朝顔

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 その日を境に、正木はぴたりと姿を見せなくなった。同時に広瀬は、自分は今、たった一人で生活しているのだという、当たり前の現実を痛感させられていた。  待っていたところで誰も自宅にやってこないし、電話もかかってこない。だったら外で時間を潰す術を行使すればいいのだが、広瀬は、会社と自宅の往復以外、外での時間の過ごし方を知らなかった。  本来、そんなふうに無味乾燥で面白味がないのが広瀬という人間であり、正木が通ってきていた頃の広瀬のほうが変だったのだ。  だいたい正木も、木立朝鮮朝顔を眺めるのが目的とはいえ、わざわざ広瀬の元に通ってこなくてもよかったはずだ。希少な植物というわけでもなく、探せばどこかに野生していても不思議ではない。  広瀬は縁側に座り、取り留めなく考え続けていたが、ビールを一口飲んでやっと覚悟を決めた。  ホームセンターで買ってきた小型のこぎりを手にすると、庭に出る。  正木にここに来ないよう告げたあとすぐに、行動を起こすつもりだったのだが、仕事の忙しさや暑さの厳しさのせいにして、結局何日も経ってしまった。しかしそんな曖昧な状態も今日までだ。  木立朝鮮朝顔の前に立った広瀬は、枝に手をかける。もうそうする必要もなかったのだが、朝、水を与えたため、葉や花にはまだ水滴が残っている。  数日前から、この植物の異変に気づいていた。いくら暑いとはいえ、しっかり水をやっているはずなのに、急速に元気をなくし、萎れ始めているのだ。  枯れる花がある一方で、新しく開く花もある。例年であれば、それを秋頃まで繰り返しているのだが、木全体がこの時期から元気をなくすのは、初めてのことだ。まるで生気が感じられない。  何か悪い病気にでもかかったのだろうかと、これから木を切ろうとしていることも忘れ、広瀬は葉や花を手にのせて間近から観察する。虫に食われた形跡はなく、特に変わったところもない。ただ、元気がないだけだ。  いまさら気にしても仕方ないと、広瀬は枝を切り落とすため、のこぎりの刃を当てはしたものの、手を動かせなかった。  正木が来なくなったから、この植物たちは元気がなくなったのだろうかと、非科学的な考えが頭に浮かんでしまったからだ。  実際、正木がこの庭に足を運んでいる間、生育状態はよかった。次々に花をつけ、青々とした葉を茂らせていた。これまで、庭にある植物になどさほど関心を示さなかった広瀬が、溢れる生命力に惹かれるように世話をしていたぐらいだ。  下を向いて風に揺れる花を、てのひらに包み込むようにして触れる。  ふいに、正木が言った意味深な言葉が思い出された。 『……こいつらがいないと、おれはもう、ここに来ることはできないな』  この言葉を聞いたときは、花を理由にして、ここを訪れることができないという意味で捉えたのだが、今の広瀬は、本当にそうなのだろうかと思い始めていた。  本当に正木は、花がなければ姿を現せない存在なのでは――。  広瀬は、茎に当てていたのこぎりの刃をスッと退ける。無意識に苦々しい笑みを浮かべていた。 「バカな。何を考えてるんだ、俺は……」  口ではそう言いながらも、もうこの植物を刈り取ることはできなかった。正木自身を傷つけているような痛々しい気分になるのは、目に見えていたからだ。  ふっと目が覚めたとき、闇を見据えながら広瀬が聞いたのは、耳に優しい音だった。  この音はなんだろうかと、まだ覚醒しきれていない頭で考える。 「雨……?」  正体がわかってしまうと、なんのことはない。広瀬は再び目を閉じる。  この雨で、庭の植物が元気を取り戻せばいいが、と考えた次の瞬間、ハッとしてまた目を開く。  何かに呼びかけられたように、唐突に庭の様子が気になった。〈何か〉がいると、直感が告げている。  体を起こした広瀬は、わずかな逡巡のあとベッドから抜け出し、庭に面した廊下へと向かう。このときには、直感は確信へと変わっていた。  廊下の電気をつけてカーテンと窓を開ける。ムッとするような湿気を含んだ生暖かな風が、雨とともに吹き付けてきた。  そして庭には、白い花以外に、ぼんやりと浮かび上がるほの白い人影があった。
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