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「え、辞めるんすか」 「そうなんです、今月いっぱいで。お世話になりまして。ああその青い線、点線の方をクリックして下に引っ張ってですね」 「あっはい、いえ、こちらこそ……」  今オフィスには誰もいない。別部屋の総務には人がいるが、営業と制作はみな会議に行ってしまった。鞠花が書類作成を手伝っている、というか教えているのはプログラマの宮本で、今の会議に出ない技術部の面々は昼過ぎにしか来ないから取り残されているのだ。鞠花は派遣社員だから会議に出るようなことはない。 「延長するんだと思ってました」 「ああ、そうですねえ。そういうお話はいただいてたんですけど、やっぱり繁忙期だけの契約だったので次のところは探してて」 「あ、じゃあ結婚とかじゃなくて」 「違いますよー、彼氏もいないのに」 「そうなんすか……」  Excelの印刷設定にもたつく宮本の手付きはとてもぎこちない。彼とは背中合わせの席で、飲み物を取りに行く時などえらいスピードで打鍵しているのを見ているから初めは不思議に思ったが、曰くそれとこれとは別なのだそうだ。 「こういうのとかコピーとか教えてくれて、すげー助かりました」 「ほんとですか?そう言ってもらえると嬉しいです。お元気で、ってちょっと早いですけど」 「あの、高嶺さんも」 「ありがとうございます」  初めて話したときは本当に聞き取れないぐらいに声が小さくて、目も合わなかったことを思い出す。ずいぶん話してくれるようになったなと嬉しくて、それからちょっと彼が眩しかった。  社内で一人だけ突出して若い彼は今正社員なのだが、どういう経緯なのかは知らないが元引きこもりで、入って三年目なのにまだ二十三歳だという。猫背だと言われては背中をどやされ、根暗だと言われては飲み会に引きずられていく彼は周りから末っ子のようにかまわれていて、三十間近の色々ギリギリ派遣社員生活を送る鞠花にとってはなかなか複雑な存在だった。そのすらりと細い容姿も含めて。  きりがついて自分の席に向かい直し、頼まれていた量産ページの制作に戻る。ぎっと椅子が軋むのが毎度恥ずかしいのは、結局最後まで慣れなかった。  宮本は席を立ち、一人ぼっちになったオフィスには有線の音楽だけが流れている。ちょうど就職活動をしていた頃のヒット曲がかかって、わっと当時の思い出が蘇った。パンプスを履き潰して、高速バスに何度も何度も乗って、大変な思いをしたこと。第二志望の会社に内定して、希望通りの職種に胸を躍らせたこと。それから何年も続いた、成長はできたが失ったものが多すぎた過酷な仕事のこと。  宮本はこの曲を繰り返し聴いていた、希望に満ちて痩せていたあの頃の自分と同じぐらいの歳なのだ。そう思うと自分がやるせなかった。 「あの」 「はい?印刷ですか?」  いえと口ごもった彼はコンビニの袋をさげていて、自分の椅子に座ってチョコレートを二箱取り出した。期間限定のストロベリーフレーバーと、それから昨今すっかり定着した感のある濃くてほろ苦いもの。 「えっと……なんていうんすかねこれ。お疲れ様でしたっていうか」 「え、私にですか」 「です。すいません、どういうのが好きなのか分かんなかったんで、てか下のコンビニとかアレなんすけど」 「……ありがとうございます」  なんていい子なのだ。愛される理由が分かるよ宮本君。 「じゃあ苺の方を」 「あ、嫌いじゃなかったらこっちも」 「でも宮本君、あっすいません宮本さん、せっかく買ったのに」 「君でいいっす」  歳がかなり下なのもあって、時々周りにつられて宮本君と呼んでしまう。パートのお姉さまにも宮っちとか呼ばれているから、まあ彼も慣れているのだろう。 「俺あんま食べないんで……高嶺さん甘いものってか、チョコ好きですよね?」 「あー……まあはい、見たまんまですよ」 「あっいやあの、チョコ……よく食べてるんで」  そんなに頻繁だったかとやや恥じ入りつつ、ありがたく二つとも受け取った。ただ、鞠花はさほど甘いもの好きというわけではない。糖分を取ると頭が動くから、単純作業が多くてぼんやりしてしまいそうな作業中に一つ二つつまんでいるだけだ。たしかにぽっちゃりしている自覚はあるがこれは甘いもので太ったわけではなくてと心の中で言い訳をする。言い訳をしても面倒くさい女だという印象になるだけなので言わないが。 「……次の仕事って、同じような感じのやつすか」 「そうですね、もうちょっとデザイナー寄りですかね。半分在宅半分出社みたいな、次も派遣なんですけど」 「あー在宅」 「派遣って交通費出ないんですよ。会社によっては出してくれるみたいですけど、大体時給に込みで。正直ここは家から結構遠くて、交通費痛かったんですよね」 「え、そうなんすか。家どのへんなんですか」  まあもう会わなくなるのだしこれぐらいはいいかと、一応最寄りの隣にある大きな駅名を言った。それは遠いっすねと宮本は言い、こんな世間話をするのは考えてみれば初めてだなと感慨深い。派遣社員は無理なく働けるのがいいが、やはり社員との間には川が流れているのだ。深くて暗いとまでは言わないけれど。  何か言いたげにふっと宮本が目を合わせてきたとき、入口のドアが開いて会議を終えた人々が賑やかに戻ってきた。
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