一服

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一服

ヤニが染みついて薄い黄色を帯びた、本来持っていたはずの純白さを連想させるくたびれた壁紙が四方を囲んでいる。 4人ほどの空間を有した小さな正方形の部屋で、作業服のポケットから慣れた動作でタバコを取り出して一本に火を付ける男がいた。 3つに並んだ鮮烈な青のベンチに深く腰掛ける。不親切な椅子の錆びかけた骨が悲鳴を上げながら尻を支える。 左手には黒い木製のドアがある。扉上部の隙間、その向こうから続く動脈のような流線を描く電線が、たどたどしく中ほどで弛んで、右上部の黒く焦げたプロペラが煩く回る換気扇に繋がっている。 私はおもむろに口を開け、煙を遊ぶように解き放つ。ゆっくりと立ち昇る煙の行方を追った。 二本の蛍光灯の煌々とした白い光が小さな部屋に膨れ上がる入道雲のような煙を浮かび上がらせた。徐々に消え入る煙の向こう側、黄ばんだ天井の、特別目立つわけでもないが濃い黄色が主張しているシミを注視する。 何かの暗示を受けたわけでもなく、何でもないような一点に記憶とも妄想ともつかない映像を投影させ、映画でも見るように感傷に浸る癖が私にはあった。 最近ではこんな映像を見た。 枯れ葉がちらちらと舞っている川の岸の歩道を老夫婦が歩調を合わせ、その脇を整備された街路樹達の禿げた木の枝が高くからおごそかに見守っている。 私はふと通りがかった川に架かる橋の上から老夫婦の背中を見た。 スポットライトでも浴びたかのように、太陽の光が誇張されて、禿げた街路樹の枝は古い劇場の二階席から喝采する拍手の無数の手に、枯れ葉は銀色のスパンコールが散って、そして二人はゆっくりと真っ赤なカーペットを歩いていく。 束の間の投影癖が、いつの間にか私を満たした。 タバコの化学物質が脳に伝わり、全身の筋肉に休めの命令を送り、微量の快楽が私を支配する。 シミを見ている私の網膜に、挿絵のような光景が紙芝居をめくるようにして映写された。 工場で働く私の日常。やかましい機械音が耳をつんざく重機を、もたもたと扱う私の厚い両手。 ベルトコンベアーから流れる鉄やら木材といったがれきをいつまでも不器用な要領で選別する。 再び使えそうな物を大きなバケツに振り分ける。 遅いなお前は。とどこからか怒号がする。回転の悪い歯車は捨てられる。見込みのないゴミは異物として破棄されるそんな危機感にも似た強迫観念に苛まれる。 洗面台の鏡に映る、青白い光沢の肌に隈でくすんだ光の無い目。 次に周囲はスーツのサラリーマンが酒を飲んで談笑している。仕事の悩みを向かいの相手に打ち明けている。 赤ら顔で酒臭い上司達。 重機の大きい機械音にも負けないやかましい声で周囲の眼を気にせずに、同僚の愚痴を話す上司。 私はできるだけ口角を上げて、愛想を振りまいた。 上げた口角の肉によって視界の下方も盛り上がる。目の前の彼が歪んで見えた。 火を付けたばかりのタバコの煙が私の右頬を優しくなでてくれた。
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