13 あーあ、落っこちた

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「郁登……?」  寒そうに肩を小さくしながら、キョロキョロと駅前で誰かを待っている郁登がいた。  ジン――と指先が痺れて、郁登のところへ足が急ぐのに、どこか怖がっている自分もいる。期待と、それとは正反対に消極的な自分、何か混乱しながら、それでもやっぱり歩く速度は速くなった。 「!」  辺りを見渡していた郁登が、自分のほうへ真っ直ぐに歩いてくる俺を見つけて、驚いて、でもそのまま視線を外さずにいる。それは無言で、俺を探していたって教えてくれているような気がした。 「な、にしてんの?」  声が馬鹿みたいに詰まる。問いかけに「何って……」って呟いて、俯いてしまった。 「か、金沢先生こそ……何してんすか」 「郁登が来てくれないかと思って。八時に駅前って言ったのに」 「……」  八時に駅前で待ち合わせて、あんたの知らない女と酒を飲んで、あんたを忘れてしまおうと思っていたのに。だからここへ来て、それを阻止して欲しかったのに。来るの遅いだろ。八時を過ぎてもしばらく待ってたんだけど? 「寒くない? ジャージじゃさ」 「だって、学校から家近いから、ジャージで走れば全然大丈夫なのに」 「なのに?」 「あ、あんたが駅前なんて言うから、すっごい迷って、でもここに来ちゃって、そしたらいないし、でも駅前しか知らないから動けなくて」  十時も過ぎた駅前で、ジャージ姿、しかも白なんてすごく目立っていた。どうしても触れて確かめずにはいられなかった。  ほんの少しだけ指先に触れて、そしてその冷たさに、一瞬、手を引っ込めてしまうくらいに、氷のようになった郁登の手。五分、十分ここにいたくらいじゃ、ここまで冷え切らない。 「とりあえず、車」 「え? いや、あの」 「身体、冷えすぎ、とりあえずこれ着て」  探して欲しかったくせに、さらって欲しかったくせに、俺のせいでこんなに冷え切っている郁登になぜか俺が怒っている。遠慮しようとするのを無視して、ジャージには全く合わないコートを肩に掛けて着せると、そのまま早歩きで駐車場へと向かう。  これが女だったら手を引く事も出来たけど、それが出来ない。だからちゃんと後ろをついて来ているのか、何度も何度も振り返って確認していた。  振り向くと、すぐ後ろには郁登が寒そうにしながら歩いていた。不貞腐れたような顔をしているけど、ちゃんと俺のコートも着ている。途中、何度も振り返った俺に、郁登がボソッと「そっちのほうが寒そうなんだけど」って怒った口調で言われたのは無視した。実際、アルコールも入っている俺は、コートを着ていなくても、今はそんなに寒さを感じない。浮かれているのもあるとは思う。郁登が駅前に立っている姿を見た瞬間から、身体がやけに熱いから。  駅から十分も掛からないけれど、コインパーキングに到着すると、駅前でぞろぞろといた人はほとんどバラけていた。 「俺、酒飲んでるから、郁登が運転して」 「は?」 「俺の家まで」 「はぁ?」  ものすごい不服そうな顔をしていた。でもそれも無視して、車の助手席に先に座ってしまうと、郁登も仕方がないと運転席に座った。 「どうするつもりだったんすか」 「郁登が運転してくれる」 「だからっ! んっふっ……ン」  知らない。どうして郁登があそこに来てくれたのか、しっかりと理由を俺は聞いていない。でも、もう知らない。 「もし失恋したんなら、高い代行呼んで、ひとりで帰ろうと思ったよ」 「し、失恋って」  そう呟く郁登の唇は街灯が少ない駐車場でもわかるくらいに、濡れて光っていた。全部を無視して、段取りも知らないふりをして、車に郁登が乗り込んだ瞬間、まるでそれを同意って捉えて、齧り付くようにキスをしていた。 「好きって言ったでしょ」 「……」 「だからあそこに、駅前に郁登が俺を捕まえに来てくれなかったら、それは失恋ってことじゃん」 「お、俺、まだ何も」  でも俺を探していた。知らない女と飲みに行くって、職員室で話しているのを聞いて、迎えに来てくれた。  あの時、驚いたような顔をしていただけだったけど、その心中を、今ならものすごく覗いてみたい。八時には来なかったから、色々悩んだのかもしれない。同じ学校に勤める教師同士なんだ、しかも同性、悩まずに突っ切れるほど若くはない。といっても、俺は突っ切っていたけど。 「じゃあ、これも断りにくいから?」 「……」 「俺が傷付くから、駅前にあんなジャージで立ってたの? コンパ後に俺が駅前に戻るかどうかなんてわかんなかったでしょ」  薄暗くても、車の運転席に覆い被さるように男が向かい合っている、くらいは外からわかるかもしれない。でも、普通なら突っ切らないところを、すでに突っ切っている俺は関係なしに迫れる。  どこにも郁登が逃げられないように。あの晩、アルコールのノリでした行為よりも、もっと言い訳をして逃げる道を完全に塞いでしまう。  郁登はさっきからずっと怒ったような顔をしていた。その顔が余計に俺を熱くさせているって、本人はわかってないんだろうか。職員室でずっと見せている、日向育ちで素直な笑顔じゃない。元カノのことで困っている苦笑いでもない。怒って、唇を尖らせて、それが一番、郁登の生の感情だって思った。その晒してくれる生の部分に、自分の身体の芯が痺れるくらいに感じてしまう。 「コンパ後、女子アナとラブホに行ってたらどうしてたの? お泊りだってありえるのに」 「!」 「女とセック」  言葉を言い終わらないうちに、シャツの胸倉を掴まれて、唇に噛み付かれた。本当の意味で噛み付かれて、チリッとした痛みの後に、今度はドクドクと血が染み出るような、鈍い痛みが広がる。 「んっ」  シャツを掴んだまま、角度を変えて、キスっていうよりも唇をぶつけるような感じ。カツカツと歯が当たる。今まで、女とキスするのに、歯が当たるのって下手クソな気がしていたのに、これは全然違う。歯が当たると、それだけで背筋がゾクゾクする。そのままその歯を立てて、噛み付かれてしまいたいとか思えてくる。 「すごい、はげしいキス」 「俺のこと好きとか言っておいて、なんで女子アナなんだよ! あのくらいの喧嘩で、他に乗り換えるとか! ふざけんな!」  いつもの郁登は素直でにっこりと笑っている。無邪気でスクスク育ったって、よくわかる感じだったのに。今の郁登は無邪気は無邪気なんだけど、いつもとは違っていた。 「元カノは? 断れないんじゃないの?」 「断ったよ! だから遅くなったんだろ! っていうか、だから、女子アナとラブホ!」 「行くわけないじゃん」  キッと睨みつけて、表情だけで「ホントかよ」って確かめている。なんだ、これ……このまま、森の中でもないのに、ここでして欲しいんだろうか。 「郁登って、いつもぶってんの?」 「!」  いつものスクスク育った風な郁登は良い子に見せているだけ。本当の郁登がこっちなんだとしたら、どうしよう……これ、ついさっきまで俺の中にいた郁登よりも、断然、より一層好みなんだけど。 「た、体育会系って、そういうもんなんだよ。断るのとかNGだし。飲み会とか強制参加だし。だからなんか苦手で、つい癖になってて」 「じゃあ、あの晩、俺としたのも?」 「は、はぁ? そんなわけないだろっ! いくら体育会系だからって、あんなこと強制されたら犯罪だろ!」  じゃあ、あの晩、一度も拒否の態度を取らなかったのは? 断るタイミングを俺は確かに与えなかったけど、でも強引っていうほど強引にはしていない。少しでも郁登が拒否の態度を取ったら止めるつもりはあったんだ。 「じゃあ……なんで?」 「そ、んなの……したかったからに決まってる、だろ」  真っ赤になりながら不貞腐れている郁登に、「あーあ」って心の中で呟いた。もうダメだ。完全に落ちた。完全に郁登に嵌ってしまったって、なんかひとりで観念していた。
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