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伍 人の世、移り行くこと
「師匠、刀が……」
小弥太の声で、男は我に返った。刀は黒い靄を纏っている。靄は刀に染み込むように吸い込まれて行った。
「血を吸ったからな。……これで、元の木阿弥だ」
浄化した瘴気が、再び刀に戻っている。
「じゃあ、また百年かけて清めるのか?」
「いや。……そろそろ潮時やも知れぬ」
男の言葉に、小弥太は言い知れぬ不安を覚えた。
「儂の前にこのような奴が現れたと云う事は、世の中の変わり目が訪れたと云う事やも知れぬ。世が変わる時は、何処かで乱が起こる。此奴は、世の乱れを好むでな」
「師匠……?」
「修験者からは、此奴を滅ぼすもう一つの術も聞いておる。それは……」
小弥太が止める間も無かった。男は刀を逆手に取り、我と我が身をずぶりと刺し貫いた。
「師匠!」
「此奴と儂とは一体。そして、死ねぬ儂を唯一殺せる得物が、此奴よ。儂が死ねば、此奴も滅びる」
「だ、だからって……!」
ごぶり、と男の口から血が流れ出た。
「小弥太。これから世は変わろう。だが、変わる事を恐れるな。……この世に在るものは、何であろうと必ず変わる。──変わらぬモノは、バケモノだ」
自嘲を含んだ笑みを浮かべる。
「バケモノは、滅ぶべきモノなのだ。……達者で暮らせ、小弥太」
「お、俺、おっ父を呼んで来る! 手当てをしてやるよ、師匠! だから死ぬんじゃねえぞ!」
男は倒れ伏した。小弥太が山を降りて行く気配がする。
「……随分待たせたな……さと……」
男が最期に口にしたのは、遥か昔に死んだ妻の名だった。
小弥太が村の者達を連れて戻って来た時、最初に目に入ったのは若侍の死体だけだった。男が倒れていた筈の場所には、何年も野ざらしになったような白骨と、ボロボロに朽ちた刀の残骸のみがあった。それが男の成れの果てだと、小弥太にはすぐに判った。
若侍の死体は役人に引き渡され、白骨は刀と共に男が住み着いていた家の側に葬られた。何も刻まれていない、石が積まれただけの簡素な墓だった。
男の言った通り、程なく世の中は音を立てて動いた。江戸幕府は倒れ、時代は明治へと変わった。変化の波は、この村にも否応なく押し寄せた。刀を持つ者はいなくなり、髷を落とす者が多くなった。
しかし、時代が移り変わった後も、毎月の月命日には必ず男の墓に手を合わせる小弥太の姿が見られた。
小弥太は一生、男を師として語り伝えたという。
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