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第二部
「……まったく、なんて王子様だ」
初めてのくちづけを交わしてしばらく抱き合った後、船長室に戻るというロルカに、一緒にいたいとサッヤードが無理を言ってついていくと、寝間着に着替えた海賊が金髪をかきあげて苦笑した。
「いいじゃないか、一緒に寝るくらい。揺れるから1人だと落ち着かないんだ」
「……まあ、好きにしな」
整ったロルカの顔立ちを見ていると、胸がときめくのを感じる。(愛してる)はっきりと告げられて、サッヤードは自分も彼を愛していることを改めて感じた。成人男性がふたりは余裕で寝れるロルカの寝台に潜り込むと、やれやれ、と肩をすくめたロルカが隣に横たわる。
「……こうなると、わかってたのか?」
すべてが、計算通りだったのか。あの、出逢った夜から。サッヤードが自分に惹かれることも、衝撃のあまり一度こっそりと船を降りても、自分の意思で戻ろうとすることも。そして、彼とくちづけるような仲になることも。
どこまで計画的なのかわからないロルカにこてんと横を向いて尋ねると、顔にかかるサッヤードの黒髪をかきわけながらロルカが首を振った。
「いいや。でも願ってた」
「……そうか…」
気障な答えに、すこし気恥ずかしくなって目を逸らす。いつから彼は自分を愛していたのだろう、いつから興味が恋にかわったのだろう。そんなことは確かめても意味がない。自分が答えられないのと同じように、ロルカだって確かな答えは持っていないだろう。ただ意味があるのは、ふたりが今ここにこうしていることだけ。
「で? 船は出ちまったが、本当に帰らなくていいんだな」
「帰らない。お前が死ぬところを、この目で見届けるまでは」
「ほほう。すさまじいプロポーズだな」
「! ち、ちが……冗談だ!」
「ははっ」
慌ててサッヤードが叫ぶと、ロルカが楽しそうに笑った。ああそうだ、この笑顔に弱いんだ……。いつも余裕綽々の笑みを浮かべているロルカだけれど、サッヤードの何が面白いのか、こうして時々声をあげて笑ったり、愛おしそうに微笑んで見つめてきたりするのだ。それに気づいた時から、この男のことが頭から離れなくなっていた。そして、何より。
「もっと、この世界を見てみたいんだ……私が、生きる意味を見つけたい」
「もうあるさ、意味なんて」
そっと顔を近づけて、ロルカが低くささやいた。
「お前は俺と一緒に、広い世界中を旅するんだ。どこまでも、海が呼ぶ限り……」
「……」
その言葉に感動して、サッヤードは黙ってロルカを見つめた。しかし思えば、人をこういう意味で愛することも、その相手と共に寝台に寝ることも初めてで。ひょっとするとこの男は、今夜自分を抱くつもりなのかと一瞬ひるんだ時。
「……おやすみ、サッヤード。よく眠れよ」
ちゅ、とまぶたにくちづけて、ロルカは寝返りを打ってサッヤードに背を向けた。(なんだ……)違ったのか。高鳴る胸を押さえて、サッヤードはおとなしく目を閉じた。
* * * *
「……はぁ…」
「寝不足だな。顔が死んでるぞ」
翌朝。いつもよりも早く船長室を出たロルカが食堂で砂糖たっぷりのコーヒーを飲んでいると、姿を見せたデミアンが皮肉げに笑った。おそらく徹夜で医学書でも読んでいたのだろう、そう言うデミアン自身も眼鏡の奥の目が落ち窪んでいた。
「あの子と同衾か? ついに想いを遂げたのか」
「……ほっとけ」
「はん。その様子じゃ、手も出せずに悶々としてたんだろう。ま、無理もねえな」
あの純真な王子様が、相手じゃな。そう言うと、デミアンはサッヤードの手元からコーヒーの入った瓶を取り上げて自分のカップに注ぎ、ブラックのまま口をつける。「まずい。お前が淹れたのか」と呟いて、目の奥をおさえる。
「嫌なら飲むな」
「ったく、コーヒー1つ淹れられねえわ、好きな相手に何もできねえわ…」
「あのな。ちゃんとキスはしたぞ」
「子供だってそれくらいできらぁな。いつからそんなに奥手になった? 初恋かよ」
「……別に……」
ただ、あの純粋そのもののサッヤード、おそらく恋もはじめてだろう砂漠の王子を見ていると、下手に手を出したりしたら怯えさせ、傷つけてしまいそうで。キス以上のことは何も出来なかった、デミアンの言う通り、まるで初恋に悩む子供だ。
「まあ、想いは通じたなら良かったよ。それじゃ、名前は教えてもらったのか」
「名前? サッヤードだろう」
「なんだ。知らねえのか、お前」
「……?」
こいこい、と手招きされるままにコーヒーカップを手に食堂の隅の椅子に腰を下ろすと、デミアンは指で眼鏡を押し上げた。(名前…?)一体、何の話だ。
「アステアの王族は、生まれた時に2つの名を付けられるそうだ。伝説だがな」
「2つ……?」
「1つ目の名前は、両親しか知らず、決して公になることはない」
「聞いてないぞ、そんなもの」
「だろうな。真の名を教えてもらえるのは、生涯の伴侶となる相手だけだそうだ」
生涯の、伴侶。その言葉があまりにも唐突で、ロルカは息を呑んだ。そんな話は、サッヤードから一度も聞いたことがなかった。
(まあ……)
海賊相手に、する話でもないだろう。そう言い聞かせて、ロルカは甘いコーヒーを飲み干した。
* * * *
海賊船は、イスマイアを遠く離れて航海を続ける。アズールは医師助手見習いとして、デミアンの医務室で日々彼から多くのことを教わっていた。
「よし、よくこの本を理解してるな。次はこれを読め」
「わかった」
医学書を読んで学んだことについて口頭でテストを受け、合格点を貰えば次の本。といったように授業は続いていく。覚えることは山のようにあり、空いた時間で脱脂綿を切ったり、医務室を掃除したりとやることも沢山あったが、役に立てていることが嬉しかった。
「今日は、これくらいにしとくか。ラニエが淹れた茶が冷める前に休憩しよう」
デミアンの言葉に、山と積まれた医学書の前でこくんとサッヤードは頷いた。カップに注がれた紅茶を受け取ると、ふと聞いてみたかったことが頭に浮かんだ。
「なあ。デミアン、あなたはどうして医者になったんだ? それも海賊船の」
「うん? なんだお前さん、俺に興味があるのか」
「知りたいんだ、その……仲間の、皆のことを」
仲間、という言葉を彼らに向かって使うのは初めてで、少し緊張したが、ストレートの紅茶を口に含んだ船医は、「ふむ。それもそうか」と意外にも簡単に納得したようだった。
「……別に、海賊船の船医になりたくてなったわけじゃあねえよ。医者も同じだ」
「へえ?」
「俺の生まれた地域は、内戦がずっと続いててな。父が医者だったから、俺も小さな頃から診療所を手伝ってた。ちょうど今の、お前さんみたいにな」
「……そうだったのか…」
内戦地域の、生まれだったのか。初めて聞くデミアンの過去は興味深く、頷きながらサッヤードは聞いた。
「毎日毎日、運ばれてくるひでえ負傷者を手当して、爆撃機が来たら地下室に隠れて……そんな暮らしさ。救いも光もねえ、いつ終わるのかもわからねえ日々だ」
「……」
「初めて縫合したのは、10歳のときだ。見るか?」
そう言って、デミアンは左の袖を肘までまくってみせた。そこには、ギザギザに走る、白くなった古傷の痕が残っていた。「……!」まさか、自分で、自分を。
「今なら勿論、こんな醜い痕にゃあならねえが……ガキなりに必死だったよ。隣の親父に砲弾が直撃して即死、あたり一面死体と負傷者の山。治せるのは俺だけだ」
「…それは……大変、だったな……」
「まあな。……それからずっと、俺は医者だ。他の何にもなれやしねえ」
「……」
目をすがめて語るデミアンの過去は、思いを馳せることもできないほど過酷なものだった。ラニエの話を聞いた時同様、サッヤードは、彼らが乗り越えてきた苦難の大きさに目がくらみそうになる。世界というのはかくも広く、残酷なのだ。知らずに生きてきた自分が恥ずかしいが、これから知ればいいのだと思い直す。
「……デミアン。私は、師匠があなたで良かった。あなたを誇りに思う」
「そいつは、どうも。ありがとうよ」
「この船には、いつから?」
「さあ。何年経ったか覚えちゃいねえが……ロルカの奴とは、前の船から一緒だ」
「!」
急にロルカの名前が出てきて、サッヤードは目を見開いた。前の船。そうか、この海賊船はロルカにとって、初めて乗った船というわけではないのか……当たり前だ。そう簡単に買える規模の船じゃない。
「どうやって……その、一緒に?」
「引き抜きみてえなもんだな。お前が必要だから一緒にこい、の一言さ」
「……随分、仲がいいものな」
ふいに寂しさというか、かすかな疎外感を感じてサッヤードが呟くと、はっ!とデミアンが笑った。毒舌家の船医にしては珍しく、その瞳は優しかった。
「まあ、腐れ縁ってとこだ。お前さんのほうが、今の奴にはよほど大事だろうよ」
「……そんな…」
「この話は、今日はここまでだ。そろそろアズールの稽古の時間だろ、準備しな」
「わ、わかった!」
慌ててサッヤードが立ち上がると、デミアンは紅茶のカップを受け取りながら、ふと眼鏡の奥の鋭い目を細めた。
「……なんだ? デミアン」
「いや……この俺が、弟子をとることになるとはね。お前さんは、大した男だよ」
もう、王子様とは呼ばれなかった。それが、何よりも嬉しかった。
* * * *
「アズール! アズールは、どうしてこの船の副長になったんだ?」
ロルカが甲板から見守る前で、刀を模した木材を手にしたサッヤードは黒髪に隻眼のアズールに大きな声で尋ねた。問われたアズールは無言で木材を構える。
「なあ、皆のことを知りたいんだ。話せる範囲で、教えてくれないか」
なるほど、今度はそういう方向に好奇心がめぐったわけか。面白い男だと、ロルカがにやにや笑いながら眺めていると、何を言われてもしばらく黙っていたアズールが、諦めたのか口を開いた。
「……私から、一本でも取れたら話しましょう」
「! 本当か!」
「ええ」
「よし……。いくぞ!」
あれまあ、あんな約束していいのかね。と思うが、まあアズールからサッヤードが一本でも取れるようになるには当分時間がかかるだろう。と、通りがかったラニエが洗濯物の籠をかかえて声をかけてきた。
「いいのですか? サッヤード様、ムキになって逆に隙だらけですけど」
「お前から見てもそうか」
「僕は素人ですが、それくらいは……」
「まあ、アズの口を開くには、よほど頑張らないと無理だろうな」
常日頃から寡黙なアズールだが、酒にも異常に強く、いくら呑んでも全く乱れない。したがって酔わせて口を開かせる戦法も使えない。正々堂々と戦い、一本をとるしかないだろう。楽しみだな、と眺めている目の前で、サッヤードの突きがガツン、とアズールの木材にぶつかった。おお。
「でも見ろよ、成長してる」
「わあ。そうみたいですね」
若くしなやかなサッヤードは、身のこなしも構えも攻撃も防御も、またたく間に吸収して成長していく。それが面白いのだろうか、アズールも熱心に稽古に付き合い、その間は珍しく多少は口を開く。
(この、王子様は……)
どうやらひたむきなサッヤードが変えていくのは、ロルカ自身のことだけではないようだ。ラニエも同年代のサッヤードと過ごすようになって目に見えて明るくなったし、デミアンも愛弟子扱いしてらしくもなく面倒を見ている。料理長のエドモンドも、あの方がいると華やいで楽しいと言っていた。
サッヤードには、周りを巻きこみ、変えていく不思議な力がある。彼自身が、意図も意識もしないうちに。
「……っ、くそ、惜しかったぞ今のは!」
「ですが、打撃のあとに身体が流れ過ぎです。カウンターをくらいますよ」
「う……っ」
的確なアズールのアドバイスを飲み込んで、ふたたび構え直すサッヤード。きっとこのまま、剣の名手へと成長していくのかもしれないと思いながら、ロルカは遠くから彼らを見守っていた。怪我だけはするなよ、サッヤード。
* * * *
「ああ、疲れた……」
「お疲れさん」
サッヤードが自らの青い船室で、寝台に寝転ぶと、開きっぱなしだった扉からロルカが現れた。今日一日忙しく、ほとんど会話もしていなかった、恋人と呼んでいいのだろう海賊の登場に胸がどくんと跳ねるのを感じて起き上がった。
「ロルカ! お前、今日一日どこにいたんだ」
「どこって、あちこち色々あってな。お前の稽古は見てたぜ」
「稽古……今日も、一本も取れなかった…」
「相手はあのアズだ、そう簡単にはいかないさ」
努力あるのみだ。隣りに座って髪を梳かれながら言われて、胸のときめきと、幸福を感じる。ああ、私は、この男のことが好きなのだ……。色褪せた金髪、クリスタルブルーの瞳、日に灼けて傷だらけの肌、その唇が弾力があって柔らかいことも、もう知っている。
「ここの暮らしにも、慣れてきただろう。もう王子じゃなく、海賊の一員だな」
「……ああ…」
「まあ、肩書なんてどうでもいいさ。お前はただのサッヤード……それでいい」
ささやく声は、どこかさみしげにも感じられて。どうしてだろう、自分たちは今ここでこうしてふたりでいて、誰も邪魔するものはいないというのに。
「ロルカ…」
「……真の名を告げたい相手ができたら、教えればいい。俺は気にしない」
「……!」
知って、いたのか。(まさか…)アステアの一部の人間しか知らないはずの伝説。アステアの王族は2つの名を持ち、1つ目の真の名は、両親の他には生涯の伴侶にしか教えてはならない。まさか、異国の海賊である彼が知っているとは…。言葉を失うサッヤードに、ロルカは優しく微笑んで。
「次の目的地は、リンドロールだ。楽しみにしてろ」
「…あ、ああ……」
頷くと、頬にそっとくちづけて、ロルカは船室を出ていった。もう少しそばにいてほしかったのに、どうしてかそれは言えなかった。
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