俺と違って車庫入れも一発で?美味しい店を知っていて猫舌が可愛くて人参が苦手。綺麗好きで煙草を吸わないのは良いけど、時々、度が過ぎて面倒臭いんだって。でも、誕生日には欠かさず花を贈ってくれるんでしょ(・・・・) ?」 「ちょっと、待て」  誰の話をしているんだ?と思った。それは俺じゃないのか?という言葉を呑んで、俺は相当、訝しげに楓を見たに違いない。 「待たないよ。俺だって知ってる。珈琲はオーガニックコーヒーで砂糖なしのクリーム少量、一人の時はベリーのタルトで女性と一緒の時はベイクドチーズケーキ。週末は時折、店自慢の特製プリンを買って帰るよね。英語がペラペラ、良く解らない言葉もペラペラ、今日のネクタイはお気に入りのたぶんベスト2……知ってる。だって、俺の方がもっと先に一秋さんのこと好きだったんだから……」  すぐには何を言っているのか解らなかった。  ベッドサイドの抽斗(ひきだし)から楓が取り出したのは、俺が愛用する煤竹の極細耳かきのパッケージ。ザワザワと胸が騒ぐ。彼女しか知らないはずだ。(あかね)しか知らないはずなんだ。 「君は一体……」 「楓って呼んでよ」  今にして思えば、脱衣所に整然と積まれたバスタオルは全て白の無撚糸だった。汗を掻いたボトルは飲み頃になったパールカイザー、肌触りの滑らかなシーツは見目良い男と戯れるのに何の嫌悪感も抱かせず、それどころか飽くなき欲にまだ熱が冷めないくらいだ。 「新しい恋を始めるのに秋は良い季節だよ、一秋さん」 「あまりにホラーで驚くね」 「キスして欲しいって言ったら……だめ?」  雨だれの音が優しいから、それはほんの気まぐれだったかもしれない。 「しても……いいかも」  元カノの元カレが今、俺の隣で眠たげに腕を引くんだけど、この続き、もっと聞く?                 
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