786人が本棚に入れています
本棚に追加
/150ページ
後日譚
軽く辺りを見回してから、ふあ、と雛はあくびをした。ここは菖蒲の屋敷の中で、別にあくびのひとつくらいしたところで誰にも咎められることはないのだが、例えば二葉などに見つかるのはあまりよろしくない。「菖蒲様になかなか寝かせてもらえなかったのかしら?」などとからかわれることになるからだ。
雛が立っているのは、台所である。昔は酒の肴を用意する程度にしか使われていなかったようだが、雛が住むようになってからは主に雛の食事を作るための場所になった。屋敷に来てからの数年間、雛が料理をすることは一切なかったが、二十歳を越えてから少しずつ練習を始め、今ではそれなりに作れるものも増えてきている。
料理だけでなく、洗濯や掃除など、自分の身の周りのことはできる限り自分でするようになった。自分の世話もできない人間が、他人の世話を焼くことはできない。彼との子どもを望むなら、まず雛が改めるべきはそこだと思ったのだった。
「あれから、もうすぐ十年か……」
雛はこの夏が終われば三十になる。好きなひとの子どもを産むと決めてから、いろんなことがあった。産んであげられなかった子もいた。初めて知った感情が、いくつもあった。
雛は水道の蛇口を捻り、ハンドソープで手を洗い始めた。白い泡が流れていくのを無心で見つめる。今がどんなに幸せでも、幸せだからこそ、忘れてはいけないことがあると強く思う。
手の泡がすっかり落ちきった頃、後方からさあっと涼しげな風が吹いた。
「早いな」
「……菖蒲さん」
あやかしである彼の外見は、髪の長さ以外初めて会ったときから変わることがない。
「少し、早く目が覚めたので」
「今日も仕事か?」
「はい。明日と明後日がお休みです」
仕事は今も継続していて、パートタイムの保育士として芹の下で働いている。年少クラスの副担任という位置づけで、あやかしの子達が人の世になじめるようサポートするのが雛の役割だ。子どもとは言えあやかし相手の仕事はハードだが、やりがいはある。
「そうか。無理はするなよ」
「大丈夫ですよ。昔ほど、身体が弱いわけでもないですし」
「おまえの大丈夫は、あまり当てにならない。春先に倒れかけたのを忘れたか?」
「う……」
新年度で仕事が立て込んでいて、熱が出ていることに気づけなかった。ただの風邪で大したことはなかったのだが、忙しくとも休みは取れ、と菖蒲に叱られたことは、苦い思い出として残っている。
「気をつけ、ます」
「ああ」
恋人どうしになる以前も、彼は十分雛に甘かったが、今はその比ではない。溺愛、などと小鳥たちには揶揄されているが、それに近いものがあると思う。随分と甘やかされている自覚はある。
「今日は俺も少し出かけるが、夜には戻る」
「分かりました」
頷き、微笑むと、彼の手が雛の後頭部にかかった。軽く引き寄せられ、口づけられる。
最初のコメントを投稿しよう!