第5話 蝶の誘惑(後編)

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第5話 蝶の誘惑(後編)

 アパートに帰ってきて数日が経った昼下がりのこと。ソファーに座ってロンドンタイムズの記事を見ていると、ひょいっと横からクーが俺の手元を覗き込んでくる。 「強盗殺人かと思われた怪盗クラウン、汚名返上。犯人はあのシリアルキラー、ジャスパーか? ロンドン市民の不安深まる、ね」  クーは先日まで海外旅行に行っていたらしく、今日は土産の特大テディーベアを届けにうちに来ていた。 「ルーくんも怪盗クラウンがモード・レッティを殺したと思ってた?」  どこから情報を掴んだのか、俺たちが船でロンドンに戻る頃には、怪盗クラウンがモードさんを殺したという新聞記事が出回っていたらしい。それも、死因まで事細かに記されていたのだとか。  おそらく金に目がくらんだ警察内部の人間が記者に情報を流したんだろう。よくある話だな、と俺は呆れながらクーを見上げる。 「いいや、クラウンは怪盗だけど、人は殺さない。自分なりに信念みたいなものがあるんじゃないか?」 「へえ、なんでそう思うの?」  俺の隣に腰かけたクーが、興味津々に尋ねてくる。  なんでそんなに怪盗クラウンのことを聞きたがるのかは謎だが、貴族はみんな決まって変わっているので、特に気にも留めずに本心を口にする。 「怪盗クラウンはこれまで数え切れないほどウルドリッヒ家の美術品を盗んできたけど、一度だって自分の犯行を隠すために意味のない盗みをしたり、人を殺したりしたことはない。つまり、彼は盗みに対して自分なりの正義を持っている」 「正義?」  きょとんとしたクーに、俺は自分がクラウンだったらどんな動機でウルドリッヒ家の美術品に固執し、かつ被害者を出さず盗みを働くかをを話す。 「ウルドリッヒ家は、謎の火事で一家全員焼死した芸術家一族だ。クラウンがウルドリッヒ家とゆかりのある者だったと仮定して、その火事がウルドリッヒ家の美術品を狙った放火殺人だったとしたら。クラウンは美術品を取り返すために、奮闘するだろうな」  想像ではあるが、根本にそういった強い動機があるはずだ。だから行動理念を曲げないのだと俺は思っている。 「今回の事件に関しても、彼はたまたま居合わせただけだろう」  根拠のない話なのだが、クーは俺の顔を見つめたまま目を丸くしていた。 「初めて会ったときからそうだけど、ルーくんは他の人と見ている世界が違うところがあるよね」 「違う世界?」 「なんて言えばいいのかな。たとえば事件が起きたとき、野次馬たちが現場を見ようとする中で、ルーくんはその輪から遠ざかろうとしている人間を探そうとする。物事の裏側や側面を見極めようとするんだ。犯人ならどうするだろうって、思いながらね」 「それは、探偵ならみんなそうだと思うけどな。あらゆる可能性を想定するのが仕事だ」 「でも、ルーくんは犯罪者の思考に同調できる能力が高すぎるんだよ。だから心配になるんだ」  それのなにがいけないのかと、俺は首を傾げる。 「もしかして……踏み込みすぎて、俺が犯罪者になるとでも?」  その真意を探るようにクーの宝石のようなエメラルドの瞳を見つめていると、ふと怪盗クラウンの瞳も同じ色だったなと思い出す。 「ルーくんに限ってありえないとは思うけど、理解できてしまうからこそ、犯人への憎しみが募って、いずれ……っていう心配はあるよ」 「…………」 「どうかした?」  そう尋ねてくるクーに、俺は「いや……」と曖昧に笑う。それからほとんど無意識に俺はスッと手を伸ばして、クーの涙袋に指先で触れた。 「クーの目は綺麗だと思って」  まさか、クーの瞳を見てクラウンを思い出したなどとは言えず、ごまかす。 「その輝きが失われることはないんだろうなと思うくらい、なにか強い意志のようなものを感じる」 「そうかな? 僕の目、曇ってない? 君のサファイアの瞳みたいに、ちゃんと澄んでる?」   少し不安げに、矢継ぎ早に尋ねられた俺は、目を瞬かせつつ首を縦に振る。 「ああ、君の瞳は出会ったときから曇ってなんてないよ」 「そう……嬉しいな、ありがとうっ」  子供みたいに声を弾ませて、抱き着いてくるクーに俺は脱力した。  ふたりでじゃれていると、俺の家なのに給仕をしてくれているアーロンが紅茶を運んでくる。 「ルクリア様、いつも主と仲良くしてくださってありがとうございます」  恭しくお辞儀をしながら、アーロンは無駄のない動作で紅茶をテーブルに置く。 「それは違うぞ、アーロン。俺のほうが仲良くしてもらってるんだ。そんなことより、申し訳ない。俺の家なのに、紅茶まで出してもらって」  俺はアーロンの淹れてくれた紅茶を飲むと、口元を緩ませる。 「ほっとする味だ」  そう呟いたとき、アパートのドアがノックされた。立ち上がろうとした俺を手で制して、「私が」とアーロンが出てくれる。ドアが開くと、中に入ってきたのはグレンとバードランド警部だった。 「あ……ルクリア、元気か」  話しかけてくるグレンに、俺は「あ、ああ……」とぎこちなく返事をする。  グレンとはあの船の一件以来、ぎくしゃくしている。俺が過去にジャスパーとなにがあったのか、グレンには特に知られたくないと言ってしまったからだ。  でも、仕事がないときは必ず、グレンはこのアパートに来る。気まずいだろうに、ジャスパーが俺に執着していると知ったからか、そばを離れないでいてくれた。だからこそ、話せないことがもどかしい。 「オーセット、邪魔をするぞ」  バードランド警部が向かいのソファーに座ると、それを見計らったようにアーロンが軽く頭を下げる。 「私は紅茶を淹れてまいります」  キッチンのほうへ向かったアーロンを見送る暇もなく、バードランド警部はテーブルに資料を広げながら話を切り出す。 「モード・レッティの殺害方法と同じく、蛾が口や耳、肛門に詰められた遺体がこのロンドンで多く発見されている」  その件に関しては、俺も新聞で目にしていた。俺の脳裏にはあの豪華客船の広間に残されていた【浄化の四十日、四十夜から逃れた招かれざる者よ。資格なき者には、これより血の断罪を。それを成したとき、空には虹がかかるだろう】の血文字が浮かぶ。 「あの船は箱舟だ。当然、その外では大洪水を模した大量殺人が行われる。四十日四十夜、な。直接手を下すのはジャスパーじゃない、その蝶たちだ。おそらく、あの豪華客船に乗っていた者の他にも、大勢あいつの飼っている蝶がいる」  甘い言葉を囁き、自分の手足として犯罪に加担させている。これは最も罪の重いやり方だ。  胸糞悪さを感じていると、グレンが思わずといった様子で声をあげる。 「自分を犯した相手のために、どうしてそこまでできるんだ」 「共依存だ。傷つけられた恐怖と、甘い言葉。それをうまく使い分けて、相手に自分は特別だと思わせる。それを心地いいと誘導する一種の洗脳だな」  一歩間違えば、俺もレッティ邸の使用人たちと同じ道を辿っていたかもしれない。その道を分けたのは、過去に愛された記憶があったかどうかかもしれない。これがもし生まれたことを祝福されず、身寄りのない孤児であったとしたならば、偽りでも自分を必要としてくれる人間に縋っていただろう。 「オーセットの言う通り殺害方法は一定だが、犯行現場からは別々の人間の足跡や毛髪が発見されている。犯人は複数いるんだろう。他にも遺体のそばには必ず、赤いアネモネの花が落ちている。これが犯人たちの親玉が共通であることを示している」  バードランド警部の話を聞きながら、俺はまたアネモネかと思った。これまで俺が担当した事件にはアネモネの花があった。 「それで? 俺のところへ君たちが来たということは、さては……警察はジャスパーの行方を見失ったな?」 「ああ、その通りだ。スコットランドヤードが豪華客船に乗り込んだときには、使用人たちだけしかいなかったらしい。どうやって逃げ出したのか、船にジャスパーの姿はなかったんだと」  ばつが悪そうなグレンの説明に耳を傾けながら、俺ははあっと呆れ交じりのため息をつく。 「無能な上にバカだな、スコットランドヤードは。あの海の上から、ジャスパーが逃げられるわけがないだろう。君たちはジャスパーにまんまと騙されたんだ」 「どういうことだよ?」 「遺体をきちんと確認したか? ジャスパーはおそらく、スコットランドヤードが乗り込んできたときには船の中にいた。そして、俺がジャスパーなら、警察官の遺体のうち、ひとりの服を借りて乗り込んできた警察官に交じる。それで堂々と自動艇で地上に帰るな。変装が得意なあいつがしそうなことだ」  野放しになった凶悪犯にうんざりしながら、俺が紅茶に口をつけて気持ちを落ち着けていると、グレンが眉根を寄せた。 「俺たちは新たに起きたジャスパーの事件に、かかりっきりだったからな。船から運び出された遺体の確認は別の警察官が担当したんだ。でも、遺体は九名とも服をちゃんと着ていたと報告を受けてるぞ」 「九名とも、俺たちが発見した警官の遺体だったか?」  カップの中身を見つめながら放った俺のひと言に、空気が凍りついた。グレンは表情を険しくしながら、俺に問い返す。 「それって……ひとりは別の誰かだったということか?」 「殺したんだよ、乗り込んできた警官の誰かを。そして、遺体をすり替えた。そうすれば、服を着た遺体は九名に元通りだ」 「――くそっ、追い詰めたと思ったのによ。自動艇がジャスパーの逃走に加担する形になるとはな」 「まあ、そう悲観するな。あいつがアネモネを置いていってくれたおかげで、メリッサのウエディングドレス、タナトスの妻の棺の中に浮かんでいたアネモネ……全ては繋がった。メアリー・ジェーンとアドニスを調査すれば、ジャスパーに辿り着く。わかりやすく証拠を残して俺たちを挑発したこと、後悔させてやればいい」  俺は立ち上がってハンガーポールに近づくと、コートを羽織る。そんな俺の前に、ぷっくりと頬を膨らませたクーが立ち塞がった。 「まーさーかー、お昼ご飯も食べないでお仕事するつもり?」 「……クー、そうは言ってもな、俺たちが呑気に食事をしている間にも、被害者は増え続けてるんだ。それに、犯罪に加担させられてる人たちも助けないと」  これ以上、セージの家族のような被害者を出すことのないように、俺が必ず止めなければ。そう、約束したから。 「でもっ、腹が減っては戦はできぬって呪い?があるってユウから聞いたよ」 「クー、それは呪いではなく日本のことわざだ。何事も腹が減っていては、よい働きはできないという例えだな」  ユウは無表情のまま訂正すると、「オーセット、座れ」と言って、俺の家だというのに席に促してくる。  戸惑いながらもソファーに逆戻りすると、目の前にアーロンが軽食のサンドイッチを出してくれた。 「食べてから、うんと働こうぜ」  グレンも隣に座ると、サンドイッチを掴んで豪快に頬張る。  無意識のうちに、気を張りすぎていたのかもしれない。  俺は肩の力を少しだけ抜くと、アーロンのサンドイッチを口に入れたのだった。  昼食を手短に済ませた俺は、グレンとバードランド警部とともに町外れの孤児院にやってきていた。  バードランド警部がメリッサのドレスを巡る事件の首謀者だったドルフ・ラゼーフォン元伯爵の聴取で、使用人だったメアリー・ジェーンが孤児だったことを聞き出したからだ。俺たちはその話を頼りに、メアリー・ジェーンがいたという孤児院の院長に話を聞いていたのだが……。 「やっぱ偽名だったか。メアリー・ジェーンなんて、実在してねえじゃねえか」  孤児院の外にある墓地の前で伸びをしたグレンは、困ったように頭を掻く。そんなグレンの隣で、バードランド警部ももどかしげに前髪をかき上げた。 「当然といえば当然だな。メアリー・ジェーンに資産家フェンネ、そしてアドニス。協力者の仕業なのか、それとも名前や容姿も変えたジャスパー本人なのか。とにもかくにも、身元が判明しないように、ジャスパーが犯罪を誘導していたことには変わりない」 「メアリー・ジェーンはどっからどう見ても女でしたよ? ジャスパーは男女のどっちにもなれんですか」 「だから簡単に見つからないんじゃないのか?」  途方に暮れているグレンとバードランド警部の会話を聞きながら、次の一手を考えていると、四、五歳くらいの孤児院の少女が駆け寄ってくる。 「お兄さん、これ……あなたにって預かったの」   目の前にやってきた少女が便箋のようなものを俺に差し出してくる。 「俺に? なにかの間違いじゃないのか?」 「ううん、帽子をかぶった背の高い男の人が、お兄さんを指差してた。ラブレターなんだって」  困惑しながらも手紙を受け取ると、少女は孤児院のほうへ走っていく。それを見届けながら、俺は封筒から手紙を取り出そうとした。  しかし、手に触れたのは紙ではない、もろく薄いなにか。それが俺の手のひらに載った瞬間、呼吸が止まりそうになった。 「青い蝶?」  グレンの強張った声を聞きながら、俺は手の上にある蝶の標本から目を逸らせずに呟く。 「……モルフォ蝶だ」  そう、俺の背に刻まれたバタフライタトゥーと同じ蝶。この手紙の差出人は、確実にジャスパーだ。 「世界一美しい蝶、生きてる宝石と形容されるらしいな。このタイミングに蝶……ジャスパーからのメッセージで間違いなさそうだ。オーセット、ジャスパーがお前に特別な感情を抱いているのは豪華客船での会話で察している」 「すまない。これまで起きたメリッサのドレスの事件も、タナトスの事件も、俺の周囲や関係者を狙って起こった可能性がある。そして、これから起きる事件で……君たちを巻き込んでしまうかもしれない」  特にタナトスの事件に関してはジャスパーが俺の周囲にいる人間──バードランド警部を傷つけたいがために犯罪を焚きつけた可能性が高い。いずれあいつの魔の手は、俺の大事な者たちに直接及ぶだろう。そんなことになったら、俺はこれまで通り冷静に探偵としての職を全うできるだろうか。  そんな恐怖に襲われていると、ふいにグレンが俺の肩に手を載せる。 「お前のせいじゃない、悪いのは罪を犯した人間だ」 「グレン……でも、あいつは自分の存在を俺に知らせるために……」 「それでも、ルクリアがあいつの罪を背負う必要はない。過去になにがあったのかは知らねえけど、あいつとお前は別の人間だろ」  そうだ……グレンの言う通り、俺はジャスパーじゃない。だから、あいつが犯した罪に責任を感じる必要はない。わかっているのに、グレンが巻き込まれたらと考えるだけで背筋が凍りそうになる。 「オーセット、ジャスパーがお前に執着していようと、関係ない。グレンの言うようにあいつは犯罪者で、お前は探偵だ。そこは見失うな」 「バードランド警部……」 「その蝶はこちらで預かっても構わないか? 署で調査させてもらいたい」 「あ、ああ……頼んだ」  俺は忌々しい蝶の標本を封筒に戻し、バードランド警部に手渡した。 「俺は署に戻るが、グレンは今日からオーセットのそばで警護をしろ。明日からの捜査は、俺がオーセットのアパートを訪ねる形でいいな?」 「了解……それから、ありがとうございます、ユウさん」 「今度こそ、相棒を守れ」  頭を下げたグレンに、バードランド警部は小さく笑みを浮かべ、背を向けた。こちらを振り返ることなく馬車に乗り込み、この場を去っていくバードランド警部を見送る。  グレンは言葉を発せないでいる俺の背に手を添えながら、捕まえた辻馬車に乗ってアパートまで送ってくれた。  けれど、部屋についても、俺の心はジャスパーの陰に囚われたままだった。  部屋に着くなり、俺はシャワーを浴びてすぐベッドに横になった。  グレンが今日から泊まり込みで護衛をしてくれると聞いて、安心したからかもしれない。俺は泥沼に沈んでいくように眠りにつく。  そして、ジャスパーからの手紙をもらった夜だからか、胸糞悪い夢を見た。 *** 『その身も心も私に堕ちてゆけばいい』  暗闇の中で茨にがんじがらめにされ、身動きがとれない俺の身体にジャスパーが手を伸ばす。その手は一糸纏わぬ俺の素肌を滑っていき、全身に鳥肌が立った。 『やめ、ろ……俺に触るなっ』 『私はいつだって君を見ているよ。そして、必ず手に入れる』 『俺は……君のものでは、ないっ』  傷つくのも厭わずに暴れると案の定、棘が肌に刺さってあちこちから血が流れる。まるで現実であるかのように、痛みが全身に走った。 『ああ、もったいない』  ジャスパーは俺の血を舌で掬うように舐めとった。身体の芯から凍り付くような感覚に、俺は縋るような気持で天を仰ぐ。 『誰、か……グレ、ン……』  助けを求めるように相棒の顔を思い浮かべた、そのとき――。 *** 「ルクリア!」   声が聞こえて、俺の意識は一気に浮上する。瞼を持ち上げると、心配そうにグレンが俺の顔を覗き込んでいた。  俺はベッドに横になったまま、目を瞬かせる。それから周囲を見渡して、ここが自分の部屋であることを確認すると、ふうっと息をついた。 「そう、か……俺は、夢を見てたんだな」 「うなされてたぞ。汗、拭かねえと風邪ひくから」  グレンは俺の身体を拭いてくれようとしたんだろう。ナイトテーブルの上には湯気の立った桶があり、グレンの手にはタオルが握られている。俺が起き上がると、いつのまにか前ボタンが外されていて、はらりとシャツが肩から落ちた。 「お前、それ……」  俺を見たグレンは不自然に言葉を切ると、目を見開く。正式に言えば、俺の背中にあるものに気づいて、驚いている様子だった。  見られてしまった……。いや、グレンは豪華客船の一件から気づいてただろう。俺の背に、ジャスパーから無理やり与えられたバタフライタトゥーがあることを。 「ルクリア、お前の過去を教えてほしい。もし俺に、聞く権利があるんなら」  真剣な瞳で俺を見下ろしてくるグレンに、縋ってしまいたい気持ちになる。  けれどあの男は、ジャスパーはどんな手を使ってでも俺の大事な者を傷つける。それがわかってるのに、頼るなんてできるわけがない。 「グレン、お前はもう俺に関わるな」 「無理な相談だな。そんなこと、できるわけねえだろ」  感情をむき出しにすることが多いグレンにしては珍しく、静かな怒りを滲ませた声で俺に言い返してくる。 「なんでルクリアが俺を突き放そうとするのか、わかってはいる。どうせ、俺たちを巻き込まないためだろ」 「なら……っ」 「わかってるから、引けねえんだよ。ひとりで抱え込むな、俺を巻き込みたくないとか考えんな。遠ざけるな、俺を――」  血を吐くような悲痛な言葉とともに、グレンは射貫くような眼差しを向けてくる。逃がすことは許さないとばかりに、強い瞳だった。 「俺が危険だからって、相棒を見捨てる男に見えるか? 守られるほど弱かねえんだよ、俺は」  頑として譲らないグレンに、俺は呆れる。  いっそ、全てを話して幻滅してもらえばいいのか。そんな投げやりな考えが浮かんで、俺はグレンに打ち明けることにした。 「十歳のときの話だ。町のカーニバルに来てた俺は、両親とはぐれた。やみくもに探し歩いていたとき、ひとりの花売りに会ったんだ」  よく考えればわかったはずだ。あのアネモネの花……あれは十歳のときに俺が誘拐される前、花売りが持っていた花カゴに入っていた花と同じだった。  あの花に眠り薬でも染み込ませてあったんだろう。甘い匂いがするな、と思ったときには意識が遠のいていた。  あのアネモネの匂いは、メアリー・ジェーンの香水と同じだ。花を犯行現場に残していたことといい、俺にずっとそばにいることを知らしめていたんだと思う。 「その花売りが、不幸なことにジャスパーだった。俺はそのまま誘拐されて、背中にバタフライタトゥーを掘られながら犯された。あの手紙のモルフォ蝶、あれは俺のタトゥーと同じ蝶なんだよ」  俺が背中を見せると、グレンのギリッと奥歯を噛む音が聞こえる。 「だからお前は、探偵になってジャスパーを追ってたんだな」 「ああ、でも……。いざあいつを前にすると、無理やり犯された記憶が蘇ってきて、怖くて……少しも動けなかった」 「男嫌いも、その過去が原因か」 「そうだ。俺の過去を知って、君も幻滅しただろ」  自嘲的に笑いながらそう言った瞬間、グレンは俺の額を指で弾いた。 「なにす――」  文句を言おうとしたとき、グレンに「バカか、お前は!」と逆に叱られた。 「ルクリアの過去を聞いて、その場に俺がいてやれたらって思った。ジャスパーにならともかく、お前に幻滅なんてするわけねえだろ!」  それを耳にした瞬間、強張っていた身体の力が自然と抜けていく。目の奥が熱くなって、視界がぼやけた。 「そうだな……君なら受け入れてくれる。少し考えれば、わかったはずだった。思えば君には最初から、他の男に比べて嫌悪感を抱かなかったしな」  出会ったときは多少の緊張はあったものの、過度に怯えることはなかった。 「君は俺に危害を加えない存在だって、本能で感じとってたみたいだ」 「……っ、当たり前だ。俺はお前を傷つけないって言っただろ。だから、もっと俺のことを信じてくれよ、相棒」  不満げに拳を突き出してくるグレンに、俺は苦笑いする。 「ああ、すまなかった」  俺は謝りながら、グレンの拳に自分の拳をくっつけたのだった。  深夜、目を覚ますと真っ先に目に入ったのはソファーに横になるグレンの寝顔だった。  いつもは粗暴な振る舞いのせいで忘れてしまうけれど、グレンの目や鼻、唇といったパーツのひとつひとつは月明かりに照らされるといっそう彫刻のように美しい。 「この状況で呑気に眠れたのは、君のおかげだろうな」  相棒がそばにいるという安心感に苦笑いすると、俺はグレンを起こさないようにベッドを出る。  すると、カサッという音が玄関のほうから聞こえた。不審に思った俺は、戸惑いながらも裸足でドアに近づく。すると、扉の下の隙間から封筒がはみ出ていた。  この手紙は……。  心臓がドクリと嫌な音を立てる。昼間のジャスパーからの手紙を思い出して、俺は知らず知らずのうちに服の上から胸を押さえていた。  それでも手紙を放置するわけにもいかず、恐る恐る腰を屈めて手紙を手に取る。震える指で封を開け、中に入っていたメッセージカードを取り出すと――。 【成虫になった私の蝶へ。ビッグ・ベンの下で待つ。Jasper】  それは明らかにジャスパーからの手紙だった。俺はそのメッセージカードとともに入れられていたモルフォ蝶の標本を見て、ぐしゃりとカードを握りしめる。 「どこまでも俺につきまとうつもりか、ジャスパー。でもな、俺は君のものじゃない、俺自身のものだ」  俺は確かな意思を持ってクローゼットのほうに歩いていくと、ワイシャツの袖に手を通して服を着る。 「この背の蝶が俺を縛ろうとも、俺は俺自身の意思で行きたいところへ羽ばたく。そのための強さを俺はグレンからもらったんだ」  最後にコートを羽織り、俺は玄関先で、まだソファーで眠っているグレンを振り返った。 「すまない、グレン。先に謝っておくよ。たぶん君は……置いていった俺のことを怒ると思うから」  その状況が安易に想像できて、俺は苦い笑みを唇のほとりに滲ませる。  それでもひとりで行くことを選んだのは、どんなに彼が気にするなと言っても、自分のせいでグレンが傷つくところを見たくなかったからだ。 「自分の過去には、自分でケリをつける」  俺はドアノブに手をかけて、ゆっくりと開け放つ。広がった空はまだ暗く、地上の不幸なんて知ったこっちゃないというように星が煌いていた。  「――行ってくる」  相棒にそう告げると、ジャスパーの待つイギリスの首都ロンドンで最大の時計塔――ビッグ・ベンへと向かった。  夜の時計塔は黄金のライトに照らされていて、夜空に浮かぶ月とも劣らない輝きを放っていた。俺はビッグベンの下に立っているひとりの青年と、シルクハットの男を見つけて足を止める。 「来たね、私の蝶」  紫がかった黒の長髪を後ろにまとめた黒のタキシード姿の男は、白い手袋をはめた手でシルクハットの位置を直すと俺を見て目を細めた。 「君は……ジャスパーだな。その姿はまた変装か?」  俺は鋭い眼光でジャスパーを見据える。すると、そばに控えていた青年――イー・ミンがジャスパーを庇うように前に出た。  レッティ邸の使用人たちは皆、モード・レッティの殺害容疑で逮捕されている。  ジャスパーは使用人たちを豪華客船に置き去りにして逃げたと聞いていたが……。  どんな方法を使ったのか、イー・ミンは一緒に連れてきていたらしい。  彼を選んだのは、蝶の中でも従順だったからだろうか。  いや……この際、手段なんてどうでもいい。問題は彼がジャスパーと行動をともにしているということだ。 「蝶は美の象徴であり、再生のシンボル。イモムシが蛹(さなぎ)となってドロドロに溶け、器を捨てたあと。美しい蝶に成長する進化の過程から、全てを一度捨てて復活するという意味を持つ」  ジャスパーの口上を聞きながら、俺はふんっと鼻で笑う。 「だから君は自分で汚した少年というイモムシたちが過去や居場所を捨てて、自分のものになる過程を蝶に例えたと? 長い時間をかけて俺たちを観察し、再び手に入れることに悦に入るとんだ変態野郎だな」  俺もグレンのことは言えないな。ジャスパー相手だと、行儀の悪い悪態が弾丸のように口をつくらしい。  俺はステッキを構えると、ここでジャスパーを捕まえるつもりで隙を探す。  けれどジャスパーは、少しも余裕を崩さずに微笑を浮かべている。 「ルクリア、君は私の蝶の中でも面白い成長の仕方をした」  ……面白い?  俺が眉を寄せると、ジャスパーは嬉しそうに解説を始める。 「他の蝶たちは私に犯されタトゥーを刻まれたあと、時間が経つにつれて媚びるようになっていった。そして、私のためによく働いてくれる。でも……」  楽しげに顎に手を当て、ジャスパーは首を傾げながら俺の顔を観察する。 「君は憎しみを募らせ、私を捕まえることに妄執するうちに、私の思考をまるで自分のもののように置き換えて考えられるようになっていった」 「またその話か。理解だと? 勘違いも甚だしいな」  苛立ちを露わにすると、ジャスパーは目を三日月形に細め、舌なめずりをした。 「君は第二の私になれる貴重な存在だ。だから、なんとしても欲しい」 「ふざけるな、俺は探偵だ。だから犯罪者の考えを探ることはあっても、理解したことなど一度もない」  バッサリ言い切ると、俺はステッキの先をジャスパーに突きつけるようにして構える。 「あのアネモネの花、嫉妬のための無実の犠牲という意味があるらしいな。その身勝手な独占欲と嫉妬のために、俺の大事な者たちまで傷つけることは許さない。だから君は、ここで俺が捕まえる」 「光と影、善と悪、探偵と犯罪者。その境界は、実に曖昧だと思わないかい?」  なんだ急に。  不気味に思いながら、俺は真意を探りつつジャスパーの問いに答える。 「君がどんな答えを求めているのかはわからないが、人の数だけ存在する善悪の線引きは難しいだろうな」 「そうなんだよ。たとえば君が私を殺しても、世間から批判されることはないだろうね。むしろ同情されるはずだ」  回りくどい上になんの脈絡もないジャスパーの話に、俺はステッキをガツンッと地面に荒々しくついた。 「なにが言いたい」 「私は人を躊躇なく殺す。そんな私を殺さずに生かしていていいのかい? きみは正義のため、私を殺すべきではないのかな」 「君は、俺に殺されたいのか?」  意図が見えない。  自分の思考を理解出来るだとか、自分を殺せだとか……。まさか、俺を犯罪者にしたいのか?   そう解釈して、俺はジャスパーの言葉を完全否定する。  「君を殺したいほど憎んでいることは事実だ。でもな、どんな理由があるにせよ、罪は法の下で裁かれるべきだ。曖昧な善悪だからこそ、俺はその信念を見失わないようにしてる」  憎しみに囚われながらも道を踏み外さないでいられるのは、グレン・ディールという相棒の存在が俺に正しくあれと背を正してくれているからだ。 「俺は君のように自分の性癖を正当化して、一生消えない傷をつけるばかりか、それを邪魔した者を容赦なく殺す人間を理解することは一生ない。そのことを忘れるな!」  俺はステッキを構えたまま、ジャスパーに突っ込んでいく。すると予想通りだが、イー・ミンが対峙してきた。 「悪いが、君には眠っていてもらう」  素早く彼の背に回り、ステッキでうなじを叩くと、イー・ミンは「うぐっ」とうめいて気絶した。その身体が地面に倒れ込む前に腕で支えた俺は、ゆっくりと寝かせてやる。 「セージとの約束だからな。君が望まなくても、ジャスパーから解放する」  俺はイー・ミンに自分のコートをかけて、再びジャスパーに向き直った。  もう一度ステッキを構えて、俺はジャスパーに突きを入れる。だが、軽やかな身のこなしで避けられてしまう。 「話し合いもなしに襲いかかってくるなんて、乱暴な子だね」 「そうだな。俺はどうやら、振る舞いまで相棒に似てきたらしい」  深く踏み込んだ俺は、ジャスパーにステッキを振りかざす。  しかし、ステッキを掴まれて逆に引き寄せられる。 「う、あっ──」  そのままジャスパーに羽交い絞めにされ、手からステッキが落ち、地面にカランコロンッと転がっていく。 「グレン・ディールか。不愉快だね、もう彼に抱かれたのかい?」 「ぐっ……離せっ。あいつはそういうんじゃない! バカなくらいまっすぐな俺の相棒だ!」  細身なのに、なんて力の強さだ。  身動きが取れず、ジタバタと暴れる俺の首筋に、ジャスパーの唇が押しつけられる。 「君の瞳が、私を映しても怯えなくなった。強い繋がりを手に入れた証拠だね。ますます目障りだよ」 「ふん、いつまでも俺を縛っておけると思うな」 「私の蝶に虫がたかった。そうだ、もう一度、君を生まれ変わらせてあげよう。この手で身体の隅から隅まで、私が浄化してあげる」  にっこりと笑ってジャスパーは俺のシャツを乱暴に引き千切った。その拍子にボタンが飛び、さすがに焦る。  ――まさか、ここで俺を犯す気か!  嫌悪感が押し寄せてきて、俺は死に物狂いで暴れる。それでも力では敵わず、血が滲むほど唇を噛んだとき――。 「俺にしてみりゃ、てめえのほうが虫だけどな!」  ドゴッと鈍い音がして拘束が解ける。自由になった身体は前のめりに倒れていき、俺は地面に手をつきながら後ろを振り返った。  そこには、距離をとったジャスパーを睨みつけるグレンの姿がある。 「どうして、ここに……」 「それはこっちのセリフだ。信じろって言っただろうが!」  怒りを露わにしたグレンの怒号は、間違いなく俺に向けられていた。それにビクリと肩を震わせながら、俺はグレンを見上げることしかできない。 「お前の過去も、もろもろひっくるめて引き受けるつもりで、俺はお前の相棒やってんだよ! なのに、勝手にいなくなりやがって」  ぶつけられる言葉が痛い。  俺は、なにもわかっていなかったんだな。  遠ざけても、こいつは俺を助けるために、どこまでも追いかけてくる。  俺は観念して、ゆっくり立ち上がった。  グレンは俺のそばに駆け寄ると、怒っているはずなのに頭を乱暴にわしゃわしゃと撫でてくる。 「お前への説教はあとだ。安心しろ、ルクリア。お前がこれから自由に生きられるように、俺がそこの気狂いに手錠かけて牢屋にぶっこんでやっから」  グレンは怖いくらいに殺気立った眼差しで、ジャスパーを見据えた。 「言ってくれるね。でも……ルクリアの前で君を殺せば、モルフォ蝶は私の元に帰ってくる。だから――」  ジャスパーは懐に手を差し込んで、銃を取り出すとグレンに向けた。それに嫌な汗が背中を伝い、俺はとっさに叫ぶ。 「――グレン!」 「前みたいに、俺も考えなしに行動はしねえよ」  小さくグレンが呟いた瞬間、ジャスパーが引き金を引くよりも早く、どこからかパンッと発砲音が響いた。 「ぐっ、う……!」  ジャスパーが小さく悲鳴をあげて、地面に膝をつく。その足から血を流しているところを見ると、誰かが狙撃したのだとわかった。  その誰かを探すように辺りを見渡すと、ぞろぞろとスコットランドヤードを引き連れたバードランド警部が近づいてくる。その手に握られた銃からは煙が立っており、彼がジャスパーを撃ったのだとわかった。 「おやおや、バードランド警部まで……。これは用意周到なことで」  苦しげに笑いながら、ジャスパーはバードランド警部を横目に見た。 「凶悪犯を捕まえるんだ、当然だろう。俺の部下の命をみすみす、お前にくれてやるつもりはないからな」  ジャスパーに冷酷な視線を注ぎながらバードランド警部は淡々と告げると、グレンに顎でしゃくるようにして指示を出す。 「了解。ジャスパー、お前を強姦殺人の罪で現行犯逮捕する」  グレンは動けないジャスパーをうつ伏せにし、その背中を膝で押さえつける。そのまま後ろ手に手錠をかけると、その髪を引っ張って持ち上げた。 「いいか、二度とルクリアの前に現れるな。その名を呼ぶことすら許さねえ。もし破ったら……今度は生きて牢屋に入れると思うなよ」 「怖いねえ、これではどっちが犯罪者かわからない」  凶悪面をしたグレンに、ジャスパーは少しも動揺することなく軽口を叩く。そんなジャスパーの髪を乱暴に離したグレンは、バードランド警部に身柄を渡した。   「この俺からは逃げられんからな、ジャスパー」  バードランド警部はまともに歩けないジャスパーを辻馬車のほうへ引きずっていく。そこにグレンと同じく、マック・コフィンという部下をなぶり殺しにされた怒りも混じっているように思えた。  やがてジャスパーが俺の前を通り過ぎようとしたとき、口元に妖艶な笑みを浮かべて囁く。 「君を諦めたつもりはないよ。必ず奪い返すから、待っておいで――」  そんな不吉な言葉を残して去っていくジャスパーの背中を見送っていると、肩にグレンの手が載った。 「そんときは、俺とお前で牢屋にぶち込んでやろうぜ」  相棒の声に俺はふうっと息を吐いて肩の力を抜くと、笑みを浮かべた。 「君、どうして俺の居場所がわかったんだ? それもバードランド警部やスコットランドヤードまで連れてくるなんて、さすがに驚いたぞ」 「孤児院から帰ってきて、お前すぐに寝ちまっただろ。そんときにバードランド警部がアパートに来てな。ジャスパーは必ずお前に接触してくるから、アパート前の警備を強化しようって話になったんだ」 「なるほど、俺がひとりでアパートを出たのがわかったのは見張りの警察官が知らせたからか」  そんなことも知らずに、俺はひとりでジャスパーの元へ向かったのか……。警官の気配にも気づかないとは、俺も余裕がなさすぎる。 「マックさんのときみたいに、目の届かない所で相棒が傷つけられるようなヘマは二度としねえって頭使ったんだ」 「ああ、その機転は俺に似たんじゃないか?」 「調子に乗んな、俺は怒ってんだからな」  いつもとは反対で、俺の頭をグレンが小突く。 「おい、人生の先輩を殴るとはどういう了見だ」 「今回ばかりは、ルクリアにどうこう言う権利ねえぞ」  グレンはゴツンッと額を突き合せてきた。凄んでくるグレンを負けじと睨み返した俺だったが、ふと大の大人がなにしてるんだ?と我に返る。  腹の底から笑いが込み上げてきて、俺たちは同時に吹き出してしまうのだった。
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