緊張ジャンキー

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「引退?」  心底意外そうに眉を顰めた彼に、穂高は浅く頷いた。  こちらの表情に察するところがあったのだろう、彼は問いを重ねることはしなかった。ぼちぼちと手元のスポーツ紙に視線を戻す。 「あいつなら、他から声がかかりそうなもんだが…そうか…」  少し目を伏せると、長い睫毛の影が出来る。穂高はひとつ頷いた。 「やり残したことが、あるんやて」  ゆっくりと、はっきりと。ケントの言葉を繰り返す。 「日本一に、なるんやて」  一瞬、何のことだ、という顔になったが、次の瞬間、彼のアーモンド型の瞳が大きくなる。 「なるほど」  そうひと言、呟いて、彼は紙面を眺める。ただきっと文字を読んではいまい。もう一度、なるほど、と聞こえた。  ストーブリーグを迎え、職場周辺はざわついていた。その中で、今の相棒が下した決断は穂高の心にひりついて、何年か前の夏を思い起こさせた。  あそこに帰るのだ、とケントは言った。  あの、夕暮れを切り裂く白球と、祈りの。 「まあ…そうだな。いいかげん、関を越えてもらわないとな。できんだろ、あいつなら」 「うん。そんで、胴上げされて、自慢されるんやろなぁ」  ふふっ、と笑った穂高をちらりと斜め見し、彼は言い放った。 「おまえも引退したら?」 「は、はい?!」 「そろそろいいだろ、もう。日本一にはなったし、開幕投手とかS村賞とかは無理そうだし」 「え、なにそれ、ひどくない?!」  抗議する穂高には応えず、「ああ、でも」と彼は再びスポーツ紙を眺めながら、 「柳澤に勝つまでは待ってやる」  とだけ。  結局、どうしようもなくて、穂高は笑った。
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