慈音叫放射、あるいは悠久の残響

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 谷にかかる道路の前まで戻ってくると、傾いた日が対岸にあって眩しかった。ミオティと出会い、別れた場所。そしてまた一つ、失敗が積み重なったことを知った場所。  「世界」の中の時は止まらない。同じ部屋にあったテラリウムが、生きていたり枯れていたり様々だったことを思い出す。「世界」はこんなふうにもなり得る。人間だけが滅びることだって。思い至らなかった。もっと早く帰って来れば、 「そうじゃない。一万回も学んだだろう。君は与えようとして失敗した。逆に考えるんだ。君は、受け取ろうとしていない。無力感に苛まれるのは勝手だよ。でも、愛される理由が分からない、愛されるはずがないって、皆の想いまで否定するのは失礼だ。君が救えなかった内の誰が、恨み事を言った? 君が何と思おうと、皆は君に感謝し、愛を伝えた。ミオティが一番素直だった」  手を引かれて、横断歩道を渡る。どこかでピィ、と小鳥が鳴いた。青信号にしてくれる、ということか? こんな捉え方、勘違いしていそうで気恥ずかしい。  ミオティが渡れないままだった対岸に、人間の姿で向かうのは心苦しかった。だから避けていたのに。あんな絵本を見せられては、確かめたくもなってしまう。  夕日に向かって歩くと、昼間の何倍も目が痛くて、足を速めた。いいのかとからかわれたが、もう行くと決めたのだから構わない。勝手に細くなる目で、前を歩く影を見つめて、ミオティの落ちていった谷を渡った。  道の先は、森だった。建物は見当たらない。あんな大層な道路を敷いたのに、誰もこちらへ住まなかったのだろうか。  呆気に取られていると、急に肩を掴まれ、ぐるりと右を向かされた。木々の間に、何かが立っている。近づいてみると――銅像だった。木にもたれる少女。木には、空へと開く花。枝には一羽の鳥がいて、少女を見つめていた。  関わりもしなかった人たちからまで想われていた。その事実は、僕の持論を完全に否定した。思えば知ってはいたのだ、僕は「世界」を抱きしめたくて仕方なかった。「世界」に何を望むでもなく、ただそうしたかった。  この「世界」に帰ってきた理由も同じだ。帰ってきて何ができるわけでもないのに、ここに来たかったのは――この「世界」を、愛しているからだ。   「そろそろ、言いたいことがあるだろう?」  とん、と胸に手が置かれる。その瞬間、一万の「世界」が浮かぶ「部屋」の様子が脳裏をかすめ、勝手に、大声が出た。全「世界」に存在する言語一つ一つで、同じ意味の言葉を、叫んだ。叫ばざるを得なかった。ここから歩いて千日はかかる距離まで並んだ「世界」のすべてに伝えるには。  日が隠れんとするとき、やっと残り一言になった。隣で笑い声が上がる。 「いつまででも響きそうな声だったな。耳音響放射の音量が上がってたら、半分は君の叫びの残響かもしれない」  失礼なやつだ。こいつの性格が変わる日が、いつか来るのだろうか。 「来るさ。今から君が言うことを、僕にも言えるなら」  無理だな。早々に諦め、改めて銅像を見上げる。  少女も鳥も、ミオティと僕に似ても似つかない。しかしその存在を確かに伝える、この狭い世界に生きた人々の、後悔と愛情の結晶。 「大好きだよ」  僕には? と、軽い調子で尋ねられる。悪いが、まだ言えない。でもいつかは、言えるようにはなりたい。 「できるさ。ハクレンは、『冬を忘れない優しい花』だからね」 「ありがとう。ハクレン」  自分を二つに分けられる人間、としてこの「世界」に入ったこと、これは僕のしてきた選択の中で、初めての正解かもしれない。  愛するすべての「世界」に帰る旅に出よう。一人と言わずあらゆる命に、君が大好きだと伝えて見せる。それができたときにこそ、自分のことを、大好きだと言う。
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