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食事も済み、後片付けをしようかと席を立ったのとほとんど同時に、玄関の方で扉の開く音がした。部屋の時計はきっかり八時を指し示している。
「おかえりー」
香月さんは軽い口ぶりで玲司さんを出迎える。玲司さんも慣れた様子でそれに応えると、テーブルの上を一瞥してから、俺の方へ顔を向けた。
「あ、と。おかえりなさい……」
香月さんに釣られて、ついおかえりなさい、なんて言ってしまったけど、馴れ馴れしいと思われただろうか。
玲司さんがくると、やっぱり場の空気がピンと張り詰めるような気がした。
「棚橋くん、もしや君、料理を作ったのか」
「えっ?あ、はい。作りましたけど……」
「一緒に食べたのか?」
「た、べましたけど……」
一緒に食べたりしたらまずかったんだろうか。と、そんな事を考えていると、玲司さんは香月さんを部屋に行くように促した。
後片付けの途中だったことを思い出し、キッチンへ行こうとすると、玲司さんに制される。
「それは後でいい。少し話をしたい」
神妙な面持ちで玲司さんは言った。とりあえず食器だけ流しに持っていってから、席につく。
「まず、香月の様子はどうだったのか聞きたい」
「えっと、あの後、香月さんは自室で作業の続きをしてからお風呂に入って……」
「風呂?」
玲司さんはひどく驚いた様子で言い、照れ隠しなのかコホン、と一つ咳をした。
「続けて」
「あ、はい。お風呂に入ってからご飯を食べました。あの、一緒に」
「他に香月は何もしなかったか?」
そういわれて、抱きしめられたことと、頭にキスをされたことが思い浮かんだ。
でもこれを言ったらどうなるのか、玲司さんの反応が想像できなかったし、どう転ぶのかがわからなくて言うのを躊躇った。その事が原因でこの仕事がなくなってしまったら、またふりだしに戻ってしまう。それに、せっかく楽しくなってき始めていた香月さんとの共同生活がなしになるのは、単純に嫌だった。
「何もなかったです」
嘘がつけない俺の、必死のポーカーフェイスがこの人に通じるだろうか。
「すごいな」
玲司さんはそう呟くと、少し興奮したように続けた。
「天音が初対面の人の言うことをきいた事にも驚きだが、一緒に食事までするとは思わなかった」
「そうなんですか」
玲司さんが静かに頷く。
「実は、君の他に三人程この仕事をしたいと申し出た者がいたんだが、一人目は顔を合わせた途端、天音が部屋から出てこなくなった」
玲司さんはさらに続ける。
「二人目は部屋には入れたが全くしゃべらなかった。意思疎通ができないというのは問題だ。その時点で帰ってもらった。三人目は途中までは良かったんだが、天音が寝ている隙に作業場に勝手に入って掃除をしたらしい。それが決め手だったな」
ハウスキーパーとして当然の事をすると、かえってそれが仇になるなんて……。でもそれなら先にきちんといっておけばいいだけの話じゃないのか?そんなのが普通じゃダメだという根拠にはならないような。
「いくら腕の立つハウスキーパーでも天音との相性がよくなければ意味がない」
俺の内心を見透かすかのように、玲司さんは言った。
「天音はなんというか、勘が鋭いんだ。自分にとって良いか悪いか、空気感のようなもので判断してしまう。まぁそうはいっても天音に知り合いなんて殆どいないから、ただの人見知りかも知れないがね。そういう訳だから普通、では勤まらないのだよ」
そう言ってため息をついたけれど、玲司さんの表情は本気で困っているようには見えなかった。むしろ、手のかかるわが子を愛しむ母親のような、そんな穏やかな表情だった。
「天音が君を気に入ってくれて良かった」
「香月さんは玲司さんが連れてきた人だから疑わない、って言ってましたよ」
そういうと、また少し驚いたような顔で「だったら今までのはどう説明するんだ」と文句をいった。口ではそんな事をいいつつも、玲司さんの顔はほんの少し嬉しそうに見える。
香月さんが玲司さんに寄せる信頼と、玲司さんの香月さんへの想いは長い年月を通して培われたものなんだろう。そのことがなんとなくわかったような気がした。
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