137.山登りの遭難③(怖さレベル:★☆☆)

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137.山登りの遭難③(怖さレベル:★☆☆)

かなり、大きい。 小型動物では、絶対にありえない。 わたしはそこで、ひとつ、覚悟を決めました。 「そちらの方……どうぞ、逃げてください」 「えっ!? い、いや、しかし」 「クマやイノシシが出てきたら、わたしは足手まといですから……ひとりでも、助かったほうがいい」 この左足では、獣たちのスピードにはとうてい敵いません。 みっともないほどの体の震えと血の気の引いた唇は、 幸い、夜の闇が隠してくれました。 「どうか、早く……早く!!」 立ち止まったままうろたえている男性にそう声をかけると、 彼はほんの少し迷うように左右を見回した後、ゆっくりと頷きました。 「……わかった。くれぐれも気をつけて」 「ええ……お元気で」 「ああ。……悪かった、な」 男性は、ポツリと小さくつぶやいた後、 ガサゴソ音のする反対の方へと消えていきました。 その後ろ姿を見送った後、わたしは唇をつよくかみしめて、 大きな音のする方をするどくにらみつけました。 明かりがなくなって、辺りはすっかり真っ暗闇。 ガサゴソ音は、激しく木々を揺らしています。 (……もし、クマだったら) 今の自分ができる抵抗といえば、 荷物を投げつけるのと、大声を上げるくらい。 それだって、わずかな時間稼ぎくらいにしかならないでしょう。 痛む左足をかばうように後ろへ隠し、 揺れる木々をジッとにらみつけていると――。 ガサッ、ガサガサッ 「……う、わぁ」 大きさにして、ヒグマほど。 立派な二本のツノを頭に生やした、巨大な牡鹿。 それが、草むらの間から、ひょこりと顔を出したのです。 大きな黒く丸い眼球が静かにこちらを見つめつつ、 草をかきわけて、その巨体を現しました。 「な、な……?」 それは、一歩一歩、ゆっくりとした足取りで近づいてくると、 私のすぐ目の前で足を止め、こちらを見下ろしてきました。 (この山の……ヌシ……?) 一般的な鹿とは、明らかに大きさも雰囲気も別物です。 月明かりしかない宵闇の中でなお、 整った毛並みがキラキラと光って、いっそ神秘性すら感じるほど。 あっけにとられる私の目の前で、 その鹿はストン、と腰を下ろして丸くなりました。 腕に触れる、鹿のやわらかい毛並み。 痛みと不安、孤独によってはちきれんばかりだった心が、 次第にゆっくりと落ち着いてきます。 ああ、眠っても大丈夫なんだ。 なぜか、そんな確信までもがわいてきました。 (あっ……さっきの人、大丈夫だっただろうか……) さっき出会った男性の安否がチラッと脳裏によぎったものの、 私はそのまま、睡魔に引きずられるように、眠りに落ちてしまいました。 翌日。 無事、わたしは山岳救助隊によって助け出され、 地元の病院へと緊急搬送されました。 ええ、お恥ずかしいことに、朝すっかり眠りこけていまして。 携帯電話の激しい着信音に、たたき起こされたんです。 それが救助隊からの連絡でして。 でも、おかしいんですよね。 彼ら『昨日、何度も連絡したのにつながらなかった』って言うんですよ。 確かに、電波はあったはずなのに。 不思議に思ったものの、その後の救助の流れはスムーズで、 わたしは無事、一命を取り留めることができたんです。 わたしが思うに……あの牡鹿。 山の長であろうあの鹿が、私を助けてくれたんだろうと思うんです。 特にお供え物をしただとか、 なにか山の為にした、ってわけでもないんですけどねぇ。 それだけ、山の神様の心が広かった、ってことでしょうか。 ……え? 助けてくれた、は言い過ぎ? 怖くもなんともない話、ですって? ハハ……そうですよね。 ここまでならむしろ、山のヌシと出会えた良い体験ですから。 でも……本題は、ここからでして。 といっても本当に短い、いわゆるオチ、なんですけど。 山中で出会った、あの男性のことを覚えてますか? ええ、あの親切に声をかけてくれた、 ヘッドライトをつけた男の人ですよ。 わたしを近くの沢へ連れて行ってくれようとした、優しい方。 彼ね……亡くなってしまっていたんです、あの山で。 ええ……わたしもそれを知ったときはとんでもなく驚きました。 あの日、わたしが斜面から落ちて足をすべらせた後。 別の遭難が起きている、って言ったでしょう。 三人組の、登山グループ。 そのうちの一人が、滑落して、結局亡くなってしまったそうなんです。 そのグループの一人――亡くなった一人が、 わたしを助けてくれた、あの人だったんですよ。 ……どういうことか、って? まぁ……よくよく考えれば、最初からおかしかったんですよね。 夜の7時過ぎで、 すでに暗くて身動きもしにくい時間帯。 テントを立てるにも不便な、あんな斜面の下のところに、 登山者の男性が訪れること、それ自体が。 ふつう、あのくらいの時間だったら、 山小屋で休むか、テントを張って休んでいる頃ですからね。 まぁ、それだけだったら、ただの変人。 そういう人もいるかも、と思いますが。 わたしね、助け出されたとき、救助の方に聞いたんですよ。 「このそばに、沢はありますか?」って。 その時は別の遭難事件の詳細を知らなかったので、 沢にあの男性が逃げていたら、 いっしょに救助してもらった方がいいかも、 と思ったものですから。 でも、帰ってきた言葉は、 「いやぁ……沢、というか滝つぼならありますけど。けっこうな高さがあるので、危険ですよ? たまに誤って落ちて死ぬ人もいるくらいですから」 というセリフでした。 もし、あの夜。 彼に言われるがまま、沢――いえ、滝つぼに向かっていたら。 わたしはいったい、どうなっていたんでしょう? この足で、滝つぼに突き落とされたら。 そういえば、あの夜、肩を組んだ彼の腕、 秋の終わりの残暑の頃だというのに、 やけに冷たく、ぶよっとしていたんですよね……。 ……わたしはそれから、ひとり登山と、 無茶な旅日程を組むことはいっさいなくなりました。 次、なにかあったとき。 また……助けてもらえるかも、わかりませんから。
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