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御先蛍(みさきぼたる)
乾いた葉の軽やかな音を聞くと、明日は七夕だなあと実感する。
僕の在学している高専は自由だ。
もちろん服装もだが、受験をすることなく短大相当である五年生まで進めるため、学校内では大人ならではの奔放さを発揮する人が多いのだ。
生い茂るイチョウ並木を歩きながら電子情報工学科の棟を見る。
二階の窓から半分に割った竹筒が伸びていた。
継ぎ接ぎをし、折り返して、地上のタライまで続いている。
――今年も流しソーメンやってる。
三年生の男子が嬉しそうに二階の窓からソーメンの束を流す。
水とともに流れる面は急速に速度を増し、コーナーを攻めきれず宙を舞った。
初夏の日差しを浴びて輝く白い物体が、僕の目の前に落下する。
「あーやっちまった」
「だから直線で行こうっつったじゃん」
「麺足りそう?」
「やばくなったら物質んとこ行ってでまた茹でてくる」
平和だ。
尊い犠牲を迂回して売店に向かう。
昼休み、こうして学校内の敷地を歩いていると、いろんな学科のいろんな人たちがいろんなことをしているのに出会える。
昼は明るいし、皆が笑顔なときは怖いものも見づらいから好きだ。
左手に見える二階建ての建物は、学生食堂と売店だ。
二階は保健室になっている。
昼どきなので多くの生徒が開きっぱなしのガラス戸から入っていくのが見えた。
その脇に、学校側が設置したのか学生が勝手に置いたのか、大きな笹飾りが立っている。
すでに色とりどりの短冊がくくり付けられていて、どうやって付けたのか二メートル以上の高さの枝にまで願い事が飾られていた。
緩やかな風に萌黄色がしゃらしゃらと揺れる。
その下に、白い何かが見えた。
「あ、猫神様」
二本足でひょっこりと立ち、真剣な目で揺れる短冊を狙っている。
しかし僕に見られていることに気付くと、やおら前足を下ろして何事もなかったかのように毛づくろいした。
「いつも秘森さんに憑いてるわけじゃないのかな?」
鬱陶しそうな目をされた。
可愛すぎて抱っこしたくなるけれど、絶対に怒られそうなので我慢する。
「百瀬君」
振り向くと、秘森さんが財布を片手に歩いてくるところだった。
白猫は耳をピンと立てて嬉しそうに眼を見開く。
「お願い事を吊るしに来たの?」
笹を見上げて秘森さんが問う。
「食堂にパンを買いに来たら、ちょうど猫神様に会って」
短冊にじゃれようとしていたことは名誉のために言わないでおく。
「……そう」
もともと表情の乏しい顔がさらに冷たくなった。
先日の一件があってもなお、猫神に対する昏い思いは消えないらしい。
その横で、白猫は瞬きもせず秘森さんを見上げている。
美しい尻尾をくるりと体に巻き付けて、自らを厭う彼女の顔が晴れるのを待っている。
なんだか僕は悲しくなって、無理やり明るい声を出した。
「あ、そうだ。これから一緒にご飯食べようよ」
二十年間生きてきて、初めて女子を食事に誘った瞬間だった。
しかも先日初めて言葉を交わしたばかりの人だ。
「……うん」
目を細め、かすかに顎を引く。
ショートカットの髪がさらりと揺れた。
思えば高専に入学してからの四年間、彼女が誰かと食事を摂っているのを見たことがない。
というか、彼女を意識して視界に入れたことがない。
これだけ美人ならばどんな男子でも興味を持つだろうというのは暴論で、好きになってしまえば別かもしれないが、恋愛感情のない美人を不躾に眺めるなど僕にはできなかった。
というよりも、僕を不躾に眺めてくるこの世のものではない何かに心をとらわれていたせいもあるだろう。
手がフリルのように全身についた何かとか、溶けかけた何かとか、あるいは一見生身の人間にしか見えない何かとかが、ふと気を抜いた瞬間視界の端に現れる。
だから僕は極力、数少ない友人の顔や見なければいけない情報以外のノイズから目を背けるようにしていた。
というわけで、食堂に来た。
すでに多くの生徒でにぎわっており、だたっぴろい空間は熱気に包まれていた。クーラーの心地良い冷風が時おり頬を撫でる。
食券機にはすでに二個の赤ランプが灯っており、調理場と繋がっているカウンターには長い列ができていた。
クリーム色の長テーブルは六割がた埋まっていたが、テラスに面した端の席が空いている。
「あそこ座ろっか」
秘森さんは日替わりのBセットを、僕は売店で買った総菜パンを、クリーム色の長机に置いた。
彼女が箸を持って手を合わせ、小さな声でいただきますと呟く。
パンを頬張ろうとしていた僕は慌てて手を止め、いただきますと続いた。
「……風邪、大丈夫?」
僕は恐る恐る訊いた。
泊まり込みの実験を手伝ってもらったあと、彼女は風邪で寝込んでしまったのだ。
二日間休んで、今日ようやく登校できた。
「風邪は大丈夫だけど」
「猫神様のこと?」
僕は左横の空席を見た。僕にしか見えない白猫が、テーブルの上にちょこんと乗っている。隣りの男子学生の焼きサバに鼻がくっつくほど顔を近づけていた。
「そうじゃなくて、授業のこと。もうさっぱり分からない」
硬い表情で箸を下ろした。
そういえば彼女は意外にも赤点ギリギリだったことを思い出す。
「ノート貸すよ。分からないところあったら教えられるし」
「全部分からない」
「じゃ、じゃあ全部教えるね」
秘森さんがぴくりと顔を上げる。
相変わらず無表情に見えるけれど、なんとなく喜んでいるのが分かるようになってきた。
「あ、そういえばさ。秘森さんは短冊書いた?」
食堂の壁際に、色紙を細く切った短冊と、吊るすための紙縒(こよ)りが置かれた台が設置されていた。
「……文字にして書くのは恥ずかしくて。みんなに見えるから」
「そっか、確かになあ。わざわざ紙に書かなくても、神様とかだったら感じ取ってくれないのかな?」
秘森さんのアジフライに鼻をひくひくさせている神様を見る。
「私が前にいたところは、書く代わりに蛍に祈るの」
「え、なにそれ?」
初めて聞く話だ。
「中学まではX県に住んでいたんだけど、そこでは短冊を使わなかった。笹にはクリスマスツリーみたいに飾りつけをするだけ。願い事は『御先蛍』に託すの」
「ミサキボタル……?」
「御先は神の使いという意味。七夕の夜に現れる蛍は神の使いで、祈りを託すと叶えてくれると言われてた。蛍をたくさん見つければ見つけるほど、願いを託せる神の使いの数が多くなるから願いが叶いやすくなる」
「へえ、面白いなあ」
知らない土地の風習にわくわくする僕とは対照的に、秘森さんの顔色は浮かない。
――そういえば、この猫神様もその土地の神様なんだよな。
「あの……もしかして関係あるの? 御先蛍と猫神様って」
箸先は味噌汁に浸ったままで、彼女の頬も動かない。
食堂内にはこれほどまでに若い熱が充満しているのに、食べかけの定食からはゆっくりと熱が逃げていく。
僕たちだけ初夏に乗り遅れたようだった。
「あるといえば、ある」
落ちたままの視線にするりと白猫が入る。
気づいては貰えない神様が、咀嚼を忘れた頬に身体をこすりつけた。
僕なんか視線を送っただけで気分を害されるのに。
「私が『これ』に憑かれたのは七夕の日だった。どうしても願い事をかなえたくて、それで――」
九年前の夏のことを、秘森さんは静かに話し始めた。
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