第三章 清麗

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 奈々をキャンパスの外に送り出した後、講義室へ荷物を取りに戻る。自然科学の講義はとっくに終わっていて、荷物も放置されたままだった。さっさと回収して次の講義に出ようと鞄に手を伸ばしたとき、唐突に正面に現れた人影があった。  それは蝦夷川先輩だった。俺は無視して講義室を出る。 「ちょっとちょっとちょっと」 「気持ちわるいですよ先輩」 「何も言ってないのにひどくないか!?」  言うまでもない気がするが。電気もつけずに無人の部屋で待機していた時点で。  とはいえ予想外の遭遇だったことには違いない。俺は次の講義に行く気がするりと抜けていく感触を膝に感じて、天井を仰ぐ。立て続けに欠席するのは、これが初めてだ。  多少不真面目でもまあいいか、と思えるのは自分が大学生らしく順調に堕落していることの証だろうか。それとも、奈々の試みに加担する覚悟を決めたからだろうか。 「話したいことがあるんでしょう。そう顔に書いてますよ」  人望は薄くても人脈は広い。彼がさっきの騒動を耳にしていないはずがなかった。  だが蝦夷川先輩は曖昧な表情で、興味なさげな声を出す。 「なんか知らんが有名な女の子と仲良くしてたらしいな」 「情報がふわっふわすぎませんか」  又聞きの又聞きという感じだ。人望と人脈、どちらかのエラーが起きている。あるいは両方。 「何故だか最近周りの対応が塩でさ。詳しいことを誰にも聞けなかった」 「……大変ですね、なんか色々と」 「まあ今までよく保ったほうだな。化けの皮はいつか剥がれるんだ」 「執着とかはないんですか」 「元々虚飾だったもんに執着してもしょうがないだろ」  蝦夷川先輩は自分が築いてきたものにも本当にこだわりがないようだった。人との関係性を使い捨てのように思っているのかもしれない。  賛同はできない。けれど、大学に入って初めの頃は自分にもそういう面があったことも否定しきれない。どこか他人事というか、不必要なものだと感じていたのは確かだ。それはただ目を逸らしていただけで、考えてみれば無意味なはずもなかった。  空白にだって意味があることを、今の俺は知っている。ましてやそこに在る関係性を、蔑ろにしていいわけがない。 「クールタイム」  以前掛かってきた電話の一語句を思い出す。 「クールタイム中って言ってましたよね。それで自分の在り方とか、アイデンティティとかって」 「まあ、言ったけれども」 「結局それは時間が解決してくれたんですか?」  ぐ、と喉の奥が鳴るような音が聞こえた気がした。 「えっとな、なんつーか。あんだけ電話で恰好つけといて恥ずかしい限りなんだが」 「解決してないんですね」 「そんな簡単にすっきり整頓できるなら苦労はしねえよ」  蝦夷川先輩はいかにも言い訳らしく、歯切れが悪かった。  先輩の抱える欠落――著しく低い共感性。彼はそんな自分を変えたくて、より多くの他者と関わることでヒトとしての正しさを得ようとした。  それは一朝一夕に叶うことではないのだろう。何かが彼をそうさせたのか、または生まれつき共感性が乏しいのかはわからないけれど、おそらくは一生をかけて向き合わないといけないもの。ヒトの心を学ぶというのは、きっとそういうことだ。 「お前は確かに模範解答じゃなかった」  電話で聞いたあの台詞を、蝦夷川先輩は脈絡なく口にした。 「そっちの間違いには、もう気づいたのか?」 「はい。おかげさまで」  俺は勘違いをしていた。過程をなぞることに囚われて、その目的が何なのかを見失っていた。  果たしたい願いを自覚せずにもがく俺の滑稽さを、蝦夷川先輩は見抜いて指摘した。空回りを熟知した蝦夷川先輩だからこそ、そのことに気づいたのかもしれない。  だとすれば欠落は、必ずしも埋めなくてはならないものなのだろうか?  空白は空白のままで、意味があるのならば。 「俺は結局、彼女を大切にしてやれませんでした」  蝦夷川先輩に話してもしょうがない。そう思いながらも、動き出した口は止まらなかった。 「冬華があんなふうになったのは、それが必要だったからなんです。外の世界を遠ざけるようになったのも、自分の身を守るためだった。なのに俺はその経緯を聞こうともしなかった。俺にとっては、昔の冬華がすべてだったから」  白いままでいい。戻らなくたっていい。そんな言葉こそ、俺が今の冬華を見ていない証拠だった。本当に今のままでいいと思うのなら、あの場ではっきりと否定するべきだったのに。彼女に嫌われてでも、元に戻ろうとすることは危険だと諭さなければならなかった。  そうしなかったのは、俺が見失っていたからだ。迷い、立ち止まっていたからだ。 「もっとはっきり、言葉にしなきゃいけなかった。先輩の言うとおり、くだらない意地を張っている場合じゃなかった」  俺は冬華の空白も含めて、恋をしていた。  どうしてそのことに、もっと早く気がつけなかったのだろう。結果論だとわかっていても、悔やみきれないほどに、この痛みは深い。  蝦夷川先輩は耳を傾けるだけで、何も訊いてはこなかった。事情をわかったふりをする彼の習性が、このときばかりはありがたいと感じられた。そして俺が顔を上げるまで、物音ひとつ立てずに待っていてくれた。 「これは俺の勝手な推測だから、聞き流してくれればいいんだが」  そう前置きをして、彼は言う。 「さっき、外の世界を遠ざけるようになった、って言ったよな」 「ええ」 「確かに動物園で会ったときの冬華さんは、誰から見てもわかるくらい怯えた表情をしていた。最初は対人恐怖の類いだと思っていたんだが、しばらく見ていて俺は少し違うと感じた」 「違うって、何がです」 「怯える対象だよ。彼女はお前の傍から決して離れようとはしなかったが、俺たちが手洗いに行っている間は山瀬と二人で待っていただろう。コーラで濡れた俺を気遣ってハンカチを貸してくれたのも、些細だが違和感があった。初対面の相手にそれだけやれるなら、他人を怖れているといっても程度は知れているから」  思いもよらなかった視点からの洞察に、俺は言葉を失う。  いったいその小さな矛盾は、何を意味するのか。 「冬華さんが怖れていたのは、彼女自身なのかもしれない」  それを否定する根拠を、俺は提示することができなかった。
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