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姫神と蛇男
滅多に人の踏み込まない山の奥。
その一角には生い茂る木々の影が幾重にも重なり淀んだ空気を醸し出している場所があった。
微弱な妖力と穢れを纏う淀みは低級の妖に好まれる。そのためいつからか彼らの溜まり場と化したそこに、騒々しい叫び声が響いていた。
「其方ら、妾の髪飾りを盗むなど無礼千万なのじゃぞ! 早う返すのじゃ!」
長い黒髪をたなびかせてそう叫んでいるのは、幼い少女だ。
羽織っている桜色の着物は七五三の晴れ着のような豪華さで、昼だというのに陽の光を拒むように暗い森の中において、自ら光を放っているかのようにその存在を主張している。
「ええい、無視するでない!」
ぴょこぴょこと跳ねながら淀みの中心に立つ木の上に向かって叫ぶ少女。
チョウチンアンコウの光のように暗闇の中でゆらゆらと桜色が上下に揺れる様子はどこか幻想的でもあった。
対して、木の上には少女とは反対にどこまでも光を吸い取るかのような闇を纏った異形が並んでいる。
異形には輪郭が定まっておらず、靄のような塊が時折蠢く事から辛うじてそこに何かが存在していることが分かる程度であった。
「カエシテホシイ? カエシテホシイ?」
「カエシテアゲナイヨ」
一般に低級妖と呼ばれるそれらはケタケタ、クスクスと嗤い声をたてて少女を囃し立てる。その返す気の全くない嗤い声を受け、少女は顔を真っ赤にして低級妖を睨みつけた。
「埒があかんわ! ちいと甘くしておれば付け上がりあって。其方ら纏めて吹き飛ばしてくれる!」
その言葉に低級妖たちはやれるものならやってみろ、とばかりに嗤い声を大きくした。
ケタケタケタケタ。
クスクスクスクス。
ゲラゲラゲラゲラ。
カラカラカラカラ。
さざめくように広がっていく嗤い声が少女を覆い、悪意を持って押しつぶそうと迫りくる。
それは声という形を得た妖気。小さな少女の体など吹き飛んでしまいそうなほどに大きく渦巻いた害あるモノ。
しかし少女の顔に怯えは見えなかった。先ほどまでの激昂が嘘のように落ち着いた表情で巨大な妖気をちらりと一瞥し、鼻で笑って言う。
「退魔のじゃ」
その途端、響いていた嗤い声の全てがビデオデッキの停止ボタンを押したかのようにぴたりと止まった。
それから少し間をおいて、ざわりと大きく風が吹く。
風が過ぎ去った後、そこに低級妖の姿はなかった。それどころか、鬱々とした雰囲気だったその場は麗らかな日差しの差し込む清廉な場所へと成り代わっていた。
「派手に浄化しましたねえ」
闇の晴れた木の裏からひょこりと男が顔を出した。
所々寝癖のついた緑髪をわしわしと掻き、欠伸を噛み殺しながら少女の元まで歩いてくる。
暗い青緑色の着物をだらしなく着崩し、懐から出した煙管を咥える姿は如何にも遊び人といった風情だ。
「やっと見つけたぞ、蛇男」
少女は目の前までやって来た男をギロリと睨みつけた。
蛇男と呼ばれたその男は、それに応えるように胡散臭さの滲む笑みを浮かべる。
糸のように細められた瞼が凝固した血液のような暗い紅色の瞳を覆い隠した。
「おや、俺をお探しでした? てっきりこちらをお探しなのかと」
そう言ってひょいと袂から取り出したのは可愛らしい桜の髪飾りだ。
「其方を探す途中で盗まれたのじゃ!」
少女は半ばひったくるように髪飾りを受け取るとそのままの勢いで蛇男の頰をつねった。
「あ痛たたた、何するんです」
そして大して痛くもなさそうにぼやく蛇男に畳み掛けるように言葉を投げる。
「突然居なくなったと思えば、淀みの中で昼寝などと馬鹿げた芸当をしだす阿呆への制裁じゃ」
「あはは、反論は出来ませんねぇ」
そう言ってさらに笑みを深めた蛇男の姿がゆらりと蜃気楼のように揺れ、次の瞬間には最初に姿を見せた木の根元へと戻っていた。
先ほどの淀みとは違う、日差しによって自然と作られた木陰が男を包み込む。
「淀みがどのようなものなのか、其方なら分かっておるじゃろう?」
少女は眉を寄せ、少し躊躇いながらも、非難しているような、それとも懇願しているような言葉をぽつりと吐き出した。
「ここ一年で其方はすっかりおかしくなった。ここだけでなくあちこちの淀みを渡り歩いておるようじゃし」
「気付いていたんですか」
蛇男は少し驚いた表情を浮かべた。
けれどそれは一瞬の事で、すぐに先程までの胡散臭い笑みに作り変えられてしまう。
「淀みなんぞに入り込んで何になる? 穢れを纏い過ぎれば妾たちは死んでしまうのじゃぞ?」
少女が悲痛な表情で訴えたのは淀みの危険性だった。気軽に入れるような、ただ暗いだけの場所ではないのだと。
「それくらい知っていますよ」
しかし蛇男の返答は短く、いっそ冷酷な程にあっさりとしたものだった。
「蛇は神気を纏う妖ですし、自らに関わる事柄を知らない訳がないでしょう」
知らなかったら生きていけませんよ、と笑う蛇男。
先ほどより強くなった日差しが浄化された筈の木陰を深い黒に染め上げ、ぼんやりと浮かぶ蛇男の細い赤瞳だけがちらちらと灯火のように揺れている。
「分かっておって何故!」
「そんなの決まっているじゃないですか」
悲鳴のような少女の叫びと裏腹に、蛇男の言葉はどこまでも簡潔で。
「入りたいから、ですよ」
まるで理解を拒むかのように淡々と放り投げられた。
「この阿呆が!」
顔を真っ赤にして怒鳴り、泣きそうな表情で睨みつける少女に応えることもなく、蛇男は会話中殆ど崩れることのなかった胡散臭い笑みを向ける。
「……っ」
通じ合わない心を抱えて見つめ合った末、少女は逃げるようにその場から立ち去った。
「……阿呆は貴女でしょう、姫神」
絞り出すように告げられた言葉も受け取らないままに。
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