パレードは水平線に向かう

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 うらさびれた港町の未明は淋しく、海鳥の啼く声、トタン板の軋む音もない。波音さえもがひっそりと静まり返っていて、けれど、きっとぐっすり眠るには良い日和だ。  街中の隅っこに息を潜めている色とりどりの紙片は、ひと月と少し前の終幕のパレード、その余韻で、だから誰もが忌み嫌った。  海からやって来て海へと去っていったサーカスは、今では思い出になっていて、ただ未だに、ある種の新鮮さを以て大人たちの世間話の種になっている。  スイカほどの大きさの石を、幾重にも積み重ねて造られた堤防があって、それは海岸線沿いにどこまでも続いているように見える。自分と同じくらいの大きさの熊のぬいぐるみを抱えたパウサは、親指を咥えて夜闇の奥を見ている。 「ここから歩いて行ったら、夜から出られるかな。それともずっと夜なのかな」  彼女の隣にいた丸坊主の少年が、不意に恐ろしいことを言うので、パウサはくりくりとした大きく可愛らしい瞳に涙を滲ませた。ぬいぐるみは首が絞まって苦しそうだ。 「ダニー、パウサを泣かせないで。大人たちがすっ飛んでくるわよ」  年長の一人であるリンは、ダニーに鋭い眼差しを向ける。 「どっちにしたってばれるのに」 「なに?」 「…ううん、なんでもないよ」  ダニーはリンの剣幕に戦いて、後退(あとずさ)った。背中に何かぶつかったので振り返ると、いつもの丸眼鏡をかけたストワが立っていた。 「リン、喧嘩しないでね」  喧嘩じゃないわ、とリンは吐き捨てるように言った。  ストワはそれ以上何も言わなかった。 リンは、ストワの何事にも控えめで、雛鳥のような態度が大嫌いだった。けれど、少し前に変化した彼に、戸惑いと頼もしさを感じずにはいられなかった。今の彼になら、ライオンを従えて火の輪を潜らせるのも容易いように見えた。 「さあ、行こうか」  ストワは、夜の先を見て言った。                【P】   パウサは昨晩に自分の放った言葉が大人たちをどれほど震撼させたか、理解していなかった。だからパレードの翌日に、少し騒がしい日常を送る世間にも、興味が沸かない。  今朝の彼女は、お気に入りの石の数々をテーブルの隅に並べるのに忙しい。  部屋の隅に見つからないように隠しておいたお菓子の缶箱がある。本物の中身は随分前に、お腹いっぱいになるまで平らげてしまった。今では方々で集めた鈍い色の宝石がこれでもかと詰まっていて、増える一方である。  手始めに箱を逆さにして、床にぶちまけた。鈍い音がして、いくつかは テーブルの下に転がっていった。後で拾うもん、と、町広場の井戸に洗濯に出かけて留守の母親に、言い訳をした。  手に取り、手に取り、並べては、またそれを落とす。  手に取り、手に取り、並べては、いずれそれも乱す。  どれもあまりしっくり来ない。幼子のこの手の探求は、多くの場合ゴールは無い。  彼女は玄関扉に視線を遣った。彼女でもドアノブに手が届くようになったこのごろには、それそのものの重量や少しねじれた蝶番の抵抗など、最早意味を為さなくなっていた。  ギイギイと叫ぶ扉の悲鳴を無視して、パウサは朝の街へ繰り出した。  広場からまっすぐに延びている石畳には、カモメと鳩が入れ違いに歩き回っている。誰かが撒いたパン屑が砂や埃と混ざって、鳥どもに取り囲まれていた。  彼女が大声を発しながらそこに飛び込むと、翼を持った彼らは嫌がって、少し離れた所まで飛んで行った。  彼女はまだ少し涼しい朝を広場へと駆け始めた。  いつもと変わらない様子の街並みは、路の端々に散らばった七色の紙片がよく目につくようになるとやがて、少しずつ浮き足立った人の気配に満たされていって、広場まで来るとそれはより明確な形をとるようになった。  パウサは、母親を探した。広場には数人の群れが両掌の指の数より多く集まっていたから、その中からこれと探し出すのは、骨が折れた。  三度ほど間違えて顔見知りの女性に声を掛け、その度にこの世の終わりに直面したような表情をして回っていると、いよいよ鼻の上の方がむずむずと悔しくなってきた。思い通りにならないと、なんでもいいから泣きたくなる年頃だった。べそかいて座り込んだ。 「こら」  聞き慣れた声がしたので、パウサは振り返った。  誰からか報せてもらったのか、母親が洗濯桶と濡れそぼった衣服を片手に、緩く目くじらを立ててこちらに迫って来ていた。パウサは地団太を踏んで唸った。  湿った洗濯桶を被り、母親の手を握った。  彼女は母親を見上げた。 「たくさんだね。もうサーカスないよ」  サーカスは満月の下に盛大なパレードを催し、海の向こうへ消えていった。既に、路面にこびりついた紙吹雪以外にはその面影すら無いのに、大人たちがひっそりと広場に集まっているのが、パウサには不思議でならなかった。  母親は、少し間を置いてから、握る手に力を込めてきた。  それはパウサが、痛がらない程度のものだった。  けれどきつく結ばれた母親の口元は、それよりずっと力が籠っているようで、あるいは何か痛みを堪えているようにも見えた。パウサは反射的にそれを真似てしまって、余計な哀しいことを思い出して、鼻をすすった。 「パウサ」  呼びかけに応えるように瞬きをすると、母の潤んだ瞳がこちらを見下ろしていた。 「良い子でいてくれてありがとうね」  パウサは床にぶちまけたままの石ころのことを思い出した。                【D】  たたた たん、たたた たん、たたた たん  たたたたん  たたた たん、たたた たん、たたた たん  たたたたん… 「…パウサが言ったならきっとそうだよ」  ダニーは手を止めて、鬱陶しそうに応えた。  窓から見える夜空には、見飽きた星々とレモンみたいな形の月が浮かんでいた。  もう二時間ばかり、齢の離れた兄とその友人たちが向かい合わせに、四人でテーブルを囲んでいる。兄が自前で漬けた果実酒が振る舞われているので、月の位置が高くなるにつれて騒がしさも増していった。  宴会が始まった時分、まだ睡魔に抱かれていなかったダニーはこれ幸いと、普段だと叱り飛ばされる夜更けのコンサートを開くことにした。奏者はひとり。パートはパーカッション。軽快な音が大好きで、物心つく前から触っていたその太鼓で、宴の賑わいに一役買うつもりだった。  思惑は、まだ彼が青年たちに部屋を追い出されていない以上は、概ね成功していたと言えただろう。演奏して、眠たくなったら適当に切り上げて、ベッドに潜る。しかし、そうもうまく収まりそうにはなかった。 「冷てえなダニー。友達だったんだろ」  しつこい兄を睨んだ。日焼けした高い鼻と張った頬は少し赤らんで、そして口元には少しの怯みも見せない。 あろうことか、太くたくましい指を揃えたフライパンほどの掌が迫って来て、ダニーの坊主頭を逆毛に撫でた。いい気持ちはしない。 「どうなるんかな」  兄の友達の一人―――特に足が大きくて臭い人が、魚の骨を咥えたまま寝言のように呟いた。 「そりゃ荷物運び!」  一番背が低くて、そのくせ声が大きい人が海鵜の様に叫んだ。 「ライオンの餌に決まってる」  筋骨隆々の四角頭が低く唸った。 「腑分けで売られるとか」  兄はグラス片手にお道化て見せた。 「どれもごめんだぜ!」  誰もかれもが「違いない」と高らかに笑い出し、たちまちグラスを空にした。  こうもうるさくては折角の太鼓も台無しだと、ダニーは腰を上げた。 テーブルを見ると、果実酒の瓶は空っぽだった。部屋の灯りが四方から照らしていて、不思議な影が四本できていた。ガラスの奥には兄がいて、屈曲したそのシルエットが、お酒に漬け込まれてうっとり溺れる海藻のように見えた。  きっとこの人たちの大好きは、お酒と噂話なのだ。 「気が利く弟だな」  兄は今にも閉じてしまいそうな瞼を震わせて、笑った。  たたた たん、たたた たん、たたた たん  たたたたん  たたた たん、たたた たん、たたた たん  たたたたん…  酒屋のおじさんは二階の窓から顔を覗かせて店先にダニーをみとめると、「夜だよ」と静粛を促した。坊主頭が手を止めると、店主は律儀に窓とカーテンを閉めてから、一階へと降りてきた。 「何事かと思った」  と、しきりに首筋を掻いているのがなんだか馬鹿馬鹿しく面白くて、ダニーは声を出して笑った。「しっ!夜だよダニー」  ズボンと背中の間にしまっておいた空き瓶を見せると、おじさんは無言でそれを受け取って、店の奥に行ってしまった。少年は太鼓でも叩いて待とうかと思ったけれど、二階から子守唄が聞こえてきたので止めた。  薄明り。舞う埃。酸っぱい匂いもする。天井の隅に動くものがあった気がした。きっと蜘蛛だろう。蜘蛛は、脚がいっぱいあるから、コウモリだって食べると聞いた。パウサくらいなら捕まえて、頭の先から齧ってしまいそうだ。  欠伸をしているところを、戻ってきたおじさんに見られて、ダニーは口元を覆った。 「お兄ちゃんかい」 「うん」 「ツケが溜まってるって言っといてね」 「うん、うん」  瓶には夕陽で染め上げられた海と似た色の水が満ちていて、ずっしり重たい。ズボンで運んでいくことは、できるだろうか。とりあえず詰めてみようとシャツをまくると、おじさんが咳をした。見ると、曖昧な顔をしていた。「ちょっと待ってなさい」  また店の奥に行ってしまったおじさんは、今度はダニーが部屋の隅に気をとられる前に幅広の麻布と一緒に戻って来た。ダニーから手渡された酒瓶を、くるりくる、と器用に包むと、少年の小さな背に肩越しに結んで固定した。 「ありがとう」 「どういたしまして」  おじさんは太鼓をじっと見つめて言った。  店を出ると、夜空の白いレモンが低いところまで下りてきているのに気付いて、ダニーはまた欠伸をした。もう少し暖かい夜なら、広場を通り過ぎず、井戸の傍で眠ってしまったかもしれない。  酒屋から十分離れたので、またスティックを握った。 「ダニー」  振り返ると、酒屋のおじさんがいた。低い月明かりで、皺の多い額や首筋が白く浮かび上がっている。サーカスで見た、アリクイに乗せられたビスク・ドール。それとよく似た、作り物のような色だった。 「パウサの言っていたことは、本当なのかい?」  好奇に怪しく光る瞳が、寝汗で湿った鼻面が、聞き飽きた言葉が漏れてくるのっぺりとした唇が、ダニーに向いていた。    たたた たん、たたた たん、たたた たん  たたたたん  たたた たん、たたた たん、たたた たん  たたたたん…  おかしな話だ。  どうだっていいことだろうに。だって欠ける前は、だれも気にしなかったんだから。  欠け月に声を震わせて、満月には見向きもしないなんて、そんなのはおかしなことだ。  僕は満月の方が良い。でも、この半月も好き。  どうせ、そのうちまた丸くなる。 「たたた たん」                 【R】  八歳の頃、部屋を貰った。  それまではずっと厳格な祖母と同室で、何かと口を出されていた。  太陽の高いうちは椅子と本、はたまた楽器を与えられ、夜、眠りを誘う子守唄は海のずっと先にある国の言葉、歴史、文化の授業で代えられた。私にとって家は刑務所のような場所だった。  だから祖母が海の向こうからやって来た病気で呆気なく死んでしまったとき、少し清々した。  主人のいなくなった部屋は古い調度品を捨て、新しい家具と主人とで生まれ変わった。そこはもう刑務所ではなく、紛うことなき私の国だった。  問題だったのは、その国境の越え方を誰も教えてくれなかったことだ。  結局私はしばらく国から出られず、祖母との必ずしも鮮やかでは無い思い出と一緒に腐っていった。高慢になった。居丈高になった。父母に意味も無く反抗した。  そしてひとりの夜に時々、泣いた。  おばあちゃんのこと、少し清々したけれど、いっぱい哀しかったことを思い出してばかりだったから。  そんなある日、部屋の窓から中庭を覗いていると、塀の隅で小さな影が動いているのに気付いた。猫か何かが入って来たのだと見当つけて眺めていると、なんとそれは私と同い年ほどの男の子と女の子だった。 二人はすぐに私に気づいて、大慌てで塀をよじ登って逃げていった。みっともない、子どもっぽい連中だと、鼻を鳴らした。けれど少し羨ましかった。  とはいえ家から出るにはどうしたら良いかがわからない。しようが無いので、祖母が遺していった本の内、まだ手に取っていないものに手を付けることにした。背表紙は所々破れていたり、手垢に汚れていたりと、惹かれる見た目の物は無い。 「…わがまま言っても仕方ない、か」  それでもマシなものが選びたくて、深紅の布に金糸の刺繍がされた一冊を手に取った。  小難しい文字が繋がったタイトルと、いかにも偏屈そうな作者の名前があった。最後まで読めるかしら。飽きてしまうかもしれない。  ―――でもまあ、時間は腐ってしまうほどあるのだから。 「失礼してよろしいですか」  突然、ドアの向こうから呼びかけられた。使用人のグエンの声だ。この時間は、玄関の植木の植栽作業をしているはずだった。  紅い本を窓辺の机に置いて、ドアを開けた。 「このような汚い格好で失礼します」  作業着の青年は、その太い眉まで申し訳なさそうに屈ませて、恭しく言った。 「いえ、かまわないですけど…どうかしたんですか?」  彼は一層、困った顔をして、来客が有る事を告げた。  果たして。玄関まで出向いてみると、そこには先の男の子と女の子が立っていた。予想外の出来事に目を丸くさせて唖然としていると、その二人の陰から別なこどもがさらに二人、顔を覗かせた。 「増えてる…」 「こ、こっちの…こっちの太鼓持ってるのがダニーで。えと、あ…」 「パウサ鼻水出てるよー…っあーあ、啜っちゃダメだってばーぁ」  てんやわんやである。 「あんたたちは?」  その問いに丸眼鏡の少年は、ぱっと表情を明るくさせた。 「ぼ、僕はストワ!」  いかにも素直そうな少年だ。ぱっとしないのは、姿勢と表情に滲み出る自信の無さ故だろうか。 「ストワ、ね。はじめまして。私は、リン。あんたは?」  幼女の鼻水で汚れたハンカチを畳んだ彼女は、健康そうな小麦色のうなじに柿色の紐でまとめた髪を揺らして、振り返った。  オパールに潜む淡い緑色を思い出させる美しい彼女の瞳が私を写したとき、胸がざわつくのを感じた。 「私は―――」  祖母が亡くなる以前、夕食は沈黙してこそのものだった。 「もうひと月も前になるのねぇ」  スカートに不要な折り目が付かないように、気を遣って椅子につく。 「まったくどこもかしこも大騒ぎだったこと!」  ナプキンは正しく付けないと、意味を為さないのです。 「ひと晩探し回った人も居たって」  ナイフとフォークは使いやすい位置まで動かしても構いません。 「ゼルリコットさん家の娘さん…あのまだちっちゃい子が言ってたそうよ!」  まだです。神様にお祈りを、してから。 「『サーカス団に連れていかれちゃった』って!」  リン、しっかりと感謝を。 「誰も困らなかったのは救いだったわね」 「母さん、やめて」  薄目を開けて睨むと、母はソースで汚した口を左手で隠しながら「あら、うるさかったかしら」と、悪びれずに言った。 「……ごちそうさま」  私はナプキンを外して、部屋を後にした。  暗い廊下に出ると、少し空気が軽く、暖かいのに涼しい気さえした。壁に等間隔に設置されたガラスランプの光がそれぞれに揺蕩う。まるで海の中みたいだ。 「もう夕食は済んだのかい」  家中のランプを点け終えたらしいグエンが、靴を鳴らしてこちらへやって来た。六つ年の離れた青年は、私を見下ろして微笑んだ。 「ねえグエン」 「はい?」 「人を羨ましいって思ったこと、ある?」 「ありますよ」  私がじっと彼の褐色の瞳を見つめると、彼も私を受け入れた。  私室の扉に背を預けて、座り込んだ。部屋にはなんの灯りも用意していなかったから、辛うじて庇から覗いているわずかな月明かりだけが、ひっそりと夜闇を解いている。  扉の反対側で、衣の擦れる音がした。扉が向こうから少し押されているのを、背中で感じた。温もりさえ伝わってきそうだった。 「僕はリン、きみが羨ましいと、いつも思っているよ」 「それはまだ、グエンが私のこと知らないからだと思う」  私はこの家が嫌いだ。  父さんは仕事で数年に一度しか戻らないし、母さんは不気味な寄生虫のように家にしがみついて、ただ太っていく。噂話と化粧だけを餌にして、満足した豚のように惰眠をむさぼる。けれどグエンにとって母さんはただの金払いの良い雇い主だし、周囲と比べてこの家が多少なり裕福なのは確かだから、手前勝手に羨むこともあるだろう。 「かもね」  グエンは否定しなかった。彼は続ける。穏やかに、きっと微笑んで。 「リン。幸せは人の数だけある」 「もっともらしい話ね」 「でもね、他人ばかりを見て、楽して幸せを決めようとすると、いつかどこかで誰かを妬まなくちゃいけなくなるんだ」  幸せを楽して決める―――その怠惰には心当たりがあった。  紅の布張り、美しい金糸の、一冊の本が脳裏に浮かんで、思わず両手で顔を覆った。  あの頃の私だ。外に出られなかったんじゃなく、出ないで済まそうとしていた私。 「私、やっぱり、誰よりもみっともないわ」  母と変わらない。血は分かてないのかもしれない。 「変わったじゃないですか」  グエンの声はとても優しい。今ゆったりとカーテンを揺らした夜風と、そっくりな響きだ。 「でもね、でもね、グエン」  胸が苦しい。鼻梁の付け根がじんと熱くなって、声が上ずってしまう。昔から感情的になると、すぐ涙が出てきてしまって―――おばあちゃんに怒られたっけ。 「私、サバーが羨ましいの。あの子はいつだって、私の前にいて、誰よりも輝いていたわ」  それはきっと、彼女が彼女の幸せを、努めて探したからなのだろう。私が欠かさず欠いてきた努力を、サバーは決して怠らなかった。  そしてそのために、彼女はパレードに紛れて、水平線の向こうへ行ってしまった。  ここには無いものを探す、力強さと煌めきがあったのだ。  堪えきれなくなって、声をあげて泣いた。グエンはずっと、向こう側にいてくれた。  すべきことがわかっているのに、できないのは何故だろう。  できる人がいるのに、できない私は何故いるのだろう。  わかんない、わかんないよ。  でもそれより今は、さみしいよ。               【S】    空がほんのりと白み始めたように見えたのは、彼らが長く、夜にいたからだ。  ストワはこれ以上、そこに身を置くつもりは無かった。  さあ、暗澹たる夜の霧を吸い込もう。  吐く息は、銀のホイッスルに流れ込み―――――未明を切り裂いた。  パウサが飛び上がった。  浜の水鳥が慌てて飛び立った。  路地裏の猫が器用に耳だけを、海へと向けた。  やがて石畳を鋭く蹴り上げて、夢現の人々の目覚めを促した。  ダニーはストワの目配せを受け取って、頷いた。    たたた たん、たたた たん、たたた たん    たたたたん    たたた たん、たたた たん、たたた たん    たたたたん…  彼がスティックを動かし始めるや、軽快なリズムが、澱み沈んだ夜に新鮮な拍動を握らせて、滑らかに夜明けを誘った。  いよいよ四人のパレードは、ゆるゆると朝へと向けて進みだした。  先頭のストワに続くのはパウサだ。首輪の付いた熊を引きつれて、楽しげに歩いているではないか。あれだけの猛獣をまるでペットのように従えている。  ダニーはパウサを追って歩き、いつものようにリズムを刻んだ。とんがり帽子かベレーを被れば、きっと誰もが彼を、楽隊の一員だと褒めそやしたことだろう。  リンはパウサのリズムに合わせて、横笛を、軽やかに淑やかに奏でた。レースで縁取られた漆黒のロングスカートと純白のブラウスは美しいメロディに喜んだ夜風をはらんで、彼女の周りを踊り子たちが舞っているかのように見せた。  ストワは先頭で七色の紙片を振りまきながら、ちら、と通り過ぎた夜を見遣った。何度見ても五人目(サバー)はいない。その事実に胸が張り裂けそうに痛んだ。  ―――でもそうだ、これは初めからそういうものなんだ。  ストワは夜明けを見つめた。  あれはサーカスを送るパレードだったろ?  これは、きみの門出を祝う、パレードだ。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!