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最寄駅から徒歩十二分。下町風情の残る街並みの、ひときわ大きな日本家屋の前に俺たちは立っていた。風は冷たく空は鉛色で、南東から射す太陽の光も暗雲のフィルターに遮られている。充分な日光を浴びられない庭の枯木が、まるで機嫌を損ねているかのようにかさかさと枝を揺らしていた。
冬恵さんが玄関のチャイムを鳴らして、その三歩後ろで俺と冬華は並んで待つ。十秒と経たないうちに、玄関の戸は内側から開けられた。
「いらっしゃい。久しぶりだね、冬華」
現れたのは高級そうな着物と羽織を着た髭面の男性だった。俺は彼が、以前冬恵さんに見せられた写真にうつっていた人物だとすぐにわかる。
「ご無沙汰しています、師匠」
深く頭を下げた冬華。それに倣って俺もお辞儀をする。
この人が足立志紀八段。想像していたよりもずっと柔和で、穏やかな雰囲気を帯びていた。
彼は「外は寒かったろう」と言い、俺たちを屋敷の中に招き入れた。内部は外観と違ってリフォームがなされており、フローリングの廊下であったり白くつややかな壁であったりと、むしろ洋館のようでさえあった。
靴を脱いですぐ、冬華は冬恵さんに連れられて屋敷の奥へと入っていく。残された俺は、足立さんに案内されて客間に通されることになった。
現役のプロ棋士というだけあって、着物姿の彼は風格に満ちている。背中で語るというのはまさしくこういうのを言うのだろう。俺にはまだまだ手の届かない境地だ。
客間は畳の上にホットカーペットが敷かれていて、壁際に幅広のモニターが備え付けられていた。コードがやや多く繋がれているが、綺麗にまとめられていて煩雑とした印象は見受けられない。台の傍には折り畳みの将棋盤と駒入れが置かれていた。
「君のことは聞いているよ。染井俊くん」
厳格に響く声に、俺は思わず背筋を伸ばす。いくばくかの沈黙の後、男はあっさりと口元を緩めた。
「この台詞、言ってみたかったんだ」
急速に空気が弛緩する。この温度差はあまりにも心臓に悪い。
さすがは冬華と奈々の師匠と言うべきか、彼は年齢の割に子供っぽい笑みで俺に接してきた。それは多くの棋士を志す子供たちを見守ってきたからなのかもしれないし、逆に元からそういう人柄で、それを弟子たちが受け継いでいったのかもしれない。個人的な観点からいえば、おそらくは後者のように感じられた。
足立さんは上座に俺を座らせて、机の上に将棋盤を置いた。そしてその盤上に、駒入れから取り出したプラスチック製の駒を丁寧に並べていく。俺はそれを黙って見ていた。
「君たちが為そうとしていることは、理解しているつもりだよ」
静かに澄んだ声色で、足立さんは言った。
「あの子の傷は、心の深いところにある。そしてそこから一番近いところにあるのが、将棋への思いだ。それを見抜いたのが奈々だというのも、納得がいく」
「あなたは」
唾を飲んで、息を吐く。たったひと呼吸ですら、この人の前では満足にできない。
「冬華の師匠なんですよね。そして、血の繋がった大叔父でもある」
「そうだよ。あの子のことは孫のように思っている」
「だったらどうして、止めなかったんですか」
会ったら必ず問い詰めようと思っていた。彼女が限界を超えるまで、どうして救いの手を伸ばしてやらなかったのか。
足立さんは駒を並べる手を止めることなく話す。
「ここであの子を止めれば、もう棋界で生きていけなくなるとわかっていたからだ。この世界で勝負を続けたいのなら、多少のプレッシャーがあろうと跳ね除けられる強さがなくてはいけない」
「でも、冬華は十六歳でした。まだ子供です」
「関係ない。これは、あの子自身が決めたことだから」
その言葉を非難することなんて、できるはずがなかった。
俺も同じだ。冬華が選んだことを否定する権利なんて持ち合わせていない。足立さんがこう答えるのだって、容易に想像がついていた。
それでも尋ねたのは、冬華の師匠である彼の本心を確かめたかったからだ。
「あの頃のことを、今でも夢に見る」
足立さんは駒を並べ終えていた。しかし盤上から視線を移すことなく、そこに浮かぶ空気を見つめている。
「冬華は将棋が大好きだった。この八十一マスを通して相手と向き合うことを、心の底から楽しめる子だった。その愛着を、奪ってしまったのは我々大人だ」
人が、世界が、冬華から『好きと言える確信』を奪った。
それを失った冬華は凋落し、深く暗い穴の底へと沈んだ。眠りと称された長い空白の時間は、自分を苛んだ世界から身を隠すために必要だった。
そうだ、無駄なわけがない。
たとえこの世界がつらく厳しいものであったとしても、それをありのままに写し取るのが空白だ。真っ白であるというのはすなわち、どんな色よりも清く、うららかであるということなのだから。
俺は言う。
「あなたがその言葉どおり、冬華を大事に思っていることはよくわかりました。そして現状の冬華を見て、これ以上彼女の傷に触れるべきではないと仰りたいのもわかります。でも、だからこそ――」
「だからこそ!」
背後の襖が開く音に俺は振り向く。そこに現れたのは、紺色のセーラー服を着た奈々だった。
彼女は不遜にも敷居を踏み締め、荒れた息のまま不敵に言ってのける。
「返してもらいますよ、師匠。うちの姉弟子から奪ったものを、ぜんぶ!」
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