〜プロローグ〜

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〜プロローグ〜

『青月荘の殺人』 〜プロローグ〜    ☽Ⅰ章   朝、部屋に春のやさしい陽光が差し込んでくる。今や花見客でいっぱいになった桜並木の枝上で囀(さえず)る野鳥たちの声で私、斑鳩翔は目を覚ました。  季節はすっかり春になり、この前まで猛威を振るっていたあの寒気は見る影もないようだ。私はお洒落な窓枠に嵌った窓ガラスを開ける。頬を掠る風はもう身を竦めなくてよいような気温になっていた。   部屋の中に流れ込んでくる柔らかい花の匂いが鼻腔をくすぐる。   ここは『安曇探偵事務所』。都心から少し外れた場所に位置する。私は一年前に地元のK**大学を卒業してからすぐ、ここに泊まり込みで働いているのだ。     なぜこんな珍妙な職場を選んだかというと、いろいろ説明すると厄介だ。面倒な事件に巻き込まれた時、先生に救ってもらったためその縁で……、というのが最も簡潔な説明だろう。    そしてここの所長である安曇先生は私と同じくここの事務所に住んでいる。一階が仕事場で二階が共有スペース、三階が個人部屋というわけだ。  今日は四月十日の金曜日、そして時刻は六時半。  先生はもう起きていて食事の準備をしているようだ。下の階からおいしそうなベーコンを焼く匂いが漂ってくる。   私はすぐに身支度を整えて下の階へ降りて行った。 事務所内部は基本、木造になっていて所々に置いてあるお洒落なアンティークが目を引く。階段には洋書、チェス盤、ミニチュアハウス、振り子時計、洋書……とたくさんの物が、壁に造られた埋め込み式のガラスケースに入れられている。  そういえば以前、「なぜ事務所はこんなに立派な造りなのですか?」と訊ねたことがあった。先生はそれに対し、「友達が貸してくれているんだよ。今のこの事務所の収益ではこんないい土地にこんな事務所を建てられるわけないだろう」と頭を掻きながら、苦笑交じりに答えてくれた記憶がある。   二階に降りてくると一層、香ばしいの匂いが強くなってきた。奥の方にある大理石のキッチンでは先生が忙しなく何か作業をしている。 「おはようございます。先生」 「おはよう。斑鳩君。今日の朝食はベーコンエッグとバタートースト、コーンクリームコロッケだよ」   先生はそれらの乗ったお盆をダイニングテーブルに乗せる。 「いつも作っていただき、ありがとうございます」   ここに泊まり込むことが決まった日から先生は大抵こうして食事を作ってくれる。先生ははっきり言ってしまって仕事では少し抜けているところがあって、よく依頼人から指摘されたりするというのに料理の味だけは繊細で、まるで非の打ち所がないのだ。  私は食卓につき、目の前にあるコーンクリームコロッケに手を付け、珈琲を啜った。     探偵というと難しい顔で終始考え事をしているイメージがあるかもしれない。しかし、先生はそれとはまったくの逆である。  実際には三十代であるらしいが二十代前半と言われても納得してしまうほどに童顔である上、いつもニコニコしているものだから稀に私が探偵で先生が助手だと依頼人に勘違いされることがある。 「先生、今日もおいしかったです。ごちそうさまでした」 「どうもどうも」   そんな会話をしながら私は下の階に降りていく。今日はたしか十一時からお客様が見えるはずだ。その準備やそのほかの依頼についての後処理や報告書などの作成……。やることは山ほどある。この仕事はあまりゆっくりしていられないのだ。   朝の時間は今から来る資料の作成などが中心的な仕事だ。私はその仕事をこなすべくデスクに向った。         ☽Ⅱ章   時刻は十一時、一階の事務所の壁にかかっていた十角形の振り子時計が玲瓏(れいろう)とした金属音を響かせる。そろそろ依頼人がここにやってくる時間だ。   電話を取ったときのメモをパラパラとめくって最終確認する。たしか依頼人さんのお名前はと……皇沙織さんか…… 先生はもうすでに応接室に行っている。  ここはあまり古くて信用がある探偵事務所ではないので依頼人が来るのは久しぶりなのだ。だから一般からの依頼はほとんど来ない。月に一回ほど、来るとしても、いつも浮気調査や飼い猫探し、債権者の追跡くらいだ。  そんなことを考えて大きなため息をついたとき、不意にインターホンが鳴った。 私は玄関に小走りで行き、扉を開ける。  しばらく開けられていなかった木製の来客用の玄関はキィーと軋むような音を立てて開いた。そこには、レディーススーツを身に着けた二十代と思われる小柄な女性が立っていた。 「昨日お電話をさせていただいた皇沙織と申します」    彼女がぺこりと頭を下げると私も名刺を差し出す。「はい、私は安曇先生の助手を務めさせていただいている斑鳩という者です。先生は奥のほうにいらっしゃるので、どうぞお上りください」   私はそう言って皇さんを奥の応接室まで案内する。応接室は一階の一番奥にある部屋で、中には上品な栗色のソファーが二つとマホガニーでできた茶褐色のデスクが置いてある。 「先生、お客様をお連れしました」  先生はデスクの奥にあるお気に入りのロッキングチェアに腰かけ、分厚いミステリの本を読んでいたが、私が開けっ放しになっている部屋の扉をノックすると、本を小脇に抱えたまま立ち上がりこちらにやって来た。 「ハーイ。こんにちは皇さんですね」   先生はいつもの調子で依頼人に微笑みかけ、握手をする。 「今回はよろしくお願いします」   皇さんもそう言って丁寧にお辞儀をする。 「いつまでも立ち話もなんなのでソファーにおかけください」   私は話の間を見て、依頼人へ反対側のソファーに座るように促す。  それに合わせて先生もソファーに腰掛けた。私は先生の横に立ち、手帳を取り出してメモの用意をする。「では、そろそろ依頼のお話に移りましょうか」   先生は手に持っている分厚い単行本をデスクに置き、頭をガシガシ掻いた。 「依頼とは実はこの手紙についてです」   皇さんはそう言うとバッグの中から一通の封筒を出す。茶色で無地の封筒から出てきたその手紙には新聞の切り抜きのような文字が張り付けてあり、こう書かれていた。 ――来月のパーティーに来た人間を必ず殺害する。「ふむふむ、これは殺害予告とも取れますね。警察に届けましたか?」   先生はゆっくりと文章に目を通してから小声でそう言った。皇さんは少し懶気に言う。 「いいえ、『来た人間』を殺害するというのは表現として明らかに不自然ですし、警察も本気で捜査してくれるとは思えません」 「何かそんなにこのパーティーを開きたい理由でも?」 「はい、このパーティーは中学時代に所属していた新聞部の同窓会で、二年前から計画し、やっとの思いでスケジュールを合わせてもらったのです。それをこんないたずらなんかで無下にしたくありません」   その話を聞いて先生は神妙に頷いた。 「わかりました。やってみましょう。この手紙の差出人をつきとめて……」 「いや、それでは遅いのです」   皇さんは身を乗り出すようにして先生の話を遮った。 「パーティーは明日からなんです。安曇先生に私が依頼したいのは、私たちに同行し犯人から守ってもらうことなんです」   突然の提案に先生は面食らった表情をしていた。「しっしかし、同窓会なら私のような部外者が入ることはできないのではないでしょうか?」 「そのことなら問題はないと思います。パーティーの参加者にはあらかじめ説明していて、了承も取っているので」   皇さんはきっぱりとした口調で言った。たしかにこの前、宣伝のためにホームページを作ったときのキャッチコピーに『どこの探偵事務所よりも早く解決します』みたいなことを載せてしまった気がする。きっと皇さんはそれを見てここに来たんだろう。  「そうですか、では詳しい日取りと場所についてお聞かせ願えますか?」   意外にも先生は突然の提案に乗り気のようである。皇さんは先生から渡された書類にサインした。  私は彼女の説明をメモして、さっそく明日の身支度を始める。また変な仕事を受けてしまった……。  まあ何事もなければただの旅行と変わらないだろうから、そう必要以上に危惧することはないだろう。   もっとも、何もなければの話だが………… 青の章に続く…
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