蓮の花は語らない

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「なんですかこの枯れた花は⁉」  旅館「すみれの園」のオープン初日の朝、館内に怒声が響き渡った。  何事だと疑問に思う従業員たちの視線の先には、怒る女将と頭を下げる世話役の女性の姿があった。 「花は毎朝新しいものに取り換えるように、と昨日言いましたよね。それが何ですか、このしなびた花は。それに生け花のセンスがありません。いいですか――」  とどまることのない女将の怒りに、しかしながら一人の従業員が二人のもとへと足を運んで口を開いた。 「優香さん、とりあえず花の準備をさせてあげませんか?開館時間も近いですし、他にもやることはありますから」  声をかけられた女将、佐伯優香は視線を男の方へ移すと、優しい笑みを浮かべた。 「それもそうね。ほら、秀樹さんに免じて一度は許しますから、早く動きなさいな」  夫である佐伯秀樹の言葉に肯定の意を示した女将は、頭を下げ続けていた世話役を追いたてた。  ◇◆◇ 「まったく、私の仕事内容でないことで怒らなくても……」  女将に命じられた世話役の女性、斎藤琴音は小言を言いながら旅館の庭を歩いていた。  そもそも玄関の花は斎藤の仕事ではなく、事前の連絡の際には女将自らが花の注文から生けるまでを行うはずだったのだ。前日準備の忙しさから手の空いていた斎藤に女将が生けるように命じたのだが、生け花などまったく経験のない斎藤はが努力をした結果が今日の朝のものであった。  加えて、今日の花を生けるという伝えられていない仕事に対する文句に頭を下げた斎藤は、怒りで頭の中がいっぱいだった。  ずんずんと大股で庭を進む斎藤は、思い出したように視線をさまよわせる。  女将は花の注文すら忘れていたらしく、現在の旅館に生けることの可能な花は存在しなかった。ネットでの注文や近所の花屋へ買いに行くこともオープンの時間的に不可能である。  故に何とかして花を手に入れようと斎藤ははさみ片手に庭に出たのだが、彼女の瞳に映るのは立派に生える木々のみであり、生け花に利用できそうな花など一つも見つからない。  他の従業員があわただしく歩を進める中、斎藤はそっとため息をついて、掌の中のはさみの柄を握りしめた。  旅館「すみれの園」の玄関は、差し込む日の光と明るい木目が特徴の開放的な場所となっている。入口の戸を開ければ、広々とした空間が広がり、お客様がまず目をやるであろう入口正面に鎮座するのが、立派な生け花……であるはずだった。  そこに存在しない花を求めて旅館内をさまよっていた斎藤は、現在途方に暮れていた。庭にある花は、旅館の名にあるすみれでのみである。初夏のこの時期に咲き誇っているすみれは、夏の暑さに負けるものかと、凛と茎をのばし花開いていた。  少し小さいがそれでも、とすみれに手をのばすものの、既に整えられた庭の一部分から花をなくすことは景観の悪化になるため、最終確認に来ていた庭師に止められ、斎藤はしぶしぶ引き下がった。 「数株ならまだしもと言われても……」  行き詰まった斎藤は、現在旅館の廊下をつぶやきながら歩いていた。  玄関以外にも生け花があるのではないか、それを玄関に持っていけばいいのではないか。  そんな打算ありきの行動だったが、考えてみれば女将が玄関の生け花を管理していなかった時点で他の場所の生け花が今日整えられたと考えることは絶望的であり、そしてそもそも他には存在しないことが、先ほどから十数分の斎藤の調査で明らかになった。  ついに考えが尽きた斎藤は廊下脇に置かれたソファーに頭を下げた状態で座り込み―― 「どうしたの?」  斎藤の前に立ち止まった人影からの声に、彼女は顔を上げた。 「花が……ない」  声の主である同僚の矢野静流に、斎藤は吐き出すように小さくつぶやいた。 「ああ、そういえば琴音さん、女将に無茶振りされてたね。まったく、あの人の忘れっぽさは周りを翻弄してばかりで困るわよね。夫の秀樹さんが全てに対処してくれればいいのだけれど……ああ、それで今回は生け花だったかしら。花、ねぇ」  しばらく愚痴を続けた矢野はそれから頬に手をあてて思索にふける。 それから、同じように対策を考えていた斎藤と目が合い、二人は同時にふうと息を吐きだした。 「記憶にないわね。もういっそのこと、玄関の生け花なしにするのはどう?それかまだきれいな花を残して、枯れたりしおれたりしている花だけを除くっていうのはどうかしら」 「前者はだめね。私の首が飛びかねないわ。後者は……そうね、それが最適かしら。と言っても生け花の経験がない私が行うわけだから、むしろない方がいいのかしら……まあなるべく女将の意向に沿った形でおさめますか」  悩むのをやめてすっきりした、という表情で斎藤は立ち上がり、矢野に礼を言って歩き出そうとして―― 「せんぱーい、花ありましたよー」  遠くから響く声とパタパタと廊下を小走りで進む足音に、斎藤と矢野は振り返った。  二人の視線の先では、小柄な女性が笑顔でこちら側へ走り寄って来ていた。 「ひゃっ」  スリッパで走るという暴挙に出ていた彼女は、二人のもとにたどり着く直前で滑って体が不自然に前方に傾き、慌てて支えに入った斎藤ごと、大きな音を立てて廊下の床に転がった。 「あら、大丈夫かしら」  のほほんとした矢野の声には、特に焦りは見られない。それもそのはず、斎藤と、駆け寄って来た女性の秦野有理紗が騒ぎを起こすのはいつものことであり、秦野に巻き込まれて斎藤が転ぶことなど、日常の一部と言っても差し支えない状況であった。  そんな巻き込まれ体質の斎藤は、体の上に乗っている秦野を引っぺがし、服のほこりをはらいながら立ち上がった。 「それで、花があったって言ったかしら?」  地面にしゃがみこんだ状態の秦野に尋ねれば、彼女はにぱっと満面の笑みを浮かべ、それから、 「中庭に蓮の花を見つけました」 勢いよくそう言い放った。 「蓮……」 「蓮、ねぇ」  同じような反応をする斎藤と矢野に対して、秦野は頬を膨らませた。 「せんぱい。せっかく私が忙しい中花を見つけて来たんですよ。少しはお礼の言葉があってもいいじゃないですか。私はこの後、仕事を放置してきたことで怒られるんですからね!」 「堂々と仕事の放置を宣言されても……うん、まあ、ありがとう」 「はい、どういたしまして!」 「それで、どうするの?」  それじゃあ、と元気に駆けていく秦野に手を振っていた矢野の質問に、斎藤はわずかに唇の端をつり上げた。 「ま、何とかなりそうではあるかしら」 「そう、手は必要?」 「一つだけ頼みたいことがあるの。確か地下の倉庫に――」  しばらく会話を続けた二人は、開館まで残り三十分を切ったところで別れて、大急ぎで仕上げに向かった。  ◇◆◇  三十分後。  旅館の玄関奥には、大きなガラス製の金魚鉢が置かれていた。鉢には三割ほど黒土が入れられ、その水面には香り高い蓮の花が漂っていた。水面の一部には入れられた黒土の丘が顔を出しており、その頂上付近では照り輝く紫色のすみれが数株咲き誇っていた。  旅館の名である孤高のすみれと美しく漂う気品ある蓮の花は、玄関に初夏のさわやかな風を吹き込ませていた。  ◇◆◇  オープン初日の夜。  斎藤はぐったりとした顔で旅館を後にしていた。顔には疲労がありありと浮かび、足元はずいぶんおぼつかない。隣を歩く秦野に、「ええ」とか「そう」などと心のない返事を返し、斎藤はしびれを切らした秦野に抱き着かれた。 「ずいぶんこってり絞られたわねぇ」  斎藤を挟んだ秦野の反対側を歩いていた矢野が、ころころと軽やかな笑い声をあげた。 「ほんとに、無茶振りだったわ……」  ぎろりと矢野をひと睨みしてから、斎藤は改めて溜息をついた。 「でも、きれいでしたよ。蓮の花も、すみれも。すっごくあの場所にあっていました」 「そうねぇ、あの状態でよくやったと思うわよ。お客様方にも評判良かったしね」 「とは言え、結局怒られるわけだからね。理不尽だとは思うけど、もうこの状況に慣れつつある自分が怖いわ」 「それにしても有理紗ちゃん。よく蓮なんて見つけたわね。今日のMVPはあなたよ」 「そうね、さすがにすみれだけではどうしようもなかったもの」  矢野と斎藤の言葉に頬を赤らめながらいえいえ、と謙遜していた秦野はしばらくしてから 「蓮の花が女将に自分の忘れっぽさを気づかせてくれればいいのに」 そうぽつりとつぶやいた。 「どういうこと?」  斎藤の疑問に秦野が苦笑いを浮かべた。それから目をつむり、明かりで星の光がかき消された真っ暗な夜空に向かって息を吐いた。 「蓮の花ことばですよ。清らかな心、神聖、それから“雄弁”。自分の失態であることに気付かない女将の理不尽な注文に対して蓮の花を置くのって、なんだか皮肉めいていませんか?」
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