ウインドミルガール

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三時間、眠ろうとしたけれど無理だった。便意があったが怖くて出せず、便座に座るたびに股が裂ける恐怖を思い出した。助産師さんのコールが鳴ると同時に立ち上がり、授乳室へ向かう。 「ゆうさん、赤ちゃん泣いてましたよー」  念入りに手を洗っていると中から順子の声がした。赤ちゃんの泣き声は聞こえたが、それが自分の子の泣き声だとはわからなかった。慌てて授乳室のカーテンを開けて中に入ると助産師さんがタオルでお雛巻きにして寝かされていた赤ちゃんを丁寧に抱き上げ、バナナの皮をむくようにタオルをほどいた。手足が自由になるとびっくりしたように赤ちゃんは大の字になり、うにゃあ、うにゃあと、か弱い声で泣き叫ぶ。 「お待たせ、ごめんね」  赤ちゃんを抱き上げながら、自然とそんなセリフが出て来たことに驚いた。泣き声を聞くと、胸にツンと痛みが走る感覚がある。自分の中で栄養源となる飲み物が作られているというその事実に鳥肌が立った。  順子の斜め向かいに座り、授乳用クッションを膝の上に置き、赤ちゃんを挟むように寝かせ、腕で支えながらパジャマの授乳口から左胸を出した。順子はやっぱりTシャツで、足を組んで器用に赤ちゃんに授乳している。お互いに片胸を露にして授乳しながら、順子が話しかけてくる。 「退院したあとは、やっぱ旦那さんが育児手伝ってくれるんですかー」 「どうかなあ、わかんないなー。旦那帰り遅いし、わたしが妊娠中だって飲み歩いてたし」  赤ちゃんが、乳首をくわえ、力強く吸い始めると、全身にしびれるような痛みが走る。泣きそうだった。だけどこの子を生かさなくてはならない。順子がマジですかーと言って笑う。 「うち、旦那マジで役に立たなくて、もう戦力外通告してやったんですよ。男なんか役立たずですよ。あ、でも、男の赤ちゃんは可愛いですよー。うちね、上も男なんですけど、二歳くらいになるとね、ぼくがママを守ってあげるとか言い出すんですよ、もうねナイトですよ。ゆうさんも、次は男の子産んだらいいですよー。旦那なんかいらないってなりますから」  わたしもいつか、達也のことをいらないと思う日が来るのだろうか。夫が誰と飲み歩こうと、他の女の子とどこへ行こうと、どうでもいいと思う日が来るのだろうか。  ぐらぐらの頭と胴体を支えながら、黒い瞳を見つめながら、なぜかあの日の彼にもう一度会いたいと思った。 「重森夕(しげもりゆう)って、渋い名前ですよねー。赤ちゃんの名前、どんなのにするんですかーやっぱり赤ちゃんも漢字一文字にするんですか?」 「名前は、旦那に決めてもらおうと思ってるんだけど、変なの出して来たら却下するかな」 「うちはもう決めてあるんですよ。上がアランなんで、この子はドロンにするんです」 「ドロン? ドロン君? 嘘でしょ」 「もう性別わかったときから決めてたんですよー。順子みたいのはかわいそうですしね」 「いや、いやいや、順子めちゃくちゃいい名前だよ。順子みたいなのにしなよ。順子の息子だし、順平とか、順太とかでもいいと思うよ」 「ちょっとーゆうさんやばい! それ渋すぎですよ! 昭和!昭和ですよー!」  いままでにないほど大爆笑している順子を見ていたら、何だか何もかもどうでも良くなった。  わたしの乳首を一心不乱に吸い続けているこの小さな生き物は、ひょっとすると順子のように、わたしに安らぎをくれるのかもしれない。 「重森さん、ご主人来られてますよ」  授乳室に看護師さんが顔を出し、わたしに声をかけてくる。順子がうふふーとわざとらしく声を出す。 「旦那さん、どんな名前考えて来たんでしょうねー。やっぱり昭和系ですかねー」 「どうだろうね」  お腹がいっぱいになったのか、乳首を吸っていた小さな唇はいつの間にかぱくっと開き、反対に目はきゅっと閉じている。飲みながら眠るなんて、なんて可愛らしい生き物なんだろう。起こさないようにゆっくりと抱きしめて立ち上がり、透明のベッドにそっと寝かせた。重森夕ベイビー。  病室に戻ると達也がわたしのベッドに腰かけていた。ベッドのテーブルに置いてあった赤ちゃん雑誌をぱらぱらと捲っている。顔を上げ、あ、ゆうちゃん、とにっこり笑う。 「名前、考えた?」  ベッドのそばの椅子にドーナツ型の座布団を置いて座る。傷口がひきつっていて痛いし、胸も痛いし、おしりも痛いし子宮の収縮は強くなるばかりだ。出血もまだある。 「そう、名前、考えたんだけどさ、朝(あさ)ちゃんってどうかな」 「朝? 朝子とか朝香とかじゃなく、朝だけなの?」  言いながら、順子が聞いていたら、また昭和ですねーとかなんとか言うんだろうなと思った。もしもそう言われたら、平成だってもう終わるよと言ってやろう。 「うん。あのさ、俺さ、昔、すごく嬉しいことがあったんだよね。それを思い出して、絶対朝ちゃんって付けたいと思ったの」 「嬉しい事?」 「うん、そう。ゆうちゃんは、もう覚えてないだろうけどさ、ゆうちゃん昔、一度ね、俺の家に来てくれたことがあったんだよ。ばあちゃんと住んでた、きったない家。そんときね、なんでか知らないけど、ゆうちゃんがさ、俺の事、好きだって言ってくれたんだよ。俺さ、その時、俺の人生にもやっと、朝がきたみたいに思ったの。ゆうちゃんが、俺の人生目覚めさせてくれたみたいに思ったの。だから、俺、俺とゆうちゃんの子どもには、朝ってつけたいんだよ」 「達也」 「だめかな」 「いいよ。いい名前だと思う。かわいいよ、朝ちゃん」  声が、震えていた。  達也のことを死ぬほど好きだった頃の、内臓が引きちぎられるような気持ち。  華奢で小柄な女の子たちに嫉妬して、彼をシゲと気やすく呼べる女子たちすべてを敵だと思っていたあの頃。強く逞しくなりたくて、でも折れそうなくらいに弱くもなりたいと思っていたあの頃。 「ほんと? よかった。俺さ、実はゆうちゃんに、ずっと嘘ついてたことがあったんだよ。いま、この際告白しちゃっていいかな」 「なに」  ひょっとして、浮気とか、そういうのだったらもういっそのこと黙っていて欲しい。達也が思っているほど、わたしは強い女じゃないんだよ。 「あのとき、自転車のチェーン、本当は自分で直せたんだよ。俺、そういうの得意だから。でも、チャンスだって思ったんだよ。クラスも離れてて、ずっと話せてなかったから、ゆうちゃんと。チャンスは確実にものにしないとって一瞬で頭が働いたの。わかるだろ、お互いに、エースやってたんだからさ」  達也は言い訳をするみたいに早口で言って、窓の外を見た。 「うわ、ここ手すりとかなんも付いてないの、すげー危ないじゃん。赤ちゃん抱っこしてて落としたらどうすんだよなー」  達也が窓を開けて外を覗いている。  ひとりで見る景色と、達也と見る景色はまるで違う。達也が朝ちゃんと名付けてくれたあの子に、いますぐ会いたいと思った。三時間後が待ちきれない、今から顔を見に行きたい。 「新生児室、覗きにいかない? 朝ちゃんお腹一杯で、ぐっすり眠ってるの。寝顔、可愛いんだよ」 「知ってるよ。さっき覗いてきた。一番小さいな、朝ちゃん」 「そうだ、会わせたい人がいるの。すごく面白いの、授乳室で知り合った、順子っていうんだけどね」  達也は窓際からこちらに目を向ける。 「ジュンコさん? 何、めっちゃ年上とか?」  真顔でそう言った、達也の顔がおかしかった。
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