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一人きりの研究室は静まり返っていた。
当然だ、夜八時を回っている。
卒業研究の始まっていない四年生は日の高いうちに帰ったし、同じ高専五年であり共同実験者でもある桐谷さんも、僕に実験を押し付けて帰った。
本校舎から独立したこの物質工学科棟の三階にいるのは、僕一人だ。
『学校のプールに人魂が出るらしいの』。
そう僕に教えてくれたのは当の桐谷さんだ。
確かにこの実験室の窓からは件のプールが見下ろせる。
怖いから帰ると言うのなら、僕の方がよっぽど怖がりだということを理解してほしい。
とはいえ、断り切れずに引き受けてしまった結果がこれだ。
時計の秒針の音さえ存在感がある。
自分でフラスコを置く音にさえ心臓が跳ねる。
二十歳にもなる男なのに情けないという気持ちはあるのだが、これには致し方ない理由があった。
ぬるい風が首筋を撫でる。
「……えっ」
振り返る。
部屋の中央にはアイランドキッチンのように実験机があり、机の中央には間仕切りのように作り付けの棚が設えてある。
僕が実験しているのは部屋の一番奥の窓際の席だ。
どの席にも、誰もいない。
ふわり、と白い影が動く。
かけている眼鏡のレンズの端ぎりぎりを何かがかすめる。
せわしなく部屋中を見渡すけれど何もいない、いないのに、棚に収まったガラス器具に一瞬だけ何かが映った。
喉がひくりと痙攣する。
後ずさるように腰を机に押し付けながら、そう言えば背後にある窓の向こうにはあのプールがあるんだっけと思い出した。
ここは三階だけれど、高いぶんよく見える。
何かが指先を齧った。
「うわあっ!」
慌てて手を引っ込める。
バランスを失って後ろに倒れた。
立ち上がれないでいる僕の上に、白くてあやふやな影が飛び乗った。
「百瀬君」
どこかで女の声が僕を呼ぶ。
「あああああああ!」
「……百瀬君?」
顔を上げる。背の高いショートカットの女子生徒が僕を見下ろしていた。
「あ……え、秘森さん?」
いつの間にか部屋に来ていたらしい。
同じクラスの子だから幽霊でないことがわかり、僕はひっくり返ったまま安堵の息をつく。
「悲鳴が聞こえたから、なんだろうと思って」
アーモンド形の澄んだ目が無表情に僕を捉えた。
普通科高校を卒業後、この高専に四年生(去年)から新たにクラスメイトとして加わったという珍しい経歴を持つ彼女は、いまだ謎が多い。
グレーのサマーニットにストライプのパンツを合わせており、大きなトートバッグを持っていた。
「あ、はは……」
白い影と格闘してましたというわけにもいかないので、曖昧に笑っておく。
僕の腹から飛びのいた白猫が、彼女の横にちょこんと座った。
顔立ちはアビシニアン系だが毛足はそれなりに長く、鼻先と口元は上品な桜色だ。
忠犬のように脇に控えているのがなんとも愛らしい。
「……秘森さん、猫とか飼ってたことある?」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
学校内にまで白猫が入り込んでくる可能性は低いし、何より彼女は全く気づいていない様子だ。
おそらく、死んだ飼い猫か何かが彼女に憑いていて、たまたま近くにいた僕にちょっかいをかけに来たのだろう。
――すごく綺麗だなぁ。
触りたいけれど、いきなりクラスメイトの男子が足元に手を伸ばして来たら気持ち悪いだろうからやめておく。
この猫は僕にしか見えていないのだ。
確かに僕は怖がりだし幽霊は苦手だ。
けれどそれは相手の意図や行動が『分からないから』であって、イタズラ好きの猫には当てはまらない。
分からないものは怖いが、分かりやすいものと猫は好きだ。
「私、分子生物学のプリント直したから出しに来たんだけど」
彼女が開きっぱなしのドアの向こう側を見る。
向かいの部屋は、僕の所属する吉村研究室の教官室だ。
授業では分子生物学を受け持っている。
「もういなかったから、課題だけ投函しておこうと思って。そしたら叫び声が聞こえたから」
「ああ、僕の実験終わるの待つのは面倒だから帰るって、カギ押し付けて帰っちゃって……。
この棟、先生が施錠したことにして明日返せって。本当はダメなんだけどね」
立ち上がりながら答えた。
どうにか僕が叫んでいたという事実から話を逸らそうとする。
霊の話をすれば、胡散臭い奴だと思われるか胡散臭い奴が寄ってくるかしかないからだ。
「そう。それで、どうして叫んでたの?」
「えっ?」
逸らさせてはくれなかった。
こういうところがコミュ障なんだよなあと思うのだが、僕はとっさのウソがつけない。
思わず彼女の足元に目をやると、白猫はのんびりと欠伸をしながら耳をプルプルと振っていた。
「百瀬君」
「は、はい」
「さっきからどこ見てるの?」
視線は純粋で真っすぐだ。
ボーイッシュに見えていた彼女の長いまつ毛や、薄く彩られた艶やかな唇に気付く。
「あ、ごめ、なんか……虫? がいた気がして」
白猫が『虫扱いするな』とでも言いたげな目で僕を見る。
「それで叫んでたの?」
「う、うん」
白猫がジャンプした。
机の上、僕のすぐそばに着地する。
後ろ足で立ち上がると、窓を開けろとでも言うように前足で窓ガラスを掻いた。
僕を見て『なーお』と抗議する。
「……何を見てるの?」
「いや、別に」
「今、窓の方を見てたでしょう」
怖い。
まるで職務質問だ。
僕が特別目立つ存在ならいざ知らず、童顔で背が低くて地味な普通の生徒だというのに、ここまで詰問される理由が分からない。
僕は、世の中のありとあらゆるものの中で分からないものが一番怖い。
分からないものは、分からないからこそ恐怖だ。
まだ桐谷さんのような分かりやすい下心があるほうが、話していて安心できる。
僕は彼女が怖い。
「あ、あの、プールの怖い話を聞いたから……それで」
「どんな?」
彼女は近くの丸椅子に座った。
どうも僕との会話をやめる気はないらしいので、僕はその隣の隣、ひとつ飛ばした席に座った。
「半月くらい前の夕方に、プールで小さな光が目撃されたみたいで」
共同実験者であり、僕を一人きりで実験室に残して帰った張本人である桐谷里緒菜に聞いた話を繰り返した。
「日が暮れるとプールにいきなり人魂が現れて、水面を滑るように走ったあと、フッと消えたって」
そのときの桐谷さんは『高身長で顔が良くて社交的な男子だけに見せるとっておきの愛らしい表情』で語った。
今までに僕が見てきた彼女はいつだってバイト疲れで気怠げだったわけだが、まあ今日の実験を丸投げできる相手となれば、それを見せるのもやぶさかではなかったらしい。
桐谷さんは分かりやすくて、とても安心できる人だ。
「ネズミ花火か何かじゃないの?」
「水の上でも使えるネズミ花火なんてあるのかな……
それに花火ならゴミが残ると思うし。そのときは機械科棟にいる生徒が目撃してて、プールまで見に行ったけどゴミなんか残ってなかったって」
秘森さんは促すように無言で僕を見つめ続けている。
「二日前にも目撃されたんだけど、そのとき人魂のせいで五十嵐さんが目に怪我をしたんだ。知ってるよね、同じクラスの五十嵐さん。やっぱりプールで、夕方だった。
一緒にいた人の話によると『いきなりプールの真ん中から立ち昇って、炎の塊が煙を噴きながら飛びついてきた』んだって」
彼女の様子を伺う。
怖がるどころか、表情一つ変えない。
「プールの人魂は人の目を食うんだって……そのせいで桐谷さんがすっかり怖がっちゃって。だから今日、ひとりで泊まりこみの実験をしなきゃいけなくなったんだ」
僕たちの研究における仮説の精度を上げるには、一時間ごとの測定が不可欠だった。
それも連続して二十四時間。
それだけのデータが取れれば、卒業研究発表会は安泰だろう。
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