絶海に秘める恋唄(美形兄弟BL)

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 K県Y港から、チャーターの漁船で三十分ほど沖合へ向かった先にその島はある。  祀津(しづ)島。  周囲約十五キロ。古い時代の火山活動によって生まれたその島は、かつての火口の名残が今は巨大な入り江と化し、ちょうど眼科検診で用いられるランドルト環のような形をしている。天然の良港を備え、火山質の土壌のおかげもあって良質の地下水に恵まれるこの島は、古くから不知火海を行き交う船の一時寄港先として重宝された。ただ、島自体は小さく、これという観光資源にも乏しいことから、本格的な観光地化の話は今も聞かない。先の戦争を終えて二十年近くが経つ今なお、昔ながらの島民が漁業と椿油の生産とで細々と食い繋ぐ貧しい島だ。 「本当に行くんですかぁ、係長」  高波に振り落とされないよう必死に船端にしがみつきながら、部下の大貫が泣きそうな声で問う。つい一昨日フィリピン沖で新たに発生した台風による影響か、普段は穏やかなはずの不知火海には波が出て、十人乗ればやっとの小型漁船は、出港当初から木っ端のように煽られていた。 「別に、現地の警察か消防団にでも警報を出しておけば済む話じゃないですかぁ。僕らの仕事は予報です。何もわざわざ東京から足を運ぶ必要ないじゃないですかぁ」 「わかってるさ」  うんざり顔で答えると、やはり船端に腰を下ろす祀津聡介はジーンズの尻ポケットから煙草を取り出し、一本を口の端に乗せる。舳先で弾ける波飛沫を避けるように手のひらで口元を覆うと、上野で買った米軍放出品のジッポで先端を炙り、火を点けた。 「それでも今回は、何としても戻らなきゃいけなかったんだ」  そして聡介は、前髪を攫う向かい風の中、ふぅ、と盛大に紫煙を吐く。 「戻る?」 「お前、俺の姓があの島の名前と同じだって気付いてなかったのか?」 「姓? ああ、そういえば係長もそんなお名前でしたっけ。いつも係長とばかりお呼びしていて、つい……えっ、ひょっとして係長、地元じゃ結構な名家だったりするんです?」 「そうだよぉ」  聡介の代わりに、答えたのは今も船橋で舵を取る漁師だった。かつて聡介が福岡の大学に通っていた頃、帰省のたびに海の足となってくれたのも彼だ。普段は八代に住んでいるが、不知火海沿岸を主な漁場とし、島に立ち寄るついでに島民に足を貸したり、急ぎの荷物や郵便物を引き受けることも多い。 「聡介君はねぇ、こう見えて島に古くからある神社の息子さんなんだよぉ」 「へぇ、やっぱりすごい名家なんですねぇ。……えっ、じゃあどうして係長は家業を継がなかったんです? 困りません? 神社の人」 「ああ、それは大丈夫。今は弟の那――」 「親父さん、もうそのくらいで」  漁師の無駄口を半ば強引に封じると、聡介は西の海へと目を戻す。水平線上にずんぐりと横たわるテーブル状の島影は、懐かしい姿でありながら、今は立ち込める雨雲のせいか不吉な印象を聡介に与える。  そういえば、島に帰るのはかれこれ十一年ぶりか。  あいつは……元気にやっているだろうか。
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