いつもの夜のちいさなお話

1/1
70人が本棚に入れています
本棚に追加
/52ページ

いつもの夜のちいさなお話

 くつくつと明日の仕込みのトマトソースが煮える小さな音がする厨房で、秋本敦(あきもとあつし)は洗い物を終えて時計を見た。  そろそろ恋人が帰ってくる時間だ。  閉店三十分前に最後の客が帰って店の片付けもほぼ済んだ。有線から軽やかなアレンジのピアノ曲が流れて、ゆったりと一日が終わろうとしている。  かちゃと小さな音がして、細野史明(ほそのふみあき)が裏口(二人にとっては玄関)から入って来た。営業時間内だからガラスの小窓越しにそっと顔だけ見せる。 「おかえり」  秋本の声を聞いた細野のこわもてが柔らかくなる。客がいれば黙って頷くだけだから、これはもう閉店の合図。    口元をゆるめた細野が厨房に入ってくる。  その顔を見るたび秋本は胸の奥がもぞもぞする気がする。好きな人と暮らしていることが幸せでうれしくて。  中三で親戚の家を飛び出して新宿の路上で途方に暮れていた自分が、田舎町でカフェオーナーになって恋人と一緒に住んでいるなんて信じられないくらいだ。こんな落ち着いた生活を送れるようになるとは想像したこともなかった。  かるく触れるだけのキスをして、細野が鍋を覗きこむ。 「いい匂いだな」 「うん。もうできたかな」  コンロの火を止め、味見をした秋本はにっこりした。よし、いい感じ。明日のランチは鶏もも肉のトマトソース煮込みだ。 「アキ、リンゴを大量に使うレシピってあるか?」  唐突に細野が訊ねた。大きな紙袋からリンゴが見えている。 「大量? ジャムとかジュースじゃない?」 「やっぱそうなるか」 「リンゴ、どうしたの?」 「この前の台風で落ちたリンゴがあるって松村さんが困ってて」  勤め先の鳳凰学園に大量に持ち込んだらしい。傷が少ないものは夕食に出して、それ以外はジャムにしたがまだ残っていると言う。 「いくらか持って帰ったんだけど、何か使えるか?」 「ありがと。じゃあ。今から作っちゃおうか」  傷んでいるなら早く処理するに限る。 「悪いな、疲れてるだろ。もう夜なのに」 「ううん。リンゴ好きだし、レンジ使うから簡単だよ」 「手伝うよ」  二人で並んでリンゴを洗い、傷ついた部分を切りおとして皮をむく。  切ったそばから変色防止のレモンを絞ると、リンゴとレモンの甘くて酸っぱい爽やかな香りが広がった。 「店で使えそうか?」 「うん。ジャムやコンポートにすれば日持ちするし、とりあえず明日のデザートはリンゴのフリッターかパウンドケーキかな。サラダに入れてもいいし、チップスもいいかも」 「そうか。フリッターやケーキもいいな。中高生受けしそうだ」  カットしたリンゴにグラニュー糖をふりかけレンジでチンして、ハチミツを加えてかるく鍋で煮ればごろごろ果実のプレザーブタイプのジャムができる。これはアイスやヨーグルトにかけてもいい。  あまり傷のないものは皮つきのままバターで炒めて砂糖とシナモンを振る。じゅわじゅわとバターが溶けて弾ける音が楽しい。  夜の厨房にとろりと蜜を垂らしたようにリンゴとバターとシナモンの混ざった香りが満ちて、秋本の気持ちをゆるませる。 「クレープと一緒に皮つきソテーで温かいまま出すのもありだね、紅茶に合わせたらいいかも。店で出そうかなあ」 「秋らしいメニューだな。うまそう」 「食べたい? あしたの朝のデザートにする?」 「それもいいな」  二人とも朝食はしっかり食べたい派なので米が多いが、たまにはカフェメニューもいいねとサンドイッチを作ることにした。  夕食は職場で済ませることが多いので、朝ごはんは一緒に作って食べるのだ。 「幸せの香りだねー」 「ああ」  ぶっきらぼうな返事にますます秋本は気持ちがやわらかくなる。  大きな保存瓶にできたばかりのジャムを詰める。あめ色のリンゴはいかにもおいしそうだった。  十五個分の作業を終えて、残りは明日に回して冷蔵庫に入れた。 「コーヒーでも淹れようか?」 「いや、それよりもアキがいい」  待ちきれないというように細野が秋本を抱きしめる。唇を合わせて舌先で触れあう。細野の指先を咥えた秋本がふっと笑った。 「リンゴの匂いがするね」 「お前だって甘くてうまそうだ」 「そう? 食べちゃっていいよ?」  秋本がふわりと笑みを浮かべて誘う。 「じゃあ遠慮なく。昼間、結構汗かいたけどシャワーは?」  厨房にいれば当たり前だ。中高一貫の全寮制男子校の管理栄養士をしている細野は、カフェの比じゃない量の食事を作っている。 「このままがいい。細野さんの匂い好き」  男らしく筋肉のついた体に抱きついたら首筋を甘噛みされた。大きな獣が懐いているみたい。くすぐったくて秋本はくすくす笑う。  離れていたのはほんの十時間ほど。でも細野が帰って来るたびに秋本はいつもとてもうれしくて幸せな気持ちになる。  もともと社交的なほうだし巣篭りする習性はないけれど、ここでぬくぬくと抱き合って暮らすのは悪くない。  今夜は濃厚に睦みあいたい気分だった。  厨房にはリンゴを煮た甘い香りが満ちている。    完  本編は『恋愛特区 ラ・フェリーチェ編』です。  大好きなお話なので、未読の方はぜひご覧くださいm(__)m  https://www.amazon.co.jp/dp/B07PJSS2FM  折本は楽しかったので、またやりたいなあ。  2000字程度でいい感じに収めるのがなかなか難しいんだけど。  2021.11.14  ゆまは なお
/52ページ

最初のコメントを投稿しよう!