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第一部
海が呼んでいる。
「船を出せ!」
真紅に塗られた海賊船の甲板を大股で通り過ぎながら、褪せた金髪の男は叫んだ。その逞しい肩には、豪奢な布に包まれた大きな物体を担いでいる。
「船長」
「アズ、出航だ。もうここに用はない」
右目に黒い眼帯をした痩身の副長、アズールが声をかけるのに大声で答えて、そのまま船長室へと階段を降りていく。その背後で、アズールが船員たちに叫んだ。
「碇を上げろ!」
「出発だ!」
一見どたばたと、しかしその実は訓練された緻密さと迅速さで動き回る船員たちをよそに、船長と呼ばれた海賊は自らの寝室へと降りていき、足で扉を蹴り開ける。そうして、もがく物体を天蓋付きの豪華な寝台に放り投げた。どさ、と重い音がする。それは人だった。ぐるぐる巻きにされた人間。包んでいるのは引きちぎったカーテンで、彼女は海辺の離宮の寝室からたった今、自分がこの手でさらってきた。
「観念しな…もう船が出る。故郷とはおさらばだ」
寝台の上で身じろぎするカーテンの塊に声をかけ、何重にもくるまれて身動きの取れない人質の顔をようやくしっかりと見ようと、カーテンをまくって広げた。
「わが海賊船にようこそ、アステア砂漠の宝石、サリヤ姫!」
「……っ」
半身を起こした、砂漠の姫君。もともと被っていたベール、その下でぐしゃぐしゃに乱れた長い豊かな黒髪。その隙間から、黒曜石めいたアーモンド型の瞳がぎらりとこちらを睨んだ。おお、勇ましい。ふふと笑って髪をかきわけてやると、そこに違和感を感じた。
(…?)いや、そんな。そう思った瞬間、囚われの姫君…のはずの相手が、腕を後ろに縛られたまま、低い声でにやりと笑った。
「……馬鹿め」
「…!」
(まさか…)ぐっと細い顎を掴んで仰向けにのけぞらせると、褐色の肌の細い首には、しっかりと小さな林檎のような膨らみがあった。これは。
「お前…!」
「…ようやく気づいたか。私はサリヤではない、双子の兄のサッヤードだ!」
「なに…!?」
黒曜石の瞳にけぶる濃い睫毛、背中まで届く長い黒髪、褐色のなめらかな肌。まとっているのは姫君の衣装でも。「…!」がばっとその胸襟を広げれば、平らな胸が顕になる。(男…?)この、美しさでか。
「妹はすでに遠くに逃げた。港にはもう戻れまい…愚かな海賊め!」
「なんだと…?」
砂漠の宝石、奇跡の美女と名高い妹の身代わりに、さらわれてきたというのか。男はくらりとめまいがした。アステアの民、それも王族は極端に誇り高く、また大切なサリヤ姫を守るためなら何でもするだろうとは聞いていたが、これほどまでとは。内心の怯えを隠しながら、ぎり、とこちらを睨みつけてくるこの美しい青年は、では王子なのだろう。サッヤード。名前は聞いたことがなかった。
「……ああ、そうかい」
男は毛先にいくにつれて褪色がひどい、海風で傷んだ金髪をかきあげた。クリスタルブルーの瞳で、黒い瞳を見据える。はだけた褐色の胸元、乱れた長い黒髪、落ちて破れたベール。何もかもが、情欲をそそらないとは言えない。
「ま、正直俺は気にしないね。これほどの美しさなら、男だろうが女だろうがかまやしない」
「…!? 本気で、言ってるのか!?」
「さてね。怯えた顔がそそるよ、お姫様」
「私は姫ではない! 貴様に汚されるくらいなら、舌を噛んで死んでやる…!」
「おっと、そいつは困るな。せっかくの寝台を血まみれにされたくない」
「……っ」
落ち着けよ、と両手でたしなめると、サッヤードと名乗った王子はぐっと唇を結んだ。強がっていても心の奥では、出航してしまった海賊船にひとり囚われ、恐ろしくないはずがない。けれどそれを表には出さないように必死で高貴に振る舞うのが面白く感じて、男は自分の顎を撫でた。
「放り捨てて、サメに食わすには惜しいしな…まあ、これほどの上玉なら高く売れるだろうが…」
「…!」
「嫌か? それくらい、覚悟して来たんだろう? …まあいい、とりあえずそこで大人しくしてな」
「ま、待て、海賊!」
誇り高い王子を置いて一旦船長室を出ようと踵を返すと、サッヤードが慌てて叫んだ。
(海賊…ね)呼ばれた男は伸び放題の金髪をがしがしとかいて、肩越しに振り返り、にっと笑ってみせた。
「あのな。俺にもちゃんと、名前ってもんがあるんだよ。ロルカさ、王子様」
名乗ると、男は部屋を出てバタンと扉を閉めた。サッヤード、砂漠の王子。さて、どうしたものか。
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