後編

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後編

     それから何年かして。  透子(とうこ)さんは、京都を引き払って実家へ戻ることになり、やがて俺とも疎遠になって……。  結局、親に用意されたお見合い相手の一人と結婚したらしい。  ただし、結婚相手は大阪の公務員だったため、むしろ実家よりも京都に近い辺りに、新居を構えることになった。  俺の方は、博士号を取得後もポスドク研究員として大学に残ったので、相変わらず京都在住。恋愛をする暇もなく、独り身のままだったので……。  また透子さんと会うようになった。 「結婚前に遊んでくれた友達の態度、結婚すると変わっちゃうのよねえ」  三条通りの喫茶店で、紅茶のカップに口をつけながら、愚痴をこぼす透子さん。  大学時代の友好関係が、互いに専業主婦になった今、少しギクシャクし始めたのだという。  男の俺には、理解しがたい世界なのだが……。  どうやら、旦那さんの職業や会社での地位、年収などが、そのまま奥さんのステータスになるらしい。その優劣を気にしたり、それでマウントを取ろうとしたりする女性がいるそうだ。  もちろん、透子さんのように「旦那は旦那、私は私」という人もいるわけだが、透子さん自身は「私は少数派なのかも」と感じて、肩身の狭い思いをしているのだった。 「その点、菅野(かんの)くんはいいわよね。男の子だから、そういうのなくて。こうやって、独身時代と同じ感覚で接することが出来て……。とっても気楽だわ」 「そう言ってもらえると、俺も嬉しいよ。どうぞ安らぎの場にしてください」  冗談めかして、本音で返す。やはり透子さんには笑顔が似合うから、おかしな苦労はしないでほしいと思う。  音もなく優雅に紅茶をすする透子さんを見ながら、俺も自分のコーヒーを口に運ぶ。その日のコーヒーは、いつもより少し苦いように感じられた。  透子さんは、友人関係の愚痴をこぼすことはあっても、旦那さんに関しての文句は一切、口にしなかった。  それだけ結婚生活が順風満帆ということなのか、あるいは、そういう話は俺に言うべきではないと思っているのか。  そもそも不満であろうが惚気(ノロケ)であろうが、彼女は俺と一緒にいる時、ほとんど旦那さんの話題は出さなかった。だから俺も詳しくは聞いていないのだが、どうやら彼女の旦那さんは、出張の多い仕事らしい。  結果的に、透子さんは一人で、大阪の新居に取り残されることが多くなり……。  同性の友人が減って、遊び相手が減った現在。  彼女は京都まで来て、俺を呼び出すのだった。  さすがに独身時代よりも多いとは言わないが、それでも、かなり頻繁に。 「あそこのお店、ちょっと寄ってみてもいいかしら?」  今日も俺たちは、二人で一緒に、繁華街のブティックでウィンドウショッピング。 「どう? 似合う?」 「うん。透子さんには合ってると思うよ、その服。色もデザインも……」  お店の中での俺たちの会話は、昔と変わらない気もするが……。  よく考えてみると。  以前の透子さんは、色々と見て回るばかりで、たとえ買うとしても、せいぜい一着。むしろ、何も買わずに店を出ることが多かった。  しかし最近は、毎回のように、二着か三着ほど買っている。それ以上の時もあるくらいだ。  こうなると、もはや『ウィンドウショッピング』ではなく、単なる『ショッピング』だろう。  ならば、今の俺を客観的に見たら、人妻の買い物に付き合う独身男ということになるのだろうか。  それって何なのだろう、と少し考え込みたくもなるが……。  俺にとって、透子さんは透子さんだ。結婚する前と、少しも変わらない。  ただ、彼女と一緒になるという老後を、かつて一瞬でも想像してしまっただけに、時々「空想と現実のギャップは大きいのだな」とも感じてしまう。  結婚前と、何も変わらない。一緒にいて、楽しいと思える相手。……のはずなのだが。  本当に、そうなのだろうか?  そして、昔もよくわからなかった、俺自身の彼女に対する想い。それは、はたして……?  ふと、考えることがある。  もしも、まだ俺の中に「透子さんと一緒になりたかった」という気持ちが残っているならば……。  そして、いつか彼女が独身に戻る日が来るかもしれないという期待が、俺の心の内に少しでもあるならば……。 「ことわざでは『人事を尽くして天命を待つ』というけれど……。俺が今やってることって、『人妻に尽くして天命を待つ』なのかもしれないな」  苦笑しながら、小さく独り言を口にする俺。  人事と人妻。  文字で書いたら、ちょっと似ているではないか。  ……などと思っていると。 「菅野くん、今、何か言った?」 「いや、何でもないよ。それより、どこか喫茶店にでも……」 「あら、あそこの雑貨屋さん! ちょっと入ってみてもいいかしら?」 「……そうだね。可愛らしい小物、たくさんありそうで、俺も少し気になってたんだ」  そろそろ一休みしたいという気持ちは、いったん保留にして。  俺は笑顔の透子さんと共に、次のお店へと足を向けるのだった。 (「人事と人妻」完)    
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