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俗に呼ばれるところの「うまい話」ってやつには、身構えて臨む必要がある。されど、悲しいかな。それこそが最も難しいのだ。
うまい話と呼ばれるシロモノは主に有害物質で組成されている。舌が喜ぶとて。
いや、有害物質の殆どはうま味成分を伴っていると言っても差し支えない。
道端に転がっているサーロイン肉のステーキを、″やいやい、手づかみで失礼″と大口を開けて頬張ることができる酔狂だけが、初めて味の感想を述べられる。
改め。
「新入社員の皆様」
しん、と静まり返る多目的ホール。地方の小学校の体育館並みにはスペースを持て余しているが、樹の熟れた匂いが館内の大気に紛れているせいか、空虚さを感じることはない。
カーテンの向こうから、4月初旬の木漏れ日が室内に差し込みちぐはぐに彩りを添えていた。
パイプ椅子に腰かける、私含む素晴らしき同志達は、皆、一様に黒を基調としたスーツに袖を通していた。配列を吟味すれば不規則に身長差と生物学的性差が生じ、一見、現地集合の烏合の衆に見えるかもしれない。しかし、ことの本質はそこではない。
場を同じくする誰もが、心に秘めたる奉仕への熱い精神を、社会の歯車の一部となる決意をその瞳に湛えていた。
血はつながっていない筈なのに、まるで昔から死線を共にしてきたような錯覚を覚えてしまう統一性には、これからの未来への展望を模ろうとさえしていた。
言い切ろう。銃を持たない軍隊とは、きっと、私たちのことだ。
「この度はご入社、誠におめでとうございます」
壇上から私たちを見下ろす背広の男は、記号πのような白髭を蓄え、さぞ関心の薄そうな情調で羅列された文章を読み上げている。
やたら高価そうな燕尾服だが、火にくべたらさぞいい匂いがするだろう。私が懐に忍ばせているライターで着火してやろうかと思った。
「なぁ、あんた」
隣に座るオールバックの男はヘラヘラとした笑みを浮かべていた。まるで私を値踏みするかのような、場末のラウンジでバカラを勤しむのがお似合いそうな、おちゃらけた態度そのものだった。
「美人さんだね。あとでちょっとお話しないかい」
私は289文字前の描写に補足を付け加える必要性を感じた。
こういうやつもいる。
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