アジの開きと自家製塩辛の後で

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「すごい。奇跡だよ。二人が出会っていたなんて」 「そうか……。宏樹って聞いたことあると思ったら、早川さんのことだったんだ」  青木は、しばらく放心した様子で写真集に目を落としていた。子供の泣き声が聞こえ、我に返ったように顔を上げると、静かな海を見つめた。 「この人が、友里の恋人?」 「だった人だよ、過去形よ。今の恋人は青木くんだもの」  笑う青木の表情には、さっき見つけたレトリバーのような影はなかった。 「今日はけじめをつけにきたの」  今まで見たことがないほど真剣な顔をして、青木が友里を見ていた。 「宏樹とは長く付き合っていたのに、あんまり会っていないの。彼は、常に世界中を飛び回っていたから。でも、寂しくはなかった。時々くれる手紙や電話が嬉しかった」  目を閉じると、宏樹の笑顔がまぶたの裏に浮かんだ。青木に話をするとき、もっと胸が苦しくなるかと思ったが、全く苦しくも辛くもなかった。 「三十五歳の誕生日に、電話をもらったの。でも、私は仕事中で出ることができなかった。誕生日おめでとうってメッセージが残っていて、その夜のニュースで事故を知った」  青木の顔が苦しそうに歪んだ。きっと、当時の友里の気持ちを想像しているのだろう。 「それからのことは、あんまり覚えてないの。いつの間にか宏樹が行方不明になって二年が経ってた。私の中の宏樹への思いは何も変わっていなかった。忘れるなんて、できなかった。だって、二年しか経っていないんだよ。忘れて新しい恋をするなんて考えられなかった。このまま一生宏樹だけを思って生きていこうって思っていた。でも、青木くんに会っちゃったの」  青木と出会い、いつもどこか後ろめたかった。自分だけが幸せになっていいのか、そう思っては気持ちにブレーキをかけようとしていた。 「会うたびに青木くんに惹かれて、どんどん好きになっていった。気づいたら、宏樹を思い出さなくなってた。だから」  友里はバッグから封筒の束を出した。 「今日はちゃんと宏樹への思いにけじめをつけようって思うの」 「それは?」  青木が重い表情で、友里の手の中の束を指差した。 「宏樹からもらった手紙なの。笑っちゃうでしょ、後生大事に取っておいたんだよ」 「それをどうするの」 「燃やすの」 「けじめのために?」 「そう。あとこれ」  友里はポケットから小さなリングを出し、手のひらに乗せた。 「宏樹はまだ行方不明なの。だからこれは海にいる宏樹に返そうと思う」  小さなルビーのついた指輪を友里は見つめた。胸の奥がギュッと掴まれたように痛かったが、知らない振りを決め込むことにした。今日けじめを付けると決めた。青木のために宏樹を忘れると覚悟を決めてきた。  友里は封筒の束を二つに分けて、片方をトマト缶の中に入れた。
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