第一章 武井信(たけいまこと)

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              妻 優子  会社が大きくなり、交際費がいくらでも使えるようになってからも、  まっすく帰る――柴多はいつもそう言い残し、家へと帰っていった。  家庭がそんなに楽しいのか?   そう感じてしまうのは、自分に子供がいないせいなのか、  それとも......幼少期の環境のせいか?   とにかく結婚したことさえも、  最近では間違いだったのかと思うことがある。  それでも一緒になって10年くらいまでは、  妻のありがたみを充分感じていたはずだった。  武井は昔から人付き合いが下手で、特に中学に上がった頃から、  学校でもすぐに孤立してしまう傾向にあった。  大学に入っても状況は変わらず、そんな孤独だった頃、  優子という女性と運命的な出会いを果たす。  彼女に出会って初めて、彼は人と心を通わせ合うことの喜びを知った。    もしも、優子と知り合えていなければ、  武井は人との接し方を変えることもなく、退職後は起業できたとしても、  柴多は運命を共にしようなどと思わなかったに違いない。  そのくらい以前の武井にとって、優子の影響力は大きく、  その存在は大切なものだった。  ならばもし、優子という伴侶に出会えていなければ、  武井は同様の成功を手に入れていなかったのか?  ――手にしていたさ、そうに決まってる……。  武井はたまにそんな可能性を思っては、  自らそれを否定し、首を強く振るのだった。  その夜、彼が社用車を帰し、玄関扉の前に立つと、  まるで図ったようにロックの外れる音が聞こえる。  扉を開けると、 「おかえりなさい……」  開かれた扉の向こうで、優子がさして嬉しそうでもない声を上げた。  そんな妻の横を、彼は無言のまま靴を脱ぎ、いつものように通り過ぎる。  そしてリビングの前でふと立ち止まり、  背中を向けたまま優子へ声を上げた。 「やっぱりあの運転手は使えん。明日でいいから、また新しいのを寄越すよう  派遣会社に電話しといてくれ。いいか、今度こそ年寄りはダメだと、ちゃん  と伝えてくれよ……」  その声に、優子は一瞬驚いた顔を見せるが、  すぐに、「またか」という顔付きとなり、 「電話するのはいいですよ。でも、年寄りがどうこうわたしには言えませんか  ら。そんなことなら、あなたご自身で電話なさればいいじゃないですか?   それに今月はもうふたり目ですよ。そんなにああだこうだとお気に障るのな  ら、ご自分で運転なさったらどうです? 先週はご自分の車で行かれていた  じゃありませんか!? 」    などと、言って返すのだ。  そんな優子の言葉にも構わず、武井はそのままリビングへと入っていった。  そして続いた、  「わたしは電話しませんからね! 」  という玄関からのさらなる声に、  武井は外し掛けていたネクタイから手を放し、  フッと小さく溜め息を吐いた。   まっすぐ行ってくれ――運転手は武井のこの言葉に、  まさか家に帰るとは露ほどにも思わなかった。  だから派遣されて3日目だった彼は、  どこに向かったらいいのかと尋ね返す。  そんなことだけで充分気分を害した武井は、  その場で老いた運転手にクビを宣告していたのだった。  武井の帰宅後はいつもなら、優子は玄関からそのまま寝室へ行き、  彼が横になる頃にはとうに夢の中にいる。  ところがその日は彼女の方に、そうにもいかない事情があった。  だから優子は武井が風呂から上がるのを待ち、  書斎に行き掛けるところを呼び止める。  横顔を見せたままの彼へ、しばらく心にあった台詞を声にした。 「今日、矢島さんと電話でお話になりましたか? 」 「………」 「何度かこちらにも掛かってきたんで、会社に掛けるようお願いしたんです  が……」 「いや、知らんな……」  武井はそこで初めて、だからなんだ?   といった顔を優子へと向ける。 「じゃあ今すぐ掛けて差し上げてください。なんだか、差し迫った感じがあっ  たんですよ、矢島さんの声に……どことなくですけど」 「放っておけばいい、どうせ金のことに決まってるんだ」 「だったらなおさらじゃありませんか? あなたはこれまで、どれだけ矢島さ  んにお世話になったんです? まさかお忘れになったわけじゃないんでしょ  う……? 」 「あいつだって、俺の会社のおかげで、どれだけ儲けたか知れんのだ。もちろ  ん、こっちも矢島のおかげで今がある。それだってな……もう充分借りは返  したってことなんだよ」 「でもあなた……」 「とにかくだ! こうなったのも、俺が止めるのも聞かずに事業を拡大したか  らなんだ。何にも知らんおまえは口を挟まんでくれ! 」 「じゃああなたは……矢島さんの会社が今、どうなっているかご存知だった  の? ご存知なのに、放っておいたってことですか? 」 「俺はな、年寄りと貧乏人は嫌いだが、頭の悪いやつはもっと嫌いなんだ  よ! 」  家中に響くような大声を上げ、武井はそのまま書斎へと行ってしまう。  確かに彼は、矢島に何度も忠告していた。  衣料品メーカーとしては中堅どころだった矢島の会社が、  新たにスイミング業界に打って出るということについて……、 「競泳だけならまだいいだろう。しかし遊泳水着はやめた方がいい……特に女  の水着なんざ、お天道さまが自由に操れないままやるもんじゃない。あんな  のをやって食えてる連中はな、天才か、詐欺師かのどっちかに決まって  る!」  そんな言い方で、矢島に対して大反対を表明していたのだ。  ところが矢島は忠告に従うどころか、  泳ぐことに関連するアイテムすべてに手を出してしまった。  初年度からいきなり、百貨店や専門店だけでなく、  全国に跨がる複数の量販店と取引を始める。  もちろんその取引高は半端なものではなく、  それでも、一年目の天候不順による大打撃で撤退を決めていれば、  きっと最悪の事態は避けられていただろう。  馬鹿なやつだ……。  彼は書斎で1人、何度もそう繰り返し呟くのであった。
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