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町はもうとっぷりと日が暮れていました。買ったばかりの薬を懐に入れると、澪(みお)はちょうちん片手に闇の中へと歩み出しました。
屋根を石で押さえてあるような、粗末な小屋が並ぶ通りは、もう人影はありません。提灯の明かりの届かない闇の中で、木の葉が舞う音がかすかに聞こえます。野良犬が一匹、澪の姿に驚いたようにかけ去っていきました。
病気になった母のために、澪は毎日この町まで薬を買いに来ていました。母が待っている小屋は、山を越えた先の海辺にあります。これから、澪は一人で暗い山道を行かなければならないのでした。
町の端に行くにつれ、家々から漏れる声は遠くなり、木々のざわめきが大きくなりました。
「おや」
山の入り口に立った時、道の端に丸い光が浮かんでいるのに気がつきました。
彼女と同じように、ちょうちんを持った誰かがそこにいるのでしょう。その光の球の上に深紅のポッチリとした明かりが灯っています。
近寄ってみると、その誰かは、色のあせた着物を着て、煙管(キセル)をふかしている青年でした。
青年は、彼女が近づくとなぜか急に嬉しそうな顔になりました。
「お嬢さん、ひょっとして、この山の向こうにいくのかい?」
涼やか風に乗り、煙の匂いが漂ってきます。
「ええ、まあ」
少し警戒しながら、澪は答えました。この人は、なんの用事で話かけてきたのだろう?
「危ねえなあ。実は、俺も山の向こうまで用があるんだ。なんでも、この山には人を騙す狐狸(こり)が出るっていうぜ。どれ、俺がついていってやろう」
「うんうんそれがいい」と青年は1人でうなずいています。
澪は、しばらくきょとんと青年を見つめたあと、ふふっと吹き出しました。
(あら。この人はきっと、山道が怖いのだわ。だから、私を道連れにしたいのね)
澪は、嬉しそうに見えるように、にっこりと笑いました。
「本当? それは嬉しいわ。一緒に行ってくれる?」
山道の途中で青年が追い剥ぎに代わって、と言う可能性も考えましたが、目の前の優しそうな顔を見るとその心配はないように思えました。
山といっても、半刻もあれば超えられる小さなものです。二人はおしゃべりをしながら歩いていきました。
「俺は沙七(さしち)って言うんだ。この近くで漁をしている」
煙管を吸うたびに、光が鼓動のように明滅します。
「私は澪。母と一緒に親戚に訪ねに行った帰りだったの」
沙七に応え、澪も自分の事をぽつぽつと話始めました。
「だけど母が病気になって。この近くの小屋を借りて、治るのを待っているのよ」
澪は、ちらりと道の先に目をやった。
「この山の向こうの海岸で、海藻や貝を採って、あの村で売っているの。そのお金で、必要な物と、母の薬を買っているの」
「ああ、あの薬はお母さんのものだったのか」
その言葉に、澪は少しびっくりして沙七を見つめました。
「あ、いや、別にあんたが薬を買ったのを見てから、先回りしたわけじゃないぞ。何日か前薬屋の前で見かけたから」
「あら、そう? 私はてっきり、目を付けられたのかと思ったわ。『恐い狐狸(こり)が出る道を、一緒に通ってくれる人を見付けた』って」
澪がそう言ったとたん、繁みが揺れ、二人とも驚いて足を止めました。
茂みの中から飛び出したのは、小さな狐でした。澪と沙七は、顔を見合わせ笑い声をあげました。
それから、二人は毎晩一緒に山を越えるようになりました。
沙七は、色々な話をしてくれました。
魚の群れを見つけるには、波ではなく空の鳥を見ること、海にいるという、大きな大きなウミヘビの話。なんでも、そのウミヘビは何百年も生きていて、竜のような神通力を備えているとか。
「この煙管? ああ、親父の形見なんだよ」
ある夜、沙七は澪に言いました。
その煙管は、細かな彫刻の施されていて、ちょっとしたものでした。
「親父は、若いときは少し羽振りがよかったそうだよ。俺みたいな貧乏漁師が使うには上等すぎるかもしれないな」
「そんなことないわよ。似合ってるわ」
「本当は、どこにも行きたくなかったの。親戚の家にも、この村にも」
ある夜、ぽつりと澪は沙七に呟きました。
そして、狐が出てきた繁みに小さな団子を一個、ぽとりと落としました。
澪は、あの仔狐が気に入って、なんとか仲良くなれないかと毎日食べ残しを落としていました。
次の夜に見てみると、食べ物は無くなっているし、足跡はあるので、食べてはいるのでしょうが、まだ姿を見せてはくれません。
「だって、どんな人がいるか分からないし。この辺りはとても寒いし」
「寒い? あんたは南の方からきたのかい?」
ぴくっと澪は体をこわばらせました。
「え、ええ。南の方から来たの。お日様の光が差し込んで、ぽかぽかしていいところよ。でも、そんなことはどうでもいいじゃないの」
澪は慌てていいました。ここにくる前のことは、わけ有ってあまり言いたくないのです。
「でもさ、ここだって悪い人ばかりじゃないだろう?」
「ええ。あなたにも会えたしね」
澪はそういってにっこり笑いました。
「あなたは、この山のむこうに住んでいるのでしょう?」
澪は聞きながら、
「ふもとの近く? それとも、山を越えて、もっと歩くの?」
そう聞くと沙七は少し困ったような顔をしました。
「それは実はその……こっちじゃないんだ」
「え?」
「こっちの方向に家はないんだ。ただ。あんたと少し話がしたくて」
思わず、澪はぽかんとしてしまいました。
「そうだったの」
澪が笑うと、青年はゴシゴシと頭をかきました。
それは、遠回しな告白でした。
沙七は、山を越える必要もなく、夜の山道が怖いわけでもなくて、やはりただ澪と話したい一心で待ち構えていたのです。
なんだか澪はあったかく、照れくさい気持ちになりました。
「でも、私は帰らないといけないから…… それまでの間でよかったら、また一緒に帰ってくれる?」
これもまた遠回しな、澪の断わり方でした。
青年は、少しさみしそうな顔をしたが、すぐに気を取り直したようでした。
「じゃあ、また明日」
山道をぬけると、右手に砂浜が見える、荒れた土地に出ます。
潮風を受けながら、澪は手を振りました。
次の日、澪は山道に入りましたが、沙七は来ていませんでした。
暗い山道には、澪の物以外、ちょうちんの明かりはありません。煙管の明かりもありません。ただ、両端が木と繁みで覆われた道が、闇に覆われているだけです。
なんだか、嫌な予感がしました。
(沙七さんは、風邪でもひいているのよ。でなければ,どうしてもはずせない用事ができたのよ)
澪は、そう自分に言い聞かせました。そして、山道を一人で歩き始めました。
風にロウソクの火が揺れて、澪の影が木々に映って揺らめきます。
繁みをのぞいてみましたが、子狐はやっぱり出てきてくれません。
仕方なく、澪は再びトボトボと歩き出しました。
今はそばにいるのは自分の影のだけ。沙七と出会う前は気にならなかった一人の山一が、、こんなに寂しいなんて。
次の日もその次の日も、沙七は来ることはなく、彼女はひとりで帰りました。
ある日、また薬を買って帰ろうとした時、澪は村の通りが少しざわついているのに気がつきました。
もう日が暮れているのに、男が数人、道に固まって小声で何やら話しているのです。
珍しいことだと思いながら、その横を通り過ぎようとした時、自然と男達の会話の一部分が耳に入ってきました。
「死体が」
「ここ数日、波が高かったからの」
なんだか妙な胸騒ぎを感じ、ドキンと澪の心臓が跳ね上がりました。
「あの……何かあったんですか」
恐る恐る彼女は話しかけました。
「ああ、さっき、浜で土左衛門(どざえもん)があがったんだよ」
男の一人が応えます。
なるほど、この男の人達は今まで亡くなった者の家族に連絡をしたり、弔いの準備をしたりして帰るのが遅くなったのでしょう。
「高い波で、船から落ちたんだろう。亡骸だけが浜に打ち上げられたんだ」
もう一人の男がいいました。
「それで、その人が誰だか、分かったのですか?」
跳ね上がった鼓動は、おさまることなく強く打ち続けます。
どういうわけか、それが誰だか、澪には分かっていました。けれど、聞かずにはいられなかったのです。
「ああ、沙七って奴だよ。かわいそうになあ」
「そうですか」
なんだか熱でも出たように足元がふわふわしました。
(だからこの最近来てくれなかったんだ)
そして、今夜も、いえ、これからずっと、1人で帰らなければならないようです。
ふらふらとしながら、澪は山の入り口までたどり着きました。
自分以外のちょうちん以外の明かりはありません。それはそうでしょう。青年はもういないのですから。
とぼとぼと歩き出した時、ふんわりと苦い匂いが漂ってきました。
沙七の煙管の匂いでした。
「沙七さん? そこにいるの?」
返事はありません。火の明かりもなく、ただ煙の匂いがするだけです。
澪は少し微笑みました。姿は見えなくても、彼はきっとそばにいるに違いありません。
澪が歩くと、その香りは後をついてきました。いつも二人が分かれていた、山道の終わりまで。
「ねえ、聞いて。今日は貝がたくさん採れたのよ」
まるでそこに生きている沙七がいるように、澪は煙草の香りにむかって語りかけました。
返事はありません。けれど、澪はそれでも満足でした。必ず沙七は聞いてくれていると信じていたからです。
「だけど、魚はあまり採れなかったの。罠をしかけておいたんだけどね」
そう言いながら、澪は繁みをのぞきこみました。やっぱりキツネはいません。
「なんだか、この繁みを見たら初めて会った時のことを思い出したわ。ちょうちんの氷の上に煙管の火がチカチカ浮かんでいたっけ」
暗闇の中に、赤い星のような灯りが浮かんでいました。沙七の、煙管の火でした。
「沙七さん?」
澪はちょうちんを掲げ、灯りのもとを照らしてみたくなりましたが、なんとか我慢をしました。
もしそんなことをしたら、沙七がいなくなってしまうような気がしたからです。
小さな煙管の火は、山の麓までふわふわ、ふわふわと澪を先導すると、静かに消えていきました。
山道に、二つの灯りが浮かんでいました。小さな煙管の火と、その下にちょうちんの灯りと。
ちょうちんを持っているのなら、当然体の前面は照らし出されているはずですが、そこには誰もいませんでした。ただ、闇があるだけなのです。
「また待っていてくれたのね、沙七さん」
澪は、微笑んだ。
「母は、だいぶよくなったわ。もう家に帰れそうだって」
ふらふらと灯りが揺れる。そしてゆっくりと山道をたどり始めました。
そしてそれは、そろそろこの夜の散歩が終わるということでした。
「ねえ、最後に姿が見たいわ」
澪は小さく呟いた。
まるで陽炎でも立っているように、風と空気が揺らぎました。
闇がかたまり、人の形になっていきます。まるで黒い紙を切ったような、厚みのない影でした。
けれどその輪郭は、間違いなく沙七のものでした。
「ああ、沙七さん」
返事はありませんでした。
彼女の呼びかけが聞こえていないように、青年は背を向けて前を歩いていきます。
「待って」
走り出したとき、何かにつまずき、澪は転びかけました。
「きゃ!」
その悲鳴に驚いたらしく、沙七の影はびくっと体を跳ね上げました。
頭の両側、髷(まげ)を挟んでひょっこりと三角形の耳が飛び出します。代わりに人間の耳が引っ込みます。そしてふさふさとしたしっぽが尻から飛び出しました。
「まぁ!」
沙七の影は宙返りをしました。そして1匹の子狐の姿に変わりました。
澪に背を向け、かけさって行こうとします。
「待って!」
その言葉に狐は足を止めました。
「あなたが沙七さんの幽霊だったのね」
叱られるのを恐れる子供のように、子狐は縮こまったまま動きません。
「私が初めて沙七さんと出会った時にいた狐でしょ」
怯えた様子で、子狐が振り返ります。
自分が沙七に化けていた事を、澪がどう思っているか不安なのでしょう。
「大丈夫、怒っていないわ。あなたは私を慰めようとしてくれたのよね」
安心させるように彼女は微笑んだ。
「少しの間、本当に沙七さんが帰ってきたようで嬉しかったわ。ねえ、おうちにおいで」
澪の家は、砂浜に建てられていた掘っ立て小屋でした。潮が満ちても波が届かない場所にあるものの、よく見ると少し傾いていて、今にも倒れてしまいそうでした。
「おいで」
澪は、潮風で白っぽく変色した木の扉を開けました。
床は板張りで、むしろが1枚敷いてありました。その周りは、網や木箱、竿などが棚に置かれています。壁には窓が開いていて、風が入らないよう。むしろが垂れ下がっていました。
小屋の中には誰もいません。
子狐は、戸口で澪の様子をのぞいています。
「お母さん」彼女は床板に両手をかけました。そして次々と剥がしていきます。
床の下にある砂地には、大きな穴が開いていました。
その穴の中には潮が溜まり、そこに大きな海蛇が蛇のようにとぐろを巻いていました。
「お母さん、お客さんがきたわよ。薬も持ってきた」
澪の声に、ウミヘビはゆっくりと頭をもたげた。その大きさにビクッと子狐が体を固まらせる。
「おや、かわいいお客さんだ」
「具合はどう? お母さん」
母ウミヘビは、薬をぺろりと飲み込みました。
「ああ、もうだいぶいいよ。約束どおり、これから帰れそうだ」
子狐がもう一度澪をみたとき、澪は母よりも少し小さいウミヘビになっていていました。
「本当は嫌だったの。地上は乾ききって、寒くて、どんな人がいるのかわからないんですもの。でも、沙七さんとあなたにあって、ここもそんなに悪くないってわかったわ」
そこで少し澪は思い出し笑いをしました。
「前に住んでいた所について沙七さんに聞かれた時は困ったけれど。まさか私の正体を明かすわけにはいかなかったから」
「もう挨拶はすんだかい」
母ウミヘビが言った。
「私の病気も、人間の薬のおかげですっかり治った。もう海に帰れそうだ」
母ウミヘビの金色の瞳が子狐をとらえる。
「それでは子狐、娘の友達になってくれてありがとうよ」
高い空を渡る冬の風のような音を立て、母ウミヘビは中空に舞い上がった。
小屋の中にあるものがガタガタと音を立てます。木箱が落ちて、中に入っていた釣り針や、木のウキなどが散らばりました。
雨のように潮水が子狐に降りかかります。
小さな竜巻のようにうねりながら、母ウミヘビは開け放たれていた戸口から外へ飛び出して行きました。
むしろが舞い上がり、窓から夜の闇が見えました。
墨のように暗い海は、波頭だけが白く光っています。帯のような銀色の光が二筋、その中へと飛び込んでいきました。
小屋を飛び出した子狐は、いつまでも海を見つめていました。
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