第三章 清麗

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 十二月になり、冬華は退院した。その翌日、俺たちはデートをした。  都市部近郊にある動物園。以前行ったところよりも規模が大きく、珍しい動物もたくさんいる。日曜日の今日は特に来園者が多く、入園するのにも少し並ぶ必要があるくらいだった。  ここは、前々から冬華と行こうと約束していた場所のひとつだった。少しずつでいいから外の世界に慣れていって、ゆくゆくは大きな動物園にも行けるようにしようと話していた。  その目標が、今日あっさりと達成された。でもそれを覚えているのは、俺だけだ。  園内はどこに行っても家族連れで賑わっていた。みんなが平和を体現しているみたいに穏やかで、この世の幸福を集めた場所に居る人たちのような気さえした。動物たちの一挙一動に人々の笑顔が溢れるさまは、きっと世界を肯定するに足る風景だ。 「嬉しいよ。シュン」  ライオンの寝転がる草原の近くで、冬華はそう口にした。 「ここに連れてきてくれたことには、きみにとって大きな意味があるんだと思う。たぶんわたしが思っているよりもずっと。そうだよね?」  俺は無言で頷くことしかできなかった。なのにそれを見て、冬華は微笑む。 「わたしだって、きみが今思っているよりもずっと嬉しく思っているんだよ。その自信がある。きみがどんな言葉をかけて励ましてくれていたかを、覚えていなくてもその事実だけは残っているから」  冬華は空いているほうの手で胸を押さえて、そこに在る何かを感じ取ろうとする。そこになくてはならないと、その表情は確信に満ちていた。  ――この冬華だって、冬華だ。  空白を捨て去り、三年前へと意識を戻した彼女もまた、綾崎冬華なのだ。  悲観的になってはならない、と俺は静かに誓う。記憶がないからといって、何もかもが無に帰ったわけじゃない。現にこうして、冬華は自分に息づくものを感じている。それは空白の時間がなければ存在しえなかったもののはずだ。  繋いだ手を握りあって、俺たちは様々な動物たちを見て回った。日中の気温が急に冷え込み始めた影響か、半分冬眠に入りかけている動物もいた。日なたで座りながらうつらうつらとしているツキノワグマの姿は、大きな体躯に反しとても愛嬌があって笑いを誘った。  餌をやるイベントにも参加した。冬華は飼育員に褒められるほど上手く餌を与えていたけれど、俺は迫る動物の顔に終始腰が引けてしまっていた。そんな俺の姿を見て、けらけらと笑う冬華。心の底から楽しそうで、写真に収められなかったことが残念だった。  時間はあっという間に過ぎていく。こんなに速く感じるのは、いつぶりだろう。  東の空が暗くなり始めた頃、俺たちは入退場ゲート前の広場に着く。退院したばかりで体力が心もとないはずの冬華だったが、この時間になってもまだ元気そうに見えた。 「大丈夫か。無理してないか」 「大丈夫だよシュン。君は心配性だなあ」  このやりとりを今日一日で数えきれないほどした。大丈夫だと言われても安心できるわけがなくて、ときどき顔をじっと眺めては冬華に不服そうに唇を尖らされた。 「いきなり背丈が伸びたからといって、わたしを子供扱いするのはどうかと思うよ」 「子供みたいなものだろ。レッサーパンダの前で小さい子と一緒に騒いでたくせに」 「言ったなあ? きみだって餌やりで小学生に笑われていただろう」 「そこに交じってたやつに言われても何ともないな」 「なんだとお」  こんな言い争いさえ懐かしかった。軽口を言いあって、大抵それは冬華が言葉の代わりに手が出るところまで続く。虚弱な冬華の暴力なんてたかが知れているから、彼女の気が晴れるまで俺は甘んじて受けるのが決まりのようなものだった。  けれどこのときは、冬華が手を出すことはなかった。利き手を俺が握っていたからだ。 「冬華」  彼女の名前を呼ぶ。 「俺はやっぱり、君の傍に居たいよ」  手を繋げるこの距離が、夢みたいに心地よくて。  このまま変わらずに居られればいいのに――なんて、思ってしまっている。 「居たいなら、居たらいい。きみがそう望んでいるなら」  冬華は優しい。優しいからそんなことが言える。  でも、そうじゃないんだ。俺はまだ、きみの口から聞いていない言葉がある。 「教えてほしい。冬華は俺のこと、好きか?」  たった一言の覚悟を決めるのに、丸一日かかってしまった。応答次第で何もかもが潰えてしまう、その可能性を孕む問い。  返事は、なかった。  冬華は顔を赤らめるどころか、むしろ青ざめていく。 「やっぱり、わからないんだな」  沈黙が答えだった。  蝦夷川先輩の指摘から始まり、幾つかのヒントを繋ぎ合わせて、俺はひとつの推測に辿り着いた。引きこもりの冬華に出会ってから、それが消えるまでの時間。ずっとどこかで覚えていた違和感の正体がそれだった。  おそらく冬華は、好意という感情が理解できていない。 「言えないよ」  ようやく彼女が口を開いたのは、閉園三十分前のアナウンスが入ってからだった。 「わたしには言えない。だってわたしはなりそこないだから。三年前の自分に戻ろうとして、でも三年分の自分を消しきれなかった。こんなわたしが何をきみに伝えても、それは本物じゃない」 「本物かどうかなんて誰にもわからないよ」 「そうかもしれない。だけど、たとえこの気持ちが本物なんだとしても、これはわたしが消してしまった彼女が育てた気持ちだから。わたしが勝手に横取りしていいものじゃない」 「でもそれじゃあ、前には進めない」 「わかってる。わかってるの」  それはほとんど悲鳴のようで。 「わたしだってきみの言葉に応えたい。だけどわたしの中の彼女が邪魔をするんだ。あなたは一度、自分の好きなものから逃げたでしょう。また同じことを繰り返すのか、って」  冬華は泣いていた。俺の知らない、健やかな弱さだった。  三年前の奈々との対局を、この冬華は覚えていない。自分の首を妹弟子に差し出し、将棋を指さなくなったという経緯を、客観的な情報として知っている。  それを聞いて冬華はどう思っただろうか。俺ならきっと、自分を信じられなくなる。 「こんなことなら、戻らないほうが良かった」  一番耳にしたくなかった言葉を、冬華は口にした。  真っ白なままで良かったと、本人が言ってしまうことが俺にとって最大の絶望だった。冬華が選び取ったものが、彼女自身にとって後悔を生むものであってはならなかった。それは俺の信じていた冬華の強さを、完膚なきまで否定するものだから。  だとしても、それがなんだっていうんだ。  傷ついた冬華をこんなところで立ち止まらせるわけにはいかない。  今度は俺が、彼女を安心させる番だ。 「九月に行った動物園、覚えてるか?」  冬華は首を横に振った。構わず俺は続ける。 「あのとき君が言ったんだ。『シュンはわたしの答えだ』って。それでいいんじゃないか。俺が答えになるから、君はそれを傍で見ていてくれればいいんだ」  ああ、俺はまた、甘い言葉で冬華を穴の底から誘き出そうとしている。答えなんて俺が持っているはずはないのに。今だってまた、間違いを重ねようとしているのに。  だけど、冬華がどうしても自分の力で前を向けないのなら。  俺は何度だって、同じあやまちを繰り返す。 「染井俊が、綾崎冬華の答えになる」  背中を追いかけるだけの時間はもう終わり。  これからは隣を歩いていくと、そう決めた。 「だからもう、独りで思い悩まなくていいんだ」  手を引いて抱き寄せる。か細く震える、今にも壊れそうな冬華の身体。  怖いものはたくさんあるんだろう。自分自身がわからなくなって、怯えることだってあるんだろう。だけどそれは、失われるわけでも奪われるわけでもない。ただ、見えなくなっただけ。  夜の帳が俺たちを包んでも、ここに在る温もりが消えることがないように。  ひとつひとつ、証明していけばいい。  そのために俺は、春を届けてきたのだから。
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