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折角空気が美味しいのに、首が痛い。どうやら寝違えたらしい。礼実は眉間に皺を寄せてフラフラと歩く。
一方、実体のない彼女は約四時間にも及ぶ退屈な時間の反動からか、一人はしゃぎ回っていた。四方八方を縦横無尽に飛び回り、楽しそうに笑っている。
「呑気だねアンタは……」
生まれて初めて、幽霊が羨ましく思える。
「仕方がないよ!だって礼実ったら物凄い体勢で寝てたんだから」
「だったら起こしてよ」
「起こすなって言ったじゃん」
ごもっともだ。礼実は自分に呆れながらもトボトボと歩き出す。
「ねぇ、ここって観光地なんでしょ?何があるの?」
爛々とした麻耶の顔が逆さまになって視界いっぱいに映る。
「目障りなんだけど」
「あ!そんな言い方ひどい!」
礼実は涼しい顔で目の前にあった麻耶の顔をすり抜けた。古い駅舎、見渡す限りの田園と山。初めて見る景色にさぞ胸が弾んでいることだろう。その気持ちは分かる。
でも、残念ながら。
「何もないよ」
礼実の予想外の回答に、麻耶の頭の周りにはハテナマークが飛んでいるように見える。
「え……え?でもさっき観光地だって……」
「うん、そう。ここは"何もない"が売りの観光地なの」
世界的に有名な名所や食べ物のある観光地も勿論、良い。だけど近頃、中には"何もなくてもいいから、人が少なくてただのんびり出来るような場所"がじわじわと人気を獲得しているとか、いないとか。ここはその内の一つだ。
「なあんだ。だから電車も空いてたのか」
「いや、それでもあれだけ空いてるのは珍しいよ」
麻耶は分かりやすくガッカリしていた。まったく、折角人が色々考えて計画したというのに、失礼極まりない奴だ。
「あのねぇ、当日に交通機関のチケットが取れて、当日の申し込みで泊まれるホテルがあって、更にアンタみたいな訳の分からない幽霊と話してても人目が気にならない場所なんて限られるの。分かる?」
語気を強めてそう説明する。
「……うん」
少しは理解してくれたらしい。麻耶は大人しくコクリと頷いた。その様子に礼実は少し安堵の表情を浮かべた。
「分かったなら、行くよ」
「どこに?」
何もないと聞いた麻耶には、「行こう」と言われても目的地が分からない。キョトンと目を丸くする麻耶に、礼実は思わず笑った。
「取り敢えず適当にブラブラ歩いて……そしたら、あそこに行こう」
「あそこ……?」
礼実はゆっくりだが、真っ直ぐ歩き出した。麻耶は不思議そうに礼実を見つめながら、それを追うようにフワフワ飛んだ。
ここを選んだ理由は、もう一つあった。けど、それはまだ秘密だ。
探索は非常に静かに始まった。田園に囲まれた一本道を進んだかと思えば、突然獣道のような足場の悪い泥道を歩いたり、小腹が空けば売店でまたパンやおにぎりを食べた。思ったより会話は少なかったが、退屈ではなかった。
「あ、猫」
麻耶の指差す方へ目を向けると、そこには三匹の猫がいた。大きめの猫が一匹、子猫が二匹、古い空き家の床下にまるで隠れるように身を縮めている。
「親子かなぁ。可愛い~」
麻耶が近付くと、親猫と思われる猫が「シャーッ」と背中を丸めて威嚇する。
「え?私のこと……視えるの?」
「動物には視えてるってよく言うけど、本当かもね」
そう聞くと、麻耶は猫を刺激しないようにゆっくりゆっくりと近付いていく。大丈夫だよぉ、怖くないよぉ、なんて猫なで声で警戒心を解こうと努力している。
結果、警戒心が解けた訳ではないものの、猫たちの隣に座ることに成功した。
麻耶は嬉しそうに顔を綻ばせながらぐるりとこちらを振り返った。
「ねぇ、写真撮ってよ!」
早く早く、と急かす麻耶に礼実は首を傾げる。
「いいけど……アンタ写らないよ?」
「いいのいいの!ほら、早く撮らないと逃げちゃう!」
仕方なくスマートフォンを向ける。当然のことながら、画面には三匹の可愛い猫の姿しか写っていない。
「撮るよ」
それにも関わらず、麻耶は満面の笑みでダブルピースをしている。
彼女の行動は礼実には到底理解し難いものだった。しかし、考えてもキリがないのでもうシャッターを切ることにした。昨日、寝室に現れた時から彼女の行動なんて理解し難いものだったし。
「はい、チーズ」
乾いたシャッター音と共に撮れたのは、虚空を見つめ警戒する猫という奇妙な写真だった。これはこれで心霊写真と言えるのかもしれない。そんなことを思いながら、礼実はスマートフォンをリュックに仕舞った。
日が傾いてきた頃。鬱蒼と生い茂る木々に囲まれなた山道の石段を、礼実はひたすら上り続けていた。
「ねぇ、どこ行くの?」
「黙って着いて来て」
「ねぇ、しんどくないの?」
「……いいから黙って」
強がってはいるが、正直、結構キツイ。出来ればこんな階段なんて上りたくない。
でも、それを我慢する価値があることを礼実は知っているのだ。
段々空が赤くなってきた。今日は天気もいいし、きっと綺麗に見えることだろう。近付くゴールに胸が高鳴る。
「わぁ……」
辿り着いた時、隣から吐息混じりの感嘆の声が聞こえてきた。体力が限界で無様に肩で息をする羽目にはなったが、礼実は一切後悔などしていなかった。
もう一度、この夕日が見られたのだから。
「すっごい綺麗!」
「そ、そうでしょ……」
「ここって展望台か何か?素敵な場所だね!」
「あ、そ……そうね…… 」
駄目だ。ちょっと休憩させて欲しい。礼実はたった一つだけ設置されている二人がけの古いベンチに腰掛けた。
「体力ないね」
「幽霊には分からないわ……」
リュックから取り出したペットボトルの水をグビグビ飲む。前に来た時はここまで辛くはなかった気がするなぁ。時の流れを痛感せざるを得ない。
「ねー!また写真撮ってよ!写真!」
ぐるぐる飛び回ってまたさっきのように写真をねだる麻耶に、礼実は大人しくスマートフォンを向ける。感じた疑問について深く考えることすら面倒臭くなるほど、疲れていたのだ。
「早く早く!」
残念ながら、やっぱり画面には彼女の姿は写っていない。そんなこと、考えるまでもないことだ。
「撮るよ」
━━━━でも、何故だろう。
写っていれば、どんなに綺麗な写真が撮れただろう、なんて思う自分がいる。
「はい、チーズ」
礼実はシャッターを切る。次に頼まれた時はもう断ろう。そう心に決めて。
錆びかけた古いベンチに腰掛けて、二人して黙って空を見ていた。夕日はもう沈みかけていて、辺りにはチラホラと星が見える。
そろそろ降りようか、と声をかけようとして隣に目を向けた時だった。
「……泣いてるの?」
麻耶の頬を一筋の涙が伝っているのが見えた
「あ、あはは。ちょっとセンチになっちゃった」
涙を見られたのが恥ずかしかったのか、麻耶は軽くおちゃらけた。けど、それが逆に痛々しい。
礼実はその泣き顔をじっと見つめていた。涙を一杯一杯に溜めた瞳と、それに反抗するように口元に浮かべた笑み。
強がる彼女を見ている内に、つい口をついて出てしまったのだ。
「恨んでないの?お父さんのこと」
あ、しまったと思った時にはもう手遅れだ。どれだけ気になっても絶対に触れてはいけない部分に触れてしまった。
「……い、いややっぱり何でもない。忘れて」
咄嗟に取り消そうとしたが、やはり一度相手の耳に入ったものは簡単に消える筈もなく。振り返った麻耶の大きな瞳に、礼実は顔を伏せるしかなかった。
「あ、あの……ごめ……」
「いいよ。だって私が礼実の立場だったら、気にならない訳ないもん」
思ってもみなかった反応に、伏せていた顔を上げる。
「ね、礼実は私が死んだ時、どう思った?」
明るい口調でとんでもないことを訊いてくる。礼実は戸惑いつつも、あの日のことを思い出した。
水沢麻耶の家庭環境が複雑であるという話は、どこかで聞いたことがあった。
彼女は人から妬みを買いやすかったから、おそらくそんな誰かが噂を流したのだろう。 やれ水沢の母親は不倫をして出ていっただの、やれ父親は借金まみれで家がボロボロだの、あることないこと色々聞いた。友達のいない礼実の耳に入るほどなのだから、噂は相当広まっていたことだろう。まぁ、礼実がそれらの噂を気にしたことは一度もなかったが。
今から一ヶ月ほど前のことだ。自室でボーッとテレビのチャンネルを回していると、とあるニュースが流れてきた。
「━━━━市の民家から出火しており、消防が懸命な救助活動を……」
アナウンサーが淡々と読み上げる火事のニュース。それと共に映されたのは、ゴウゴウと燃え上がる一件の住宅。もう既に原型は留めていない。
そのニュース自体に特別興味がある訳ではなかった。ただ、家からそんなに遠くない場所で発生したようだったので、暫く見ていただけだった。
その家が麻耶の家だと知ったのは、翌日、学校でのことだった。どうやら彼女は亡くなったらしい。クラスは異様な雰囲気に包まれ、どうも居心地が悪かった。
更にその後、麻耶が父親に殺されていたこと、殺害後に父親が家に灯油を撒いて焼身自殺したことなどが次々と明らかになっていった。ワイドショーではセンセーショナルに取り扱われ、コメンテーターや何らかの専門家などが寄ってたかって事件に食いついた。皆そろって怖い顔をして。
学校では水沢麻耶は途端に"悲劇の人"となり、これまで散々悪口や噂話をしていたクラスメイトも涙を流して彼女の死を惜しんだ。「いい子だったのに」「もっと話したかった」そんな嘘を並べて。
礼実はやっぱり居心地の悪さを感じていた。テレビに出ているコメンテーターも、嘘を並べるクラスメイトも。
「気持ち悪いと思ったよ」
ギョッと目を見開く麻耶を気にも留めずに礼実は話し続ける。
「平気で手の平返す奴らも、何も知らない癖に知ったような口でベラベラ喋る奴らも、気持ち悪くて仕方なかった」
少し視線をずらすと、そこには絞められた痣が残った麻耶の首。くっきり写った大きな指の跡が痛々しい。
「……私、何も考えられなかった。こういう時、どう思うのが正解か分からなくて」
クラスメイトが、酷い死に方をした。なのに悲しくならない。こんな時に何も感じないなんて、自分が冷たい人間であることを認めているようで嫌だ。でも、だからといって他のクラスメイトみたいに泣いたりするのが正解なのだろうか。嘘をついて取り繕うのが本当に正しいのだろうか。
考えれば考えるほど分からなくなって、次第に考えなくなっていった。
暫く沈黙が続く。もしかして、思っていた答えじゃなくてがっかりしているのだろうか。そう思ってチラッと麻耶の顔を覗き込んだ。
「私も、分からないんだ」
その時、麻耶がゆっくりと重い口を開いた。
「さっき私に訊いたじゃん。お父さんを恨んでるかって」
一瞬、ドキッとする。あの質問についてはもう触れないと思っていたからだ。
「……あの日、お父さんが急に飛び掛かってきて……すごく怖かった」
やがて、麻耶は語り始めた。顔を上げて、遠い夜空を眺めながら。
━━━━夕飯が出来たよって、声を掛けたの。お父さんはいつものように真っ暗な自分の部屋にいて、いつものようにボーッと座っていて。だけど、あの日はいつもより機嫌が良さそうに見えた。だからもしかしたら今日は一緒にご飯食べてくれるかなって。そう言おうとして、部屋に一歩入った時だった。お父さんが豹変したのは。
とにかく、怖かった。息が出来なくて、苦しくて、目が滲んで……。ごめん、もうあんまり思い出したくないや。
目が覚めたら、お父さんが家中に灯油を撒いてた。何してんのって止めようとして……自分が死んだことに気付いた。すぐそこに私の死体があったから。そしたら段々何があったのか記憶も鮮明になってきて、でもすぐには受け入れられなくて。放心状態みたいになっちゃって。
お父さんが、泣くの。私の死体の前で。ライター片手に「ごめんな」って何度も謝りながら。おかしいよね。謝るならやらなきゃ良かったのに。
麻耶の目から涙が溢れ落ちる。ボロボロと、とめどなく。
「馬鹿みたいに悲観ばっかりして、口を開けば愚痴ばっかりで、その癖お金も稼いで来なくて、それでも私ずっと耐えてきたのに」
「うん」
「なのにこんな……こんな終わり方ってある?」
礼実はひたすら相槌を打つことしか出来なかった。かける言葉もない、とはきっとこういうことを指すのだろう。
「あの人に私の将来を奪う権利なんてないのに……勝手に私を不幸だって決めつけて。お母さんが出て行ったのも、借金まみれになったのも、全部あの人のせいなのに……!」
学校で流れていた噂は、概ね当たっていた。彼女の家は貧しくて、ボロボロの平屋に住んでいて、そしてお母さんがいない。しかも、どうやらその元凶が父親らしい。
「お父さんなんか大嫌い」
こんなの、父親を恨まない理由がない。第三者の立場だとそう思う。
しかし、彼女は言うのだ。
「……でも、お父さんを恨みきれないの」
複雑な表情の彼女の目から、もう涙は溢れていない。青白い顔で必死に笑みを作り、礼実を心配させまいとしていた。
「昔は、すっごく素敵なお父さんだったの。家も大きかったし、お母さんもいた。毎日が楽しくて、それが当たり前だと思ってた」
麻耶は遠い昔を懐かしむように目を細める。きっとその頃の思い出が脳裏に浮かんでいるのだろう。
「あの頃を思い出すと、お父さんのこと憎めなくなるの」
おかしいよね、と麻耶は自嘲気味に笑った。
礼実はというと、やっぱり返す言葉がなくてただただ俯くしかなかった。
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