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一章
「アキ兄ちゃん、待ってや! なんでそんな新婚さんみたいなことしてんの?」
それは結婚式を終え、初め夫婦として迎える夜。
関西有数の高級ホテルで挙式をした後、そのホテルの最上階のスイートルームで極上と言える男、須藤明彦に部屋に入った途端、急に抱き上げられ、佐橋麗、いやもう須藤麗だ。は、思わずツッコミを入れた。
「まさしく新婚さんだからだろ」
明彦が、何言ってんだこいつ。という顔をしているが、麗としては何やってんだお前。と言いたい状況だった。
鋭い切れ長の目に、後ろに纏められた黒髪。高い鼻筋に、薄い唇。
人一人を軽々と抱き上げてくる筋肉に見合った長い脚。
結婚式の夜にこんな素敵な男性に、こんなことをされたら、誰だってときめいてしまうだろう。
だが、麗はときめいている場合ではなかった。
見合いの時、何故結婚するのか自分で考えろと言われたから麗なりに考えたのだ。
結果、明彦にはなにか事情があり、信用できるお飾りの花嫁が必要なのだと確信したので、まさか手を出されそうになるだなんて思ってもみなかった。
麗はこの結婚で、自身の貞操が犯されることはないと高を括っていた、というより女として扱われることを想像もしていなかった。
「いや、あのさ、そこに山があるから登ってみようっていうチャレンジ精神は大事やと思うけど、そこに女がいるから抱いてみようっていうのはおかしいと思うねん」
そう、麗はとても、慌っていた。
「そうやって簡単に体の関係を結ぶなんて、おかしいよ、ニッポンの若者の貞操観念!いや、世界の若者の貞操観念!!」
なおも熱弁を振るおうとする麗に明彦は深く頷いた。
「なるほどな。確かに誰でも彼でもというのは俺も反対だ。ところで麗は今日俺の何になった?」
「……………………つ、つま?」
返事にたっぷりと時間を要したが、麗はついに観念して答えを言った。
「なら、俺たちの貞操観念はおかしくないだろ。夫が妻を抱く。どこにも問題はない」
そうしてまた一歩明彦がベッドに向かって進んだため麗は足をバタつかせた。
「あるあるあるある! お飾りやろ、私!」
「そんなわけないだろ」
「え、実用の妻なの?」
「生々しい言い方をするな」
明彦に睥睨され麗はむにゃむにゃと言い訳をした。
「いや、だってその……結婚相手、姉さんならともかく私やで? アキ兄ちゃんとは全っ然釣り合わへんし……」
「そのアキ兄ちゃんってのやめろ。俺はお前の兄じゃない」
明彦は心底嫌そうな顔をしている。呆れと怒りが表情から読み取れてしまい、麗は明彦に突き放されたような気がした。
「だって…」
兄みたいに思っている。優秀な姉の、優秀な親友。
麗なんかのことを可愛がってくれていた。
何時も姉に会いに来たついでに麗にもお菓子を持ってきてくれ、勉強を見てくれたり、からかわれたり、頭を撫でてくれたり、気にかけてくれていた。
明彦だって妹みたいに思ってくれていると、思い上がっていた。
心もとなくて、寂しくて、姉が遠くに行ってしまったのに続いて、明彦もいなくなってしまう気がして俯いた。
「俺はあのときお前に言ったはずだ。その狭すぎる眼中に俺を入れろと」
「勿論、私はちゃんとアキ兄ちゃんにお仕えするつもりで、家事とか頑張って……え?」
明彦と目があった。凄く近くで。
(あ、キスしてる。私。アキ兄ちゃんと、キスしてる)
なぜキスをされているのかわからず、麗の頭が混乱して動けない間に、ゆっくりと明彦の顔が離れ、見つめ合う。
「何、すんのよ……」
しどろもどろになりながら明彦を詰る。
だって、これは違う。
式場の中で、キリスト教徒でもないのに、白人の多分偉い片言なおじさんの前で形式的にした口づけとはまるで違う。
あれはあれでファーストキスだったのだが、それはそれとしてだ。
しかし、返事がもらえず麗は明彦の目を見た。
「ちょっと、アキ兄…、明彦さん?」
「いいか、麗がどういう認識でいようが、俺はちゃんと夫婦になるつもりだ。否やは聞かん。もう籍は入ってるからこっちのもんだ」
「え、あ、え?」
返事ができないでいると明彦がため息を吐いた。
「とはいえ今日のところは退いてやるから、ここで寝ろ。俺は向こうで寝る」
明彦にベッドに降ろされ、反駁する暇も与えてもらえず、明彦は続き部屋のソファへと行ってしまった。
「うそやろ…?」
一人では広すぎるキングサイズのベッドの上で、麗はポツンと一人、これからどうなるんだろうかと考えることしかできなかった。
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