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通勤は電車を使っている弘一は駅からアパートまでの帰路に付いていた。
コンビニ弁当を入れた袋を下げて歩く道はいつもよりもかなり早い時間だ。
「クロー、クロベー」
声を上げている女性の姿に弘一は気が付いた。
「大家さん、どうしたんですか?」
「あら、滝上さん。今日は随分早いのね」
良い意味で“おばちゃん”と言う呼び方が似合うぽっちゃり体形の中年女性が弘一に気付いた。
「クロベー、居ないんですか?」
女の後ろを覗くとクロベーとかまぼこ板に書かれた表札が付いた犬小屋は空だった。
「そうなのよ。夕方の散歩に行こうとしたら居なくなっててね。ご飯の時間には帰って来ると思ってたんだけど…」
心配そうに辺りを見回す女に弘一は言った。
「俺も捜すの手伝いますよ」
「あら、いいのよ。お仕事で疲れてるんだし」
「大丈夫です。それに人を助けるのが俺の仕事ですから」
立場上、弘一の職業を知っている女は嬉しそうに頷いた。
「じゃぁ、お願いするわ」
「荷物、部屋に置いて来ますね」
コンビニの袋を見せると弘一は犬小屋の傍の階段を上がり始めた。
ふと胸元の携帯電話が鳴り相手は見ずに出ると雪刹であった。
「聴取は無事に終わりましたか?」
『思っていたよりも厳しかったですね。ただの外科医がどうしてそんなにパソコンに詳しいのか、と』
「まぁ、疑うのが仕事ですからね…」
『滝上刑事はまだ仕事中ですか?』
「今日は定時で上がらされました。大人しくしてろ、って」
雪刹の笑い声に弘一も頬が緩む。階段を上りきり、一番奥の自分の部屋へと向かう。
「えっ?俺の住んでるところ?六畳一間のボロアパートですよ」
アパートの場所を言いながら大家を見るが彼女には聞こえていなかったようだ。
『うちの大学から近いんですね』
「何かあったら呼んで下さい。すぐに駆け付けますから」
冗談めかして言いながら弘一はその異変に気が付いた。ポケットから取り出した鍵を使わずにドアノブを回すと施錠したはずのドアが開いたのだった。
弘一の異変に気が付いた雪刹が問いかける。
「すみません。また、掛け直します」
一方的に通話を切ると弘一は壁に背中を付けて警戒しながらドアを開いた。
日の長い夏の夕方、室内は薄暗くはあったが電気を点けるほどでもなかった。
開いたドアの正面にある六畳の和室。人が隠れるような死角もないその部屋の中央に無造作に広げられた毛布はシーズオフで押し入れにしまっていたものだ。
その真ん中にこんもりと出来た山が一体何なのか、弘一には想像が付かなかった。
靴のまま板の間に上がり込むとごくりと唾を飲み込んでその毛布へと手を伸ばす。
握った裾をゆっくりと持ち上げて行くと黒い毛の長い何かとその下にべっとりと広がる赤黒く固まった液体に気が付くと弘一は大家の泣き顔を想像したのだった。
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