9 きっとあなた いい日になる

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佐藤は、ここ、関西では怖いもの知らずで、 ずっと、思いを寄せていた茉由にも、その家 族にも、ちゃんと受け入れられ、 この会社に入ってから、頑張ってきた事が、 全て報われたと感じられたここは、とても 幸せに思う処だったが、 関西でのそんな生活が、半年を過ぎた頃、 茉由には、あちらこちらから、綻びが見 えてきた。 いくら佐藤が、ここで、強くなって… ―   佐藤は...、 茉由を愛しているだけじゃない。 関西で、一人で頑張る、 「母としての茉由」を、そして、 茉由だけじゃなく、     「茉由の家族を守りたい」   ― ―  佐藤は、茉由を 「女」として見るのではなく、 「けなげに頑張る母親」として、 その環境を守ろうとしていた  ― けれど、佐藤にはできないことも有る。 それは、「子供たちの学校」のこと、 せっかく入った、志望校は、親の仕事の都合 で引っ越しをしたぐらいでは、なかなか変え られない。 お兄ちゃんは、関東の学校へ、新幹線通学を していたのだが、徐々に、学校の行事も増え て、忙しくなってきた。 学校生活の中で、予定が有れば、登校時間も 早くなるし、また、遅くなる。 茉由も家族もそこまでは考えていなかった。 お兄ちゃんは、時に、関東の家へ、帰る事が 出てきた。段々、お兄ちゃんだけ、関西の家 に居ないようになる。そうなると、お兄ちゃ んにベッタリだった弟は、悲しいし、寂しい。 これは、いくら、茉由が子供を抱きしめられ るようになっても、やっぱり、今まで、お兄 ちゃんが確り守ってきたこの弟にとって、 この兄に代わる者はいない。たとえ、茉由で も、これは、カバーできなかった。 だから、このところ、お兄ちゃんの姿が見え ない事に、弟も情緒不安定になってきて、 独り、家の中で塞ぐことが多くなっていた。 その姿は、茉由の母も気になる事。でも、 原因が「お兄ちゃんの不在」ならば、それも、 茉由の母にはどうしようもない。 なんだか、佐藤が頑張って守ってきた茉由の 家は、ボンヤリと、暗がりが目立つ家になっ ていた。 それとは対照的に、茉由の職場は、 華やかなところ、 ここは、この会社の関西初出店の マンションギャラリー。 「一番目の」と、気合の入った、 先ずは、会社のブランドを示すた めの、西の玄関口、ターミナル駅 の近くに造られたもので、 関西の方々、ここへの御来場者は、 ここに来るだけで、 「特別な時間が過ごせる」 ここの、メインエントランスには、 高級サロンでも観られる、派手な ロココ調の幅広の「螺旋階段」が デン!と、造られており、 「どうぞお入りくださいませ」と、 お客様を迎える。 茉由は、賑やかな職場で働いているせいか、 家庭のそんな、暗がりも、大きな闇に感じる。 この、マンションギャラリーを創ったのは、 エリアマネージャーの、リーダーの高井。 そして、高井には、妻が居る。同じ会社の、 本社広報部に勤める亜弥だ。 亜弥は、ウサギみたいに、愛らしい女性。 ウサギの雌の性格は、個体でそれぞれだろう が、中には、 自分の巣穴(家)を、確り守ろうとする者、 春先には、ウキウキと浮足立つが、夏には、 その暑さから、身体を強くし、気性も荒くな る者、 可愛らしい姿の割には、実は頑固で、人に媚 びないところもある。 茉由が、先日、関東の、夫の勤務する病院へ 検査入院した時の見舞いに訪れた、亜弥夫婦 の関係は、強い高井に、亜弥は従う様子がみ られ、 さらに、亜弥自身も、自分が確りとあり、 媚びずに、けれども、高井の事を立てていた。 ― 「あのう?皆さん、如何、 なさったんですか?」 茉由は、投げやりに、呟いてみる。 夫は、この、茉由の問いかけを 無視した。 白衣姿のまま、高井夫婦に向か って、挨拶をした。 「初めまして、茉由の夫です。  ここで、外科の准教授をして  おります」 「初めまして、高井と申します。  茉由さんの、上司にあたる者です。  これは、妻です。茉由さんの、元、  上司でもあります。私たちは、  茉由さんと同じ会社の者です」 高井は、夫婦単位の挨拶で返した。 「今回は人間ドックと、会社に  は届け出がございましたので、  私たちは、心配は、  しておりませんでしたが、」 「夫婦共に、茉由さんとは、  お仕事を一緒にしております  ので、お見舞いにと 思いまして、顔を出させて いただきました」 高井はどんな時でも動じない。 「茉由さん、今日が、退院なんで  すね?なにか、お手伝いいたし  ましょうか?女手があった方が  善いのではと、夫から言われた  もので、くっ付いてきました。   大丈夫ですか?」 亜弥は、以前と同じように、 優しい気遣いを見せる。 夫は穏やかな表情の、ま、ま、 「茉由の上司の方ですか?  お忙しいのに有難うございます。  ましてや、ご夫婦で来ていただ  くなんて、茉由は、お世話にな   りっぱなしですね」 夫は恐縮しながら頭を掻いた。 こんな、しらじらしい、社交辞令 が続いた後で、夫は、急に話を変 えた。 「そうそう、確か、今回の茉由  の検査入院の一日目にも、  貴方はいらしてますよね、  病棟クラークに記録が  残っていました。とても、  部下想いでいらっしゃる」 「貴方は高井さんでしたか?  高井さん?  あ~、この、ペンの、   高井さんですか?」 茉由の夫は、白衣の胸ポケットか ら、高井のボールペンを取り出し た。 ペンは今、 高井と、 高井の妻の亜弥と、 茉由と、 茉由の夫の、 4人の、前に、ある。 「これに、貴方の名が、  刻まれています、高井さん」 茉由の夫は、 高井に、 ペンを、 渡した。 いや、 返した。 「あ~、  ありがとうございます。  探していました。   何故?あなたが?」 高井は、とぼける。 「はい、妻のドレッサーの  引き出しの中にありましたが、  私が、探し物をしている時に、  偶然、見つけてしまいまして」 「ほら、男性物でしたから、妻に  確認しようと、本日、自宅から  持ってきました。私たち夫婦は、   すれ違いが多く...」 「御覧の通り、本日も、私は勤務  中ですから、茉由は一人で自宅  へ帰るのですからね、持って来            たのです」 「すれ違いが多いのですか…」 高井は、茉由の夫の言葉を、 一部だけ、繰り返した。 そして、何も、全く、困惑などせ ずに、サラッと、夫に言い返す。 「そうでしたか、男性物のペンな  んて、ご自宅に在ったら、  御主人は、ご心配されますよね、    しかし、ご安心ください」 「御覧の通り、私には、こんなに  美しい、賢い妻がおりまして、  しかも、私たちは、結婚した  ばかり。私が、よそ見をする       わけがありません」 「こうして、本日も二人揃って、  茉由さんの所へ来ているのです      から、なぁ?亜弥?」 高井は亜弥の後ろに廻り、両腕で 亜弥を自分の前へ案内した。 「はい、御主人?ご心配は、いり  ません。それに、茉由さんにも  失礼ですよ!疑ったりしては!」 亜弥は、良くできた妻だ。こんな 時にも、優しく微笑みながら余裕 を見せつけた。 茉由だったら、こんな対応はでき ない。 「営業担当」と、「接客担当」の レベルの違いが、こうしたところ でも出るのだろうか、 夫は、このしたたかな夫婦の前で も、穏やかそうな表情を変えない。 こんな、お互いの探り合いを続け る会話の中でも、表情が変わらな いままなのは、茉由には少し、 冷たくも、感じる。 「そうでしたか、茉由は少し、  幼稚で、甘えん坊のところが  ありますからね、ご覧の通り、  仕事柄、私が忙しくしている  もので、寂しくって、よそ様に  甘えてはいないかと、少し、  心配でしたもので、これは、  失礼を致しました、奥様にも  失礼でしたね、こんな話は」 「あ~、嫌味のように聞こえる」 対峙する、この三人より少し離れ たところに居る茉由は、居た堪れ なくなってきた。茉由が、一言も 発していないのに、この三人は、 そんな事は何も気になどせずに、 自分の強さをアピールしているの が、イタイ。 「 いいえ、本日は、突然伺いまし  て、こちらこそ、失礼を致しま  した。お気遣い迄いただきまし  て、      恐れ入ります」 なんだか、亜弥さんと夫の、嫌味 の応酬みたいになっている…。 茉由が高井の方を見てみると、 さすがに、高井もこの亜弥の強さ にはタジタジなようだ。少し斜め 下に、目線を逸らしたままだった。 夫は、これは、本心だろうか、 亜弥の応援もあったせいか、 素直に、高井の言葉を信じたよう だった。 それに、茉由に対する気持ちだっ て、コンナコト、本当に思ってい るいのかどうかも分からない。 「放っておかれている」のだけは、  本当だけれど。 険悪とまではいかなくても、皆、 居心地は悪い雰囲気は漂っていた。 茉由が一人だけソファに座り、 皆は、立ちっぱなし、 高井が急に話に戻ってきた。 「さて、それでは、これで!  茉由さんも疲れてしまいますし、  ご主人も、お仕事中で、お忙し  いでしょうから、私たちは、  この辺で、失礼します」 「茉由君、ごきげんよう……」 高井は、ここでも、リーダーだっ た。スマートに、話を締めた。 「そうですね、茉由さん、また!」 二人は、去り際も美しく、茉由と 夫を残し、帰って行った。    ― 亜弥は、そんな女性。 だから、夫の高井が、異動させられた 今回の事では、 納得がいかないことも有った。 そう、高井は、亜弥を動かす。 亜弥は、自分がチーフを務めた、女性だけの マンションギャラリーの存在を否定され、高 井が責任を取らされた今回の、高井の人事異 動には、夫と、自分を否定された、と、感じ、 その事が許せなかった。 そして、それを本社で問題にした、人間が許 せない。その、思いが向けられたのが、GM。 亜弥は才女、女性らしい柔らかさ、品の良さ を持つ彼女は、同時に、気高さも持つ。 自分が優秀だから、本社広報部へのステップ アップがあったと信じていたが、 女性、ましてや、「女」とのことを利用して 成り上がったと思われては心外だった。 そんなケチをつけたのが、GMだと知った亜 弥は、徹底的に、GMの事を調べる。 すると、そのGMこそが、女性蔑視の張本人 だとの事を付き止めた。 だから、亜弥は、コンプライアンス推進室に、 GMを告発した。 亜弥は、ちゃんと調べてから動いた。 この内部告発については、 「公益通報者保護法」で、 会社内での通報者の保護が 図られるようになり、 会社内部の通報を保護するものだった、 だから、まだ味方の少ない、 本社に来たばかりの亜弥にも、 怖いものはない。 亜弥は、GMに仕掛けた。 それは、 GMを失脚させ、高井を本社へ入れる為に。 そう、高井が、亜弥を焚きつけた。 ― GM(部長)の悪行は、   皆が知ることだった。 「奈美恵さん、引き続き、  今度の木曜日から、品川に入れますか?」 奈美恵にとってココは、どんなにか境遇が恵 まれていなくて、居心地も全く良くないはず だし、 もしも、奈美恵以外の人でもこんな目にあっ てしまうなら、すぐにでも逃げ出す職場なの に、ココで奈美恵がなぜ働くのか、 怪訝に思う人や、その境遇に同情する人もい るのだが、奈美恵は派遣契約が更新されれば ココで働いていた。 派遣会社の担当者が全く意味のない、口先ば かりで心配した言葉を投げかけても、そんな ことも全く期待はしないし、どうにか良いよ うにしてくれるはずもないことも分かってい る。 ナンデそんなに奈美恵にあの人は執着するの だろう、いや、奈美恵にではなく、自分の恣 意行為?プライドだろうか? でも……、ココは……、たとえ他人からどん な助言があっても、その聴く耳が塞がれてし まって聴こえない。それほど、あまりにも、 特異な環境の職場だった。 あの部長……、こんなに周りを巻き込んで、 傍若無人に、皆がどうしようもないくらいに ……、 まぁ、誰にもどうしようもないから、 放置されているだけなのかもしれない。 奈美恵はココに営業事務として派遣されてか ら、初日には、もうすでに、部長からの 「圧」を感じていた。 勤務の間、事務所内では、まだあまり慣れて はいない事務処理のために、フロア中を忙し く廻る奈美恵の右側の背後に、190センチ 越えの大きな部長はベッタリとついていて、 奈美恵が質問したわけでもないのに、簡単な 事務作業でも、幼い小学生に教えるかのよう な口調でゆっくりと説明し、一緒に作業をす る。 奈美恵が昼休みに、別の階に設けられた休憩 室で休んでいても、なぜ分ったのか、たぶん、 部長のPCで、防犯カメラのモニターチェッ クをしているようで、 皆から離れて一人で居たり、時間をずらして 休憩室に一人で入った時、そのドアをノック もせずにいきなり入ってくる。 休まるはずの休憩中なのに、いつも観られて いる窮屈さは、奈美恵にだって息苦しく、苦 痛でしかない。 それに、事務作業の合間に、奈美恵がトイレ に行きたくなって席を離れ、二、三歩ほど、 そっと動き出すと、 「そろそろ、トイレにでも行こうかなぁ~」 と、この部長は自分のデスクから離れずに独 り言を呟いたりもする。 それからも、部長の管理であろうか?それと も束縛なのか、それは日に日にあからさまに なっていき、 奈美恵と他の男子社員との仕事上の会話にも、 部長はすぐに割って入るようになった。 「離れろ!」や「オイ! もう、イイだろう、 イイカゲンにしろ!」などと、 当事者だけではなく、他の人達もそれぞれデ スクに座り、複数の目も有る事務所でも、両 腕を横に広げて奈美恵と男子社員の間に入り、 そこに立ちはだかったり、 奈美恵が、さほど意識をせずに男子社員と軽 く会話をしているのを見つけると、決して見 過ごさず引き離そうと、周囲に響き渡るくら いにドタバタと怒鳴りながら割り込んでくる。 そうしたことが繰り返されれば、 ココの男子社員達には部長の横暴な行為は浸 透していき、 派遣されてからそんなに時が過ぎていないに もかかわらず、奈美恵には、もう一人の直属 の上司である、「主査」以外の男子社員達と の間には距離がしっかりとできていた。 そんな文字通りの、ココのボスである部長の 普段の様子は、広々としたワンフロアの事務 所内で200人ほどの部下を見渡せ、 事務所の隅々までに睨みが利かせることので きる、見晴らしが良いように一段高い場所に 配置された、黒光りのワイドサイズのデスク に「デン!」と構え、 そのデカイ身体にちょうど良く合わせられた、 イタリアレザーの黒革の立派な背もたれ椅子 からめったなことでは動かないし、 斜に構えたまま、広すぎるデスク上に唯一あ るこじんまりしたPCをたまに覗きこむくら いで、直属の部下の社員にでさえ、直接は仕 事の指示もしない。 そんな事は、主査の仕事なのだ。だから、部 長には奈美恵のような目新しい女にチョッカ イを出す時間はたっぷりある。 そして、そうした日々の茶番劇の、 まるで、その延長の完成形のように、部長席 からはかなり離れた下座に配置された奈美恵 の「右横のデスク」には、それが普通サイズ のデスクであるのに、 なんと、部長が並んで座るようになっていた のだ。そして、これが原因で、奈美恵は、勤 務中、どんどん無表情になっていく。 そうして、それが何日か続いてくると、奈美 恵はとうとう、勤務中身体を最小限に動かし、 頭、顔を動かさず伏し目がちに自分のデスク のPCしか見なくなってしまっていた。 なにせ、見たくもない部長が、常に右横に座 っているので、視界に入らないように顔をあ まり動かしたくないのだ。 だから、時々、対応しなければならないデス ク上の固定電話が鳴ると、最悪にも横の部長 との間に電話が置かれているので、そちらを 見なければならない時があるが、 それでも、頑なに部長の方は見ないようにし ていた。 けれども、そんなことは全く気にしない様に、 奈美恵がどんなにか嫌がっている態度を見せ ても、部長は奈美恵の横に何日も座り続けた。 そして、ギクシャクしたまま時間は過ぎてい く。この二人の並ぶデスクの足元の間には、 デスクのサイド引き出しがあるが、 デカイ部長は、普通サイズの椅子に座った体 勢では窮屈そうで、その脚を大きく開くので、 いつも左太腿でサイド引き出しを塞いで座っ ているが、 奈美恵は、その引き出しを開ける時も、部長 に何も声をかけることなく、頑丈そうな部長 の左太腿に「バン!」と音が出るほど、ワザ と勢いよくぶつけてみるが、 部長は「ふぅ~ぅん」と上目遣いで軽く流し ただけで何も謂わない。ただ、それを見た周 囲の人達からは、 たぶん、失礼な、身の程知らずと、冷たい視 線を向けられるのは奈美恵の方だと分かって いるが、でも、すっかり、自暴自棄になって いたのかもしれない。 どうせ、何をどうしたって、この部長が、自 分からこの席を離れて居なくなる、引くこと なんてないだろうし……。 奈美恵は、今日も一日が長く、息苦しい……。 部長が本来のデスクに居ないために、急な用 件で忙しそうに他人が探し回ろうが、部長席 の内線電話に本人が出ないことで呼び出し音 が鳴り続け、その機能が廻りにくくなってい ても、 部長は、自分の席には戻らなかった。 このような大きな会社では、本来、営業事務 の仕事をしている奈美恵に、「本部長」が 直接絡む仕事は何もないだろうし、 この時間の使い方には、いったい何の意味が あるのだろう……。奈美恵はそんなことも考 えだした。 それに……、奈美恵にとって、違和感がある のは、自分が部長の「標的」になったこと? いや、周りからそう観られることが、いつか らなのか、どうしてなのかが全く分からない ほど、 ココに入った時からスグにそうなっているこ とに、奈美恵だけが途惑いを感じているとの ことだ。そ・う・だ・と・す・る・と……、 たぶん、この部長は、奈美恵が知らない、 この会社に在籍している何十年もの間、今の ポジションにノ・ボ・リ・ツ・メ・ルまでで も、 何度も何度もこんなことを繰り返してきたの かもしれない。だからその所作?は、抜かり なく行われるのだろう。 実際に、こんな状態になっていても、部長か らは直接、奈美恵には何も告げられていない。 相変わらず、口数が少ないまま、奈美恵の横 に座っているだけだった。 でも、それが、もう、何日続いていたのか分 からないほどの、「ある日」に突然、 そう、少なくとも奈美恵には、その前兆にな る部長の変化は分からなかったが、部長は飽 きてきたのか、それとも、やはり、業務上の 支障が出始めたのか、ふと気づくと、 「この日」を境に奈美恵のデスクの右横から、  部長は、消えた。 けれど……、この日……。 「奈美恵さん、今日は残って下さい」 この日は、もう、週初めのバタバタも乗り切 っていたのに、そして、奈美恵には、やり残 しの仕事はさほどないはずなのに、 主査は穏やかに、ごく日常の当たり前の業務 連絡のように奈美恵に指示をする。 「奈美恵さんが受付けた、今日の案件につい て、君島に説明し、作業分担をして下さい」 「えっ、今日ですか?でも、私、明日も出勤  ですが……」 「あれ?そうなの?明日は休みじゃないの?」 「はい、明日は出ます」 そこへ、まだ、入社三年目の、腰に太めのチ ェーン付きのキーホルダーをブラブラさせた、 ちょっとヤンチャな、男子社員の君島が合流 する。 「明日も立て込んでいるから、今日で良いじ  ゃない?」 「でも、私は立て込んでいませんから……、  私、今までの仕事だと、  火、水の休みが多くて……、だから、  水曜日ナンテ、あまり、  忙しくしたくはないし……」 奈美恵も、まだ若手の君島には、ココでも気 の許せる、まるで同期入社の仲間のようにイ ジッタリもしてみる。 「それでも、俺は立て込んでいるから今日が  良いな~ 」 君島も、あの部長の事など気にならないよう に……、それとも、何か知っていて?  他の人とは違って、まるで無防備に、奈美恵 に接してくる。 「え~、でも、私は、明日も来るのに?」 「ハイハイ、分かった。奈美恵さん、やはり、  こ・れ・か・ら・に・して下さい」 上司の主査は、それでも、早く事を済ませた いのか、それとも、「やらなければいけない」 ことを変えたくはないのか、宥めるように奈 美恵の肩を押し、手ぶらな君島には指示書を 渡し、会議室に行くように伝えた。 「ふぅ~」 「ナンデ、今日なのよ!」と、不機嫌顔で、 せっかくソッコウ帰りをするために昼間から 半日かけてまとめた報告書を乱暴につかみ、 鼻息も荒かったが、 あきらめたのか大きくため息をつくと、その 書類を大事そうに胸に抱え直し、トボトボと 君島の後に続き、二人は上の階の会議室に入 っていった。 「じゃあ、今日お問い合わせのあった  案件について、君島さんにも報告  しますね、先方のご担当者は、結構  細かいところにまで指示をされる方で、  先ずは、プレゼンされていた  設計コンセプトについてですが……」 まだ何も進まない、話し始めて20分ほど 経った頃だろうか、急に君島のスマホが 鳴った。 「オマエ!そこで何をしているんだ、  スグにそこから出ろ!  何もしていないだろうな!  オマエは絶対に何もするなよ!  手を出したら、どうなるか      分かっているだろうな!」 それは奈美恵には聞き慣れない、たぶん初め てだったのかもしれない、ハンズフリーにし たスマホからの部長の怒鳴り声は、ボリュ ームがありすぎて音割れがするほど凄まじか った。 でも……、意外にも、君島は、それでも、 表情も変えずに淡々と話す。 「奈美恵さんの受けた案件についての話し合  いでして、これが終わらないと、私は、  明日は立て込んでおりますので、今日中に  段取りをしようかと……」 「イ・チ・イ・チ・ウ・ル・セ・イ・ナァ、  オマエ!ふざけるな!だったら、昼間や  れ!すぐにそこから出ろ!六時半を過ぎた  ら、ただじゃぁ済ませないぞ!すぐに戻っ  てこい!」 これは仕事上の指示なのか、それとも、私情 なのか。一方的に、しっかりと、奈美恵にも 聴かせるかのような大声で強く云いきって電 話は切られた。 「あぁ~、では、その様なことなので、戻り  ましょう……」 君島は、こんな電話にもさほど驚かない。け れども、さっきまでの話し方とは違い、すっ かり、事務的な話し方に変わっていた。 以前にも、ココではそんなことがあったのか、 そんな人が以前にも部長にはいたのか……。 「ハイ……」 ただ、奈美恵は、いったい「この残業は何だ ったのだろう?」と、不可思議だった。 実際、なにも、仕事は進まなかった。それに、 部長は自分ではなく、君島にかけてきた。 それでは奈美恵は、直接、部長に何も言えな い。なんだか、また、部長のパフォーマンス で、「一方的に聴かせる」ための、事務所か らの隔離のような気もした。 こんなに大声で怒鳴っているのだから、きっ と、部長のいるデスク周辺でも響き渡ってい るだろうし、 まだ仕事を続けていてそこに居る、部長の部 下たちにも聴こえているだろうし……。 ……これは、また、部長の、  「合理的なやり方」なのか…… 奈美恵は面倒くさい気持ちになりながらも少 し冷静に考える。主査が指示をした、この意 味のない残業は、やはり、部長が指示したの かもしれない……。 ……このまま、二人で揃ってデスクに戻った  ら、また、部長のパフォーマンスが続き、     派手に怒られるかもしれない……。 「私、一緒に戻った方が良いですか?」 「あぁ……、ここで別れましょう、  その方が良いですよね。」 「はい、私はこれで失礼します」 奈美恵は、当然、その場の対応に困るので、 周りとも目を合わせないように帰り支度を急 ぎ、なるべく早く出られるように最短距離を 考えて小走りでエントランスに向かった。 それなのに……、 奈美恵は、もうすぐ、外に逃げ出せるエント ランスの自動ドアの一歩手前で「ピタッ」と 立ち止まった。 その自動ドアを出た先の車寄せには、部長の 車がエンジンをかけたまま、見事に「六時半」 に合わせて横づけされていたのだ。 これでは、そのまま出れば、その先で待ち構 える部長の車に乗ることになってしまう。 ……どうしよう、さっき電話で云っていた   6時半って、この事だったんだぁ……  このまま部長の意のままに動かされるのも癪 に障り、奈美恵は、なんとかしなければと頭 をフル回転させ、身悶えしつつ、まるでピエ ロのように大げさなジェスチャーで、遠くか らでもわかるように、チェスターコートのポ ケットに手のひらをバタつかせながら突っ込 んだ。 「あれ? パス忘れた?イヤだ、せっかく 下りてきたのに、また、戻らなくちゃ……」 奈美恵は車の前に立つ部長にしっかりと聴こ えるように、ひとり言を、叫ぶかのような大 声で言いきり、またまた大げさに回れ右をし て、そこから素早く離れ、戻っていった…… そう、けっして油断をせずに、背中でも人の 気配に注意を払い、部長がついてきていない かを確認すると、暫く、エレベータ横の背 の高い立派な観葉植物の巨大な鉢の後ろに隠 れ、 ちょうど良いタイミングでエレベータの中 から出てきた、何も知らない、電車に乗るた めに駅に向かう人たちの群れに紛れた。 けっして、群れの中からはみ出さない。奈美 恵は、スマホをいじりながら、まるで、すぐ 先にあることでさえ、何事も気づかない振り をして、堂々と、見事にそこから脱出した。 それでも、やはり「ドキドキ」はまだおさま らず、急ぎ足のままホームへ進み、もう、あ の部長からはしっかりと離れていても、何も 考えられずに、 どこにも寄り道はせず、真っすぐに帰宅した。 「ねぇ、大変!部長が朝から不機嫌で、皆に、  アタリ散らしてるヨ!」 朝の忙しい時間、 女子更衣室には、まだ着替え中の人も何人 かが居るのに、ドアを思いっきり開けて 飛び込んできたかと思ったら、 とぼけた顔で、 どうして部長がそんなに不機嫌なのかが、 全く分からないけれど、とても大変な事なの! と云わんばかりに、 たまたまそこに居た、奈美恵に知らせて あげました! とのことのように話す彼女は、同じ営業事務 で、同時期に入った、一緒にあの部長の下で 働く乃里だ。なぜか、こんなカンジで、 確りと奈美恵には伝えられた。 ……私が原因なのかなぁ? ……、でも、  仕事は終わっていたんだから、  部長の車に乗  るか乗らないかは、  私が決めても良いんだよねぇ……。  ナンデ怒っているんだろう……。 これって……、 私が謝らなくちゃいけないのかなぁ……。 そんな、せっかくの有り難い情報? にも、 奈美恵はすぐには動かなかった。これだって、 部長がわざと自分の気持ちを彼女に「伝えさ せている」のかもしれないと感じたからだ。 まだ、ちゃんと状況が呑み込めていないのに 動けない。そう、下手に動くと、また、部長 がそれに乗っかってくるのが分かる。 だが、それでも、やはり、これは、 すんなりとは、終わらないようだ……。 奈美恵はその日、部長に挨拶もせずに、目を 合わせることもなく自分のデスクに座り、マ イペースに自分の仕事を始めてしまった。 けれど、意外にも、部長の方からは、何も聴 こえてこない。そのまま何事も、奈美恵の周 りで起こらないことに、少しホッ!としてい た昼を過ぎた頃、 再び、乃里はコピー室で作業をしている奈美 恵に近づいてきた。 「ねぇ、大変! 部長ったら、ホントはもう、  出掛けなければイケないのに、まだ、落と  し前がつかないことが有って、出られない  んだってぇ~、このままじゃあ~、  ゼッタイに! 気が済まないってぇ~」 ……エッ! ナニ? ソレッ。 でも、午前中、何となく部長の方を警戒して いたけれど、別に、険しい顔していなかった し、デスクで静かにしているようだったのに、 あれって、怒っているの?  もう~、この、「大変!」って聴くの、 ホント、イヤダァ……。 「そうなの? ナンデ、だろう……」 奈美恵は、わざわざ自分の仕事の手を止めて、 その事を伝えにここまでやって来た乃里に向 かって、何を言い返して良いか分からない。 部長は……、 自分がされたままでは、 終わらせないのか……。 …… ナ・ン・デ、…… この部長の面倒くさいところは、仕事以外の 私情な事でさえも、自らは云いに来ないとこ ろだ。これに奈美恵は困惑し、直接話そうと しない、一方的すぎる部長にいつももどかし さを感じる。 なぜそんなに腹を立てているのか、いったい、 いつまで怒っているのか、これでは、単純で 天然系の奈美恵には分からないのに、変な 「圧」だけ感じさせてくるし、 自分の気分ですら、わざわざ人を入れて伝え てくるのにも、ウ・ン・ザ・リだ! それでも、そんなに「デリケートな?」部長 に、いったい何が起きているのかを、せっか く、少しでも整理して考えている最中の奈美 恵に、そんな時間すらも与えないように、 こ・れ・で・も・かと、続けて、今度は、こ んな日でも、いつものように事務的な対応が スマートな主査が、これもわざわざコピー室 までやってきて、 「コピーが終わったら通路に出て、そのまま、 そこで待機するように」と、おそらく、これ も部長の……、指示を伝えた。 「ハイ……」 ……部長は、怒ってたんだぁ……、  また、部長が、何か、仕掛けてくる……。 部長は、自らは、すぐには動かない。まず、 周りの人間に指示を出して動かす。 そう、さっきの乃里の話しも、部長が 奈美恵にだけ伝えたい、私情の話し ですらも、わざわざ人を使って、 「必ず奈美恵の耳に入れるように」 と指示をする。 奈美恵には、今朝、出勤するとすぐに、 「部長が不機嫌だ」とのことが伝えられ、 それはしっかりとインプットされた。 だから、それにも増して、これから起こるこ とに、よりいっそう不安を感じながらも、 今から指示通りに「通路に立たされ」、 その動きを止められる。 奈美恵は大袈裟ではなく、絶望感から、この 後にきっと、部長が来ることが分かっていて も、もう、そこから「動けない」のだ。 しかも、このようなことだって、今までも何 度もあった。だから、ここで逃げたって、そ れで終わりになんてならないことも、奈美恵 には分かっているのだ。 これまでにも部長は、このようにお膳立ての ようなことをしていたのだが、奈美恵がその、 部長の考えた通りの動き方をしなければ、 こんなカンジのくだらないことですら、あの 部長は……、 たとえ役職がついていて、常に業務に忙しい 主査であっても、その人のプライドをも無視 したように、わざと奈美恵に見せるように、 そして、分からせるように、厳しく叱責する のだ。 奈美恵は、「自分が勝手なことをすれば、 他人が責められ迷惑をかける」とのこと、 そんな理不尽なことも、何度も経験させ られインプットされていた。 だから、その都度、精神的にも追い込まれ、 もう、マインドコントロールされたように、 奈美恵にとっても、仕事に関係ない、 こんなことでも、その「指示された通り」 に動いてしまうのだ。 そうして……、部長に命令された夫々が、 ちゃんと上手く指示通りにやったところで、 部長はゆっくりと、外に出された奈美恵に 近寄り、呆然と立ち尽くす奈美恵の真正面、 真ん前に壁のように立ち塞がり、 スマホを耳にあてたまま、不気味に黒光り した「激怒した野獣の目」で、威圧感を出し まくり、高い上から睨みつける。 そのまま、耳にスマホをあてているのは、 奈美恵の、少しの言い訳も許さないつもりな のか、ただ、瞬きもせず「ジ~ッ」と、黙っ たままで睨み続ける。 奈美恵は唇を噛みしめたまま声が出せない。 でも、訊きたい……。まだ、まだ、まだ……、 部長はスマホを耳にあてたまま黙って睨み 続ける……。今、奈美恵が声を出せば、その 通話中の邪魔になる。 その相手が誰なのかも判らないのに、声を出 せない。けれど、本当に何処かに繋がってい るんだろうか、 それとも、また、一方的に事を済ませたいの か……。 10分か、20分か、どのくらい時間が過ぎた のかは分からない。息苦しさを感じ出した奈 美恵は、身体の向きは変えないまま、少しだ け、部長から目を逸らし、伏し目がちに左へ 視線を向けると、 事務所の出入り口、ガラス張りの大きな扉の 向こう側では、「誰も通路に出さない」 ようにとの完璧な守備のため、見張り役に 立たされた社員の背中が見える。 その大きなクリアガラスの両開きの扉を挟ん で、仕事中の人たちからは、部長と奈美恵の 様子は丸見えだ。 まるで、「見せしめ」のように、奈美恵は睨み つける部長と向かい合ったまま皆の前にさら され、時間だけがただ過ぎていく……。 やっと、「長い刑」に服していた奈美恵の この 時間に終わりがきたのは、通路の端にある、 エレベータの扉がキチンと機械的な音を立 てて開き、中から、何も知らない普段通りの 業務をこなしている中年の男性社員が出てき た時だった。 その人から見たら、誰もいない通路で、部長 と奈美恵の二人が、勤務時間中にもかかわら ず、ただ見つめ合っているように見えただろ うが、 おそらくはここに長く勤めているのだろう、 この部長の事を奈美恵よりも知っているかの ようで、そんな二人には近寄らず、無反応の まま自分の所属する事務室に入っていった。 だが、そんな事でも、デリケートな部長はや はり気にするのか、ようやく部長の姿は通路 から消え、それと同時に、奈美恵は体中の力 が抜けて、やっと普通に呼吸ができた。 それほど、この部長は「厄介」で、奈美恵に は「面倒くさい」人間なのだ……。 それに……、こ・れ・で・も、これだけやら れても、まだ済まされない……。 部長のご機嫌を悪くした奈美恵は、自分のデ スクに戻ると、他人の何倍もの仕事が主査か ら云いつけられた。そして、「止めを刺した」 後のように、その時にはもう、ようやく部長 は出掛けたようだった。 ……部長は、どれだけ強靭な、   頑強な人間なのだろう…… 見せしめのように立たされ、仕事量も増やさ れ、奈美恵がどんなことでも部長に逆らえば、 容赦なく、ペナルティは課せられていくのだ。 奈美恵はあの時、それでも、分かっていたこ とはある。これにちゃんと対応しなければな らない……。 ガラス扉の向こう側に居る、 「あの人に見せる」ために…… だから、奈美恵は俯き、悲しそうな表情をし てみせた。これは、部長にはけっして効き目 がない「ポーズ」でも、 あの人に「傍観」させないといけないのだ。 そうでないと、 本当に部長の気が済まない…… 部長にとっては、こんな二人の関係がフェイ クだと奈美恵だって知っている。これは、他 の人に見せるための「部長の演出」だと…… 奈美恵は、その実年齢には見えないほど幼さ の残るアイドル顔で、スタイルも、若さをキ ープしたままだ。 どこかハーフ顔の、目鼻立ちのハッキリとし た、どのパーツも大きめな顔だし、長身のス レンダーだから、 事務服のスカートから伸びる脚はながく、 左の膝の外側にある5ミリほどのホクロは、 スカートの裾からチラチラ見え、動くと、 かなり、セクシーポイントになる。 まるでキリンのように優雅に歩く様は周囲の 者の視線が集まり、その動きを止めて足首か ら視線を添わせてみたくなる。 ましてや、ハイヒールを履くと、そこいらの 男どもよりもかなり背が高くなりより目立つ のだ。 だが、ココの部長は、そんな奈美恵よりもさ らに大型で、ボスゴリラのようにガッシリと していた。 朝礼の時には、前列から、かなり離れて立つ 奈美恵からは、挨拶をする部長の胸の辺りに、 きちんと整列した他の人の後頭部が並んで見 え、部長のご尊顔の前は何も遮られていない ので、 どんなに離れていても、やはり大きな奈美恵 と「目が合って」しまうほどだ。 そして、もしかしたら、学生時代に格闘技で もやっていたのかと思うくらいの体格と、悪 役の役者にスカウトされそうな、よその社会 の人のような強面の人物なので、 黙っていても、そこに居るだけで存在感は途 轍もなく大きい。なので、そんな二人が並ん で立つとそれはもう、かなりのオーラが周り に伝わる。 これは、この仕事ではきっとベストカップル なのだ。どこにいても目立つこの二人は、取 引先でも、揃って登場すると、初対面の相手 は気を呑まれるくらいの迫力になっている。 そう、ビジネスに、もってこいのパートナー でもある。 このことを賢い部長は分かっていて、きっと、 周囲にはそのように見える行動をとっている のかもしれない。 それが証拠に、もうすっかり公認の仲なのに、 この二人は一度も大人の関係では交わったこ とがないのだ。 だから、昨日のように、部長の車に奈美恵が 乗らなくても、おそらくは、この部長は気分 もさほど害してはいない。 それでも、大袈裟に行われたこの見せしめの ような振る舞いは、違う、「部長の狙い」も あるからなのだ。 この部長の下には、社員のほかに協力会社の 者や派遣技術者が三〇名ほどいて、その他に、 奈美恵を含めた女子の派遣社員が数名、シフ ト勤務で入っているのだが、 その中に、まったく癖がないストレートの、 腰まで伸びた艶やかな黒髪が美しく、まるで、 壊れやすく繊細な「陶器人形」のような小柄 な色白和美人がいる。 大人しく、控えめながら、柔らかなオーラを 出す彼女は、沙耶。年は奈美恵と同じくらい だ。でも、それ以外は派手な奈美恵とは共通 点は一つもない。とても、ものしずかな女性。 沙耶は、誰からも好かれるタイプで、 奈美恵も、そんな彼女に引き寄せられる。 部長の狙いは、きっとこの沙耶で、奈美恵に 対する仕打ちが、「それを隠すための芝居」 だったとすれば、 奈美恵が感じる、部長がいつも一方的て、 奈美恵からの返事を必要としていないことも、 部長が奈美恵に無表情で口数が少なく、気持 ちや思いが全然伝わってこないのも、この沙 耶の存在を前に持ってくると理解ができる。 今、沙耶がPCで書類を、作成している。 キーボードの上では、その小さな手、 か細く透明感のある、きめ細かな柔らかい 白い指が、優しく美しく、ピアノを弾く ように軽やかに動く。 その指を「ジ~ッ」と、見つめると、 同性の 奈美恵でもゾクゾクしてくる。 奈美恵に向かい合うデスクには、 その沙耶がいつも座っている。 部長が奈美恵の右横に座っていた時、あんな に「大人しかった」のは、沙耶を怖がらせな いように、そして、その近くで、少しでも永 い時間、眺めていたかったのかもしれない。 この頃はもう、ココの繁忙期はようやく抜け 出せていた…… そんなことも考えにあったのか、部長の思惑 は、どこまで計画的なのか…… 実はそれなりに、「頃合い」も視られていた 中で、奈美恵が部長の車に乗らなかった日、 あの日は「水曜日」だった…… そんなその週は、いつもとは違う、 「ムラ」が有るシフトで、 奈美恵の勤務は 月曜日、火曜日、水曜日、木曜日で、 沙耶の勤務は、 月曜日、水曜日、木曜日、金曜日だった。 水曜日に部長から逃げた奈美恵は、木曜日に は、部長の怒りを受け止めなければならない 日になった。けれども、奈美恵はその翌日か ら数日は連休の休みで、その休日には、部長 からの圧からは解放され、心身ともにリセッ トできる日になる。 そして、 火曜日を休んだ沙耶は、水曜日には彼女の仕 事が溜まっていて、残業になる可能性は高く、 夕方の奈美恵のドタバタを観ているだろうし、 木曜日にはその続きの修羅場を目の当たりに したのだから、沙耶の金曜日は…… きっと、彼女は、指示された通りに、目立つ こともなく、静かに、部長が待つ車に乗って しまう。 だからその為に、「水曜日」に、わざわざ奈美 恵を残業させて、君島にあのような電話をし、 「6時半」と、時間までインプットさせて、 部長は車で待っている。 その、激しい電話の内容から用心深くなって いる奈美恵は、当然、車に乗らない。 ……こうして、部長の考えた通りに、         全てが上手くいく…… 奈美恵は、こんなゴタゴタの、面倒くさい、 公私混同な、もう、何て言っても言い表せな いような、部長の極悪非道な振る舞いに、 奈美恵と共に「巻き込まれている」沙耶は、                        ― この二人は、派遣社員との、弱い立場の者だ ったので、これらの本部長の悪行を、表に出 すことはできなかったのだが、 さすがに、何人もの者たちが、この事実を 目の当たりにし、共に巻き込まれていた為、 一人一人が目立つことなく、この問題を表に できる、との事で、亜弥は、営業本部総意と して表に出すことを、説得した。 これは、さほど大変な事ではなかった。 営業部の皆が、同じ考えだった。 結局、高井に余計な事をしなければ 良かったのに、GMは、 自分で自分の首を絞めたことになる。 高井の revengeは成功した。 亜弥は、男性優位のこの会社で、 女性たちの為に頑張ってくれたと社内で 評判になり、そして、夫の復活に満足した。 今回の件では、法で守られた、自分も、 身の安泰を確信した。 関西へ異動後も、エリアマネージャーの、 リーダーの高井は、営業部のNumberⅡ だったために、GMが失脚すれば、 高井がその、positionになる。 ウサギを使って、一匹狼は、鷹狩が好きな、 ボスゴリラを倒した...... 高井は、営業本部、「本部長」になった。 ココのボスである部長の席は、広々としたワ ンフロアの事務所内で200人ほどの部下を 見渡せるところにあり、 事務所の隅々までに睨みが利かせることので きる、見晴らしが良いように一段高い場所に 配置された、黒光りのワイドサイズのデスク に「デン!」と構える、 そして、高井は、営業本部長として、茉由に 関東への人事異動の辞令を出す。 高井は、本社の、最上階の次のfloor、 営業本部の、営業本部長の席から、 茉由に電話する、 「ままごとはもう終わりだ戻ってこい!」 これに、学校の都合で先に関東に戻ったお兄 ちゃんから、会社の辞令が出て、茉由が関東 に戻ることを聴かされた夫は、ほくそ笑む、 「どうせ、あいつは、一人では何も  できないって、コトだろ…」 夫は、 高井が茉由を戻したとは知らない。 ただし、 前GMの、鷹狩の、鷹の佐藤は、 関西へ、そのまま残される。 佐藤は、後ろ盾の前GMを失脚させた、 そして、自分から茉由を取り上げた、 GM の、高井を、許せない。
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