ニューヨーク・シティ・ナイツ

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その日の午後遅くなってから、自分の部屋で寝ていると、ノックの音がして目がさめた。覗き穴で確認してドアを開けると、三澤さんと小森さんは僕を押しのけるようにして部屋に入って来て「スイートルームに行ったけど誰も出てこなかった」と言った。 「だけど、二時頃に松木君と一緒に帰ってきたからいるはずなのになぁ」そう言って窓を見たら、いつの間にか、外は暗くなっていた。 小森さんがベッドの縁に座って、現像に出して戻ってきた写真(デスクの上に置いてあった)をひょいっと手にとり、めくって見ながら、ジョン・レノンの命日の日にストロベリー・フィールズで撮った一枚の写真をちょうだいと言ったのであげた。 三澤さんは「大野、なんか楽しいことないのか? 今日はクリスマスなんだぞ」両手を頭の下で組み、ベッドにあおむけに横たわって天井の弱い明かりを見つめながら言った。 「そこの中華料理でも食べに行きます?」小森さんが聞くと、「中華?」と三澤さんが呟いた。「もう飽きたなぁ」 「あ、そうだ」僕は思い出したように言った。「今日、松木君と二人で声をかけた女性がいて、電話番号をゲットしたんですけど、かけてみます?」 「可愛かった?」と三澤さんが聞いてきたので、「お嫁さんにしたくなっちゃうような人でした」と僕は言った。 それを聞いた小森さんが、お嫁さんにしたい代表的な女優の名前(竹下景子や市毛良枝)をあげて「今は誰だけ?」と聞いた。 ちょっと前まで、金子信雄の楽しい夕食に出演していた東ちづるがそう言われていたので、「東ちづるじゃないっけ?」そう言って僕は小踊りしながら三澤さんに電話してみるか聞いた。 三澤さんは「してみな」とウケた。「大野お前、東ちづるみたいなのがニューヨークにいるか? ヘソや鼻にピアスしてるのばかっりじゃねーかよ」 そんな三澤さんの個人的な意見はさておき、僕はカバンの中からノートをとり出し、最近引いた自分専用の固定電話(ロドニーに頼んで電話会社について行ってもらって、つけてもらった。それだけでなく、その際にケーブルテレビも見られるようにしてもらった)の受話器に手をのばし、走り書きされた番号にダイヤルした。 呼び出し音に耳をすましていると、受話器の向こうからヒトミさんの声がした。 『ハロー』 「あ、今日、英語学校の建物の前で声をかけた大野ですけど、覚えていますか?」   『あー、はい、はい』 7時間前のことだから、ヒトミさんは覚えていてくれた。 今なにをしているのか聞くと、『今ですか?』と、ヒトミさんは教えてくれた。『昼間の友達の女の子があさって日本に帰っちゃうので、それで二人で話していたとこなんです』 それを聞いた僕は、事情を呑みこみ「あ、そうなんだ、じゃあまたかけ直します」そう言って電話を切った。で、受話器を置いた僕に「なんだって?」と、三澤さんが聞いた。 「なんか、友達があさって日本に帰っちゃうみたなんですよね、だから、遠慮したほうがいいかと思って……」二人に言ったその時、今受話器を置いた固定電話のベルが勢いよく鳴った。出てみると、ヒトミさんだった。当時はナンバーディスプレーなんかないから、「なんでこの電話番号わかったの?」僕は驚いて聞いた。すると、詳しくはわからないけど、掛けてきた番号に折り返しかけられるようなことを言ったあとに、どう思い立ってか知らないが受話器の向こうから、『大野君もこっちに来たらどうかなって、今友達とそんな話をしてたとこなんです』と、ヒトミさんが言った。『もしよかったらうちに遊びに来ませんか?』 これは予想像外の出来事だった。 それを敏感に察知したのか、三澤さんと小森さんがこっちを見ていた。だから友達も一緒に連れて行ってもいいか尋ねてみると『何人で来るんですか?』ヒトミさんが答えて、三人と言おうかと思ったんだけど、松木君も誘ってやろうと思い、四人と答えた。そして、ヒトミさんの住所を聞き、電話を切り、二人に話しながら、今度はホテルの電話の受話器を上げ、スイートの番号をダイヤルした。一階の101号室に内線電話をかけた。だが、応答がなかった。 「まだいない?」と小森さんが言った。 僕は「どうする?」と聞いた。 三澤さんが「いいよ、あいつは連れて行かなくても」って言うもんだから電話を切った。で、松木君は出かけたにちがいないと思い、三人で下に降りて行き、フロントの前を通り抜け、右のスイートルームではなく、すぐ左のプラスチック製のドアを開けてホテルを出た。そして八番街のデリカテッセンでビールの六缶パック二つとポテトチップスを仕入れてから店の前でタクシーを拾って、ヒトミさんのアパートを目指した。 薄汚れた窓から外を眺めていると、信号の光が次次に見えては消え、通り過ぎてく夜の街並みは後ろに流れていき、街灯の光に照らしだされた石畳の道の上でタクシーは止まり、そこで降りた。 そして電話で聞いた住所の番地を探しあて、ヒトミさんのアパートの門の前でインターフォンを押すと、門の鍵が開いた。何だか妙に気持ちがはずんだ。エレベーターに乗り、部屋の前に着いて、ドアをノックすると、足音が向かってきて、とろけるような甘い声がした。 「はーい、今、行きまーす!」 続けて、胸をくすぐられるようなチェーンロックを外す音のあとに、ドアが開いて、ヒトミさんが顔を出した。 「ここすぐにわかりました?」 「わかったよね」そう言って僕が肩越しに後ろを振り返ると、三澤さんは、そらみたことか、とでも言いたそうな嘲笑を浮かべていた。なぜかと言うと、東ちづる、いや、ヒトミさんの唇に火の点いたタバコが咥えられていたから、三澤が咳払いをする。 「どうぞ」とヒトミさんが言って、三人で靴をぬいで上がって行くと、昼間のヒトミさんの女友達がフローリングの床に座っていた。あと、仔犬がじゃれて来た。ヒトミさんの女友達がその子犬を呼ぶ。 「バディ、いい子だからおいで」   子犬はなおもじゃれてきた。 ヒトミさんはキッチンの換気扇の下で、口から煙を吐いて、左手でタバコを持ち、目を細めながらズボンの太ももを叩いて、「カモーン バディ ストップ イット!」英語でその仔犬を呼んで抱き上げる。 「なに、英語でしつけてんの?」三澤さんが聞いた。 「うん、そう」ヒトミさんは可愛らしく頷いて僕たちに言った。 「そこに座って」 僕たちはいわれたとおり三人でベッドの脇にゆったりとあぐらをかいて座った。それからほんの二、三分しか経たない気がしたとき、インターフォンが鳴って、若い男女の二人がやって来て、僕たちを見ながら、黒い革のジャケットを羽織った半ズボンに網目のくっきりしたストッキングをはいたショートカットの女の子がヒトミさんに聞いた。 「誰この人たち?」 抱えていた仔犬をその女の子に渡したヒトミさんは、片足をくの字に折り曲げるようにして立ったまま壁に寄り掛かって、こう答えた。 「雅美さんと同じ英語学校に通っている大野君と、その友達みたいよ」 黒い革のジャケットを羽織ったショートカットの女の子と一緒に来た男が、僕の隣で女座りをしている雅美さんに聞いた。 「雅美さんの友達なの?」 雅美さんはこう答える。 「私じゃなくて、ヒトミさんの友達じゃないの?」 「雅美さんと同じ学校の子が、どうしてヒトミさんの友達なの?」黒い革のジャケットを羽織ったショートカットの女の子が聞くと、ヒトミさんは可愛らしく首をかしながら僕に言った。  「どうしてだろうねぇ、大野くん?」   そんなヒトミさんを抱きしめたいと思いながら、にやりとしていると、小森さんの隣であぐらをかいて座っていた三澤さんが袋から取り出したビールを手に取り「とりあえず、じゃあみんなで乾杯しようか」と言い、黒い革のジャケットを羽織ったショートカットの女の子は、信じられないように目を丸くして驚いた。だから、みんなが彼女を見つめた。彼女はこう続けた。「だってサヤカ、あの人が日本人だと思わなかったんだもん。だから来た時から、あの人に英語で話しかければいいんだろうかって迷ってたの。そしたら、あの人が今日本語を話したからビックリしちゃったの」 小森さんと僕の目が合って、思わず無言のまま微笑みを交わした。たしかに僕たちも最初三澤さんのこと見た時の印象は外人に見えて、どこの国の人か分からなかったもんな。 くすくす笑っていたヒトミさんたちが聞いてきた。 「ねえ、どこに住んでるの?」 だから、ホテルに住んでるよ、と教えたら、ヒトミさんたちは一瞬顔を見合わせて、どこのホテルか聞いてきた。なのでホテルの名前を教えてあげると、また黒い革のジャケットを羽織った、ショートカットのサヤカって女の子が信じられないように目を丸くして驚いた。ちゃかすような口調でこう言った。「ウソでしょう! あんなところに日本人が泊まっても大丈夫なの?よく殺されないね?」 「え、どこどこ?」ヒトミさんたちの間でささやきが起きて、きれぎれに「ものすごい汚たないんだって」「52丁目の」というような言葉が聞こえて来る。「バスルームにウンコが落ちているらしい」とかそんなことまでつけ加えてサヤカちゃんがホテルのことをヒトミさん達に教えているのを、黙って聞いていられなかったんだろうな、きっと。 三澤さんがサヤカちゃんに向かって言い返した。 「ウンコなんか落ちてねーよ!このクソガキ!」 小森さんは薄く笑っていた。 言われたサヤカちゃんは「だって、そういうふうに聞いたんだもん」ヒトミさんに頭をなでなでしてもらっていた。 そのうちに僕と同じ英語学校に通っていた雅美さんが、「大野君っていくつなの?」 と聞いて、「二十歳です」と僕が答えれば、髪の毛が薄い、どう見たって三十の小森さんにも聞くわけだよ。 「おいくつですか?」ってさ。 べつに言いたくなければ言わなくてもいいのに「二十一です」って、小森さんが真顔で答えるもんだから、ヒトミさんたちが「二十一?」と、びっくりするやら、おもしろがるやら、くすくす笑い始めちゃって、小森さんの顔が真っ赤になっていくのがわかった。 三澤さんはビールを小森さんに渡し、みんなにも渡せと、僕にビールをよこした。そしてみんなで飲みながらニューヨークのことなんかを話すうちに、ヒトミさんが僕に尋ねる。 「大野君はニューヨークに何しに来たの?」 僕は少し驚いたふうに答えた。「え? 俺?」 一同が僕を見た。 僕は何か言わなければと思い、ウケをねらうみたいに「お嫁さんを探しに来ました」陳腐ではあったがある意味本当のことを言った。で、にこにこしながらギクシャクしたおじぎをして「ヒトミさんみたいな素敵な人がいいなあ」そう答えると、ヒトミさんが恥ずかしそうに笑った。サヤカちゃんと一緒に来た男が眉をしかめ、どっかで聞いたことあるなぁ、と言って、サヤカちゃんが思いだしたよに言った。 「サヤカわかった! それ、星の王子ニューヨークに行くでしょう」 サヤカちゃんの言葉に小森さんも笑って続けた。「あれも最初はボロホテルかなにかに泊まってなかったけ?」すると、今度は明後日か何かに日本に帰る雅美さんが、ふと「私さぁ、なんて言うんだろ」なんとなく静かな声でちょっといいよどんだ。「ニューヨークに来て思ったんだけどさぁ」と言葉の調子を変え、僕の目を見つめながら続けた。「これはって言うもの?例えばピアノで絶対に有名になってやるんだとか、ダンスなら誰にも負けませんとか、これは絶対に人には負けないって言うもの? そういうのがある人じゃないとこの街には住んじゃいけないんじゃないかって思ったのね。だから、私なんかがニューヨークにいちゃいけないんじゃないかってそんな気がしてきちゃって、時間の無駄なんじゃないかって気がして、それで日本へ帰ることにしたんだよねぇ」 一種厳粛な雰囲気に包まれた中で、僕は目を上げて静かに尋ねた。 「どれくらいニューヨークにいたんですか?」 雅美さんが言うには、「半年いたけど、私には何もないことがわかったの。でも、ヒトミさんもサヤカちゃんも凄いなって、いつも感心するの、こっちの大学で頑張ってるし、ほんとに偉いなぁって」 ヒトミさんは雅美さんの横に来て肩を抱き寄せた。「私だって大学に通ってるだけで、これは人には負けないなんてものなにもないよ」 ヒトミさんにどこの大学に通っているのか聞いたら、何もないはずの雅美さんが誇らしげにドヤ顔で答える。「NYUだよ」 「NYU?」と、僕は聞き返した。 「そうだよ」と雅美さんは誇らしげに答えた。「サヤカちゃんなんか十八で二十四歳のヒトミさんと同じ大学に通ってるんだからすごいんだよ。みんな十八の頃何してた? 大野君何してた? 女の子のことばっかりおいかけてたでしょう? 違う?」 続けてヒトミさんが言った。 「年下だけど、私なんかよりもぜんぜん頭がよくてね、私がわからないところをいつも教えてくれるの。私の先生なんだよねぇサヤカちゃんは」 言われたサヤカちゃんは憎たらしい笑顔を浮かべて神童のように笑っていた。そして、それから五分くらいして、三澤さんが小森さんをひじでこづいて、突然立ち上がり「大野、帰るぞ。それじゃあ、お邪魔しました」と言って、どこかで事件が起こって呼び出された刑事みたいに飛ぶように去っていくから、慌ててヒトミさんにさよならを言うと、僕も一緒に逃げるようにーー靴をなんとか座らないで履こうとしながら履いて出てきてしまった。ああ、なんてことだ……もう少しでヒトミさんと友達になれたかもしれないのに。それ以降ヒトミさんには会っていない。けど、雅美さんの言ったことだけが頭を占めた。 そんなふうにしてヒトミさんのところから十時過ぎに戻ってきた。そしてスイートルームのドアを叩いたら、寝ぐせのついた姿で松木君が出てきた。ずっと寝てたんだって。ベッドに腰掛けて、ヒトミさんのアパートに行って来た話しをすると、松木君はこう言い始める。 「ずるいぞ、大野ちゃん」 僕は言い返した。「自分が寝てたんだろ、俺はちゃんと電話したのに」言いながらめぐみのベッドの頭の方にある枕を取り上げ、匂いを嗅いで、ぎゅっと抱きしめると、枕に話しかけるみたいに言った。「あーあ、可愛かったなぁ、ヒトミさん。ヤリたいなあ」で、軽く唇をとがらせて枕にキスするまねをした。 「チュ!愛してるよ」で、松木君に向かって言った。「タバコ吸ってたけどね」 「うそ? あの子タバコ吸うんだ?」 松木君に言わせると、「じゃあ、ヤリマンじゃん」そう言って下品な笑いを浮かべていた。 三澤さんが理解しかねるように「お前たちどうかしてんじゃないの? あれ可愛いか?」 小森さんは照れたように笑いながら言う。 「大野が東ちづるって言うから、期待して見に行ったけど、ぜんぜん違うじゃんかよ」 そんなところへ、ドアの鍵をまわす音がして、黒いミニのスカートと白いブラウスに革ジャンを羽織っためぐみがバイトから帰ってきた。物柔らかではあるが有無をいわさぬしぐさのめぐみに三澤さんが話しかけた。 「なにそんな格好で働いてるんだ?」 「そうだよ」と僕が腰を下ろしていたベッドの上に革ジャンをばっさっとめぐみが投げた。そして、うんざりした顔で蝶ネクタイをはずし、冷蔵庫から缶ビールを取って来るように僕に言って、キッチンへ缶ビールを取りに行ったその時、松木君は自分のベッドにうつ伏せになりながら、枕に顔を押しつけて、ヒトミさんがどれだけ自分のタイプだったかと叫んでいた。「俺、ああいうおばさんみたいな子がタイプなんだよなあ!なんで寝ちゃって起きなかったんだろ……あー、もう!」 「どうしたの? こいつ」めぐみが小森さんに聞いている声が聞こえる。 小森さんはおかしそうにニコニコ笑いながら言った。「なんか、好きだった人のところに、寝ていて、連れて行ってもらえなかったみたいです」 「連れて行かなくていいよ、こんなの」とめぐみが言っているところに、僕はキッチンの冷蔵庫からとってきた缶ビールを手渡した。 「はい、これ最後の一本だったよ」 「サンキュー」めぐみは壁に寄せられたテーブルの椅子に崩れ落ちるように座り、缶ビールを開けて僕を見上げて言った。「もうさぁ、お客さんが飲んでるの見ながら働いてるとさぁ、途中で飲みたくなってくるんだよねぇ、分かる? 大野ちゃんこの気持ち?」 何げに小森さんが「俺もそろそろバイト探さないと、もう残高が少なくなってきちゃってやばいんだよなぁ」みたいなことを話すと、めぐみと同じく観光で来てバイトしている三澤さんが「俺のバイトしている日本食レストランに聞いてあげようか?」小森さんに言う。小森さんは飲食店では働きたくないと断っていた。 僕が「なにぜいたくなこと抜かしてんだよ」みたいなことを言うと、小森さんは父親が経営するレストランの手伝いをさせられていたことなどを話し始める。 めぐみが僕に言う。「いいよね、大野ちゃんは親がお金だしてくれてさぁ」 言うとおりではある。しかし「え、そうかなぁ」言うと、三澤さんの目元がまたたく間に強張るのを、僕はみていた。 「え、そうかなーじゃないよ。まったく」とめぐみが言った。「あんたがうらましいよ」 三澤さんは、僕に何か言いたげな顔をしている。いつも、今めぐみが言ったようなことを、癇にさわるような形で言ってくるから、僕は仕事を鼻にかけていた三澤さんに対して、ちょっと頭にきて、うんざりしているところがあった。 めぐみが「大野ちゃんピザ買ってきなよ、ついでにビールもよろしく!」言って、僕はめぐみに言った。「俺、まだ二十一になってないから酒は買えないよ。知らなかった?」 「じゃあ俺が一緒に行ってやるよ」三澤さんが立ち上がって、みんなに聞いた。 「ピザ食べる奴?」 全員が手をあげて、三澤さんが「大野行くぞ」と言ったけど、僕は返事もせずに椅子にふんぞりかえって座っていた。だいたいなんで俺が行かないといけないんだよ。 三澤さんの顔が変わり、唇がいくぶんわなないて、無言でドアを開け、部屋を出ていき、めぐみは弟に後を追いかけさせた。 その様子を息詰まるように見ていた小森さんが静かに言う。「三澤さんが、クイーンズに引っ越すこと、聞いた?」 「聞いてない」ふと目をそらし言った僕の声はかすれていた。「だってあの人俺のこと嫌いだから、そういうことは言わないんじゃないかなぁ……」 それを聞きとがめためぐみが笑みをうかべて言う。「ねえ、大野ちゃん。あんたみたいなの好きな人いるの?」   その言葉で僕はばつが悪くなり「(無視して小森さんへ)小森さんって、いつ引っ越すんだっけ?」 「俺?」わかりきったことをどうして聞くと言った顔で笑いながら小森さんが話し始める。「本当は一月からなんだけど、十二月の二十八日から来てもいいって言ってくれてるから明々後日の月曜にチェックアウトすることにしたよ」 しばらくすると、ノックする音がして、小森さんが開けに行き、ビールの入った袋を持った三澤さんと、大きなピザの箱を抱えた松木君が戻って来る。「一人五ドルな」と三澤さんが言うと、「えー」と、めぐみが言った。 「三澤さんのおごりじゃないの?」 「別に払いたくなければ払わなくてもいいよ。金払ったの俺じゃなくて君の弟だから」   松木君が大きなピザの箱をテーブルの上に置く。   僕は椅子に座ったまま財布を出して、小森さんに五ドルを渡した。三澤さんも財布を出して五ドル渡し、小森さんが松木君に十五ドル渡しに行くと、「いつも世話になっているからいいよ」と受け取らなかった。   「いいの?」と小森さんが聞いて、「じゃあ、今日だけご馳走になろうか?」と三澤さんが言った。 テーブルの椅子に座っていためぐみも熱々のピザを手に取り食べようとした。が、松木君がめぐみの手首を掴んでこう言った。 「お前はダメだよ。ちゃんと金払えよな」 「あんたねぇ」めぐみは顔をあげて、きっとにらみかえした。「誰のおかげでここまで来れたと思ってんの? 全部私が手配して連れて来てやったからでしょう?」言いながら肩をあげて、松木君の手を振り払った。そして僕に「大野ちゃん。どう思う、こういうの?」 僕は笑って返した。 松木君がめぐみに「だから俺もタクシーの金とか払ってやってるじゃねーかよ」言って、それから三澤さんの方に顔を向けて言った。「この女には昔から頭にきてるんですよ」 「それはこっちのセリフでしょう!」めぐみは、もう辛抱ならないというふうに反射的に椅子を跳ねのけるように立ち上がった。そして腹立たしげにぶつぶつめぐみが言って背を向けた瞬間、松木君がめぐみの尻をおもいっき蹴り上げたのだ。 「イタイッ!」 驚いて思わず首をすくめたほどだった。静寂が落ちて、テレビのコマーシャルの音が響いていた。 松木君はそのままベッドの上にのり、めぐみはテーブルの椅子に座って怒りを抑えていた。 三澤さんが、「いただこうか」と言って、小森さんとピザをとって食べ始め、僕にも食べるように言った。 テレビからはクリスマスの街の様子を伝えるアナウンサーの楽しげな声がやけに大きく流れていた。 リモコンを手にしたバツの悪そうな松木君が、絶えずチャンネルからチャンネルへと切り替えていた。そしてアダルトポルノのペイ・パー・ビューにチャンネルを変えると、テレビの画面では、汚い金髪の女がアジア人男性のしぼんだペニスを自分の目にツンツン押し当てて、『有料のアダルト番組を見たい変態さんはこの番号に電話してね!』 まるでこっちの重くるしい沈黙をあざ笑うかのように言っていた。気まずい雰囲気を破って三澤さんが「ニューヨークまで来て姉弟で喧嘩するなよ」と取りなして、新たな関心をもって二人を見たら、めぐみは僕たちの方を見てから、再び松木君を睨み、松木君はこっちを見ずにテレビの方に顔を向けたまま黙りこくっていた。 小森さんが三澤さんに聞いた。 「クイーンズに引っ越すのはいつなんですか?」 明後日の日曜日だと三澤さんは答えて、その経緯を小森さんに話した。バイト先の人が日本に帰国するので、その部屋を三澤さんが住めるようにルームメイトに話してくれたとか。Nの地下鉄の終点のアストリアと言う駅で、マンハッタンからわりと近いことや、ルームメイトはユダヤ人の男性だといったことなどなど。 その間に、松木君がベッドから降りて来て、テーブルの上のピザを食べ始める。めぐみはそれより前から黙って食べていた。 三澤さんがふと思い出したように松木君に聞いた。 「ところでさぁ、お前の友達っていつ来るの?」 「一月三日です」ピザを食べながら松木君が答える。 「何人来るの?」 「二人」 「友達何やってるの?」 「板金屋」 「どこのホテルに泊まるの?」 「ここ」 「ここのツインの部屋借りるの?」 「あいつら金ないから、この部屋に泊まるんじゃないかなぁ」 これに驚いて、え?と言うみんなの思いを代弁するかのように、「姉さんどうすんだよ」と三澤さんが聞くと、「さぁ、ブラジルに行くんじゃないの?」ってなことを松木君が言い放ったので、小森さんが僕と三澤さんの顔を順に見て、めぐみに確かめるために聞いた。 「ああ言ってますけど、ブラジルに行くのって、一月三日でしたけ?」 「六日だよ」めぐみは言った。「ちょっと、あの二人にちゃんと部屋借りさせなさいよね」 「知らないよ、お前が出て行けばいいだろ」 これでまた喧嘩が始まり、もう誰も止めたりする元気はなくて、二人が言い争っているうちにいつの間にか深夜12時を過ぎてしまっていた。三澤さんが一度立ち上がるとあくびをしながら「あーあー、クリスマス終わっちゃったじゃねーかよ!」背筋を伸ばして座り直した。 小森さんは笑顔をとりつくろい「本当だ。もう土曜日になっちゃったじゃん」と、付け加えていた。
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