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序章 至福の時間
よく晴れた休日のことである。
休みの日は家に引きこもるかバイトをしているかはたまた大学の課題に取り組んでいるかそんなところである。平凡の日々を送る僕にとってその日はいつもと違う過ごし方をしていた。おそらく一生に一度あるか無いかそんな過ごし方だ。
いや、そこまで言うと僕の人生がちっぽけなものであると勘違いさせられそうだから訂正しよう。滅多にないような過ごし方だ。
それは何かって?
それを説明する前に僕から一言言わせて頂きたい。
拝啓。
皆さん。青春していますか。
毎日楽しく過ごせていますか。
嫌なことを抱え込んでいませんか。
あるならいつもと違う過ごし方をしてみませんか。
ちなみに僕の今の過ごし方と言えば、人生で最も幸せです。
(…………………………)
失礼。突然何を言っているのか不審に思った方も多いだろう。一度謝罪を挟みつつ申し訳ない。まず、僕がどこの誰だが説明しなければならない。
僕の名前は犬飼駒助。都内の私立大学生物科に通う一回生だ。
物語を語る上で僕のフルネームが登場するのはこれっきりだと思ってほしい。
なので、覚える必要はないと思う。何故なら僕はある女性から『犬くん』と呼ばれているからだ。
そのように呼ばれる理由は僕が犬飼という名前であることと犬っぽい見た目をしていることからきている。生まれつき茶髪で柴犬のような毛並みをしているのも主な理由だ。これは認めざるを得ない。僕にとって犬とは切っても切れない関係である。
そして、僕のことを『犬くん』と呼ぶ女性の名は神楽坂鈴蘭。
同じ大学の生物科に通う二回生。僕の一つ年上の女性だ。神楽坂さんは大人っぽい女性であり、セミロングのストレートな黒髪がよく似合う人だ。その見た目はその辺のアイドルにも引けを取らない美人と言える。道で横切られたら思わず振り向いてしまうほど整った顔立ちをしている。誰もが認める美少女であると僕は思う。
だが、そんな神楽坂さんには少し問題がある。それは人間嫌いであるということ。女の子同士で群れるようなことはせず、一人で過ごすことを好む人である。とにかく誰かと一緒に過ごすことを嫌う為、人が多く集まる場所は近づかないようにしているそうだ。
人間は嫌いだが、反対に好きなものも存在する。それは動物好きということである。動物と触れ合う時だけ目が輝いている。動物のことになると普段クールな神楽坂さんの印象はまるで違う。それに動物に関するグッズも必ずどこかに身に付けているのだ。猫のストラップだったりウサギのTシャツだったりと可愛いものを好んでいる様子だ。本物の動物は種類問わず毛の生えているものはなんでも好きと公言している。そんな人間嫌いの動物好きという少し変わった女性だが、唯一気を許せる相手が僕である。人間嫌いの神楽坂さんが何故、気が許せるかと言えば僕を人間扱いしていないことである。名前も見た目も犬である僕は神楽坂さんからしたら犬と認識しているらしい。よって神楽坂さんの数少ない理解者である僕がいつも傍にいる訳だ。別に好きでも付き合っている訳でもない。どちらかと言えばビジネスパートナーのようなものである。
というのも神楽坂さんが独自で『神楽坂動物相談所』という組織を立ち上げたのだ。
今はまだ規模が小さいがこれから大きくして行くと神楽坂さんは意気込んでいる。僕はそのアシスタントをしている。大学を卒業したら正式に会社として経営するらしい。
活動内容は依頼者から動物に関する相談や悩みを引き受け解決するというものだ。ホームページ上で詳細を掲載しており、依頼者から依頼があれば直接出向きヒアリングして解決していく。内容にもよるが両者が納得すれば報酬も発生する。僕はあくまで神楽坂さんの助手という立ち回りで神楽坂さんのフォローや無茶を止めるのが主な役割だ。神楽坂さんの気分次第で僕の懐にも報酬が入ったり入らなかったりする。特に事務所を構えている訳ではないが、あるとすれば大学校内にある研究室だろうか。普段、一般の生徒は出入り禁止だが、何故か神楽坂さんの権限で利用できるようになっている。そこでは動物の生態の研究や動物実験をメインに行っており、そのデータを提出することが研究室を利用する条件だとされている。
と、まぁここまで語った上で僕は良いように神楽坂さんに利用されているように捉えられるかもしれないが、僕としては自ら望んで行っているに過ぎない。
確かに振り回されてウンザリすることもあるが、神楽坂さんの近くに居れるだけで幸せだ。神楽坂さんは少し変わったところが多々あるが、その見た目は好意を抱くほど美しい。美人が傍にいるだけで充分といったところだ。だが、いくら僕が神楽坂さんに好意を抱こうが決して叶わないことは知っている。何故なら神楽坂さんが動物に抱く感情はLOVEではなくlikeだからだ。当然、犬として僕を見ている神楽坂さんはlikeである。
そう、決して叶わぬ恋。絶対に。
一時期はそう思っていた。
だが、現在進行形で夢ではなく現実が僕の脳内を刺激していた。
「犬くん! ほら! こっち、こっち」
神楽坂さんは眩しい笑顔で僕の手を引く。
そう、これは夢でも妄想でもない。完全なデートである。
とある休日、僕は神楽坂さんに誘われ市内にある動物園に訪れていた。
普段、神楽坂さんは動物に触れ合えるように汚れてもいいラフな格好が一般的だが、この日は今まで見たことのない白のワンピースを着ている。いわゆる勝負服とやつだろうか。
それに普段、クールで冷静な神楽坂さんだが、今は笑顔で感情が溢れ出ている。動物に指を差しながらあーだこーだ言っている。これがデートではなくなんだというのだろうか。ついに神楽坂さんは僕を犬ではなく人間として男として見てくれたに違いない。ようやくここまでの関係に持っていけた。大きな一歩だ。いや、大出世を果たした。
僕は決心した。
このデートの最後に告白しようと。
神楽坂さんは年上としてリードしてくれたんだ。なら僕は男としてそれに応える必要がある。言ってやる。必ず告白するんだ。そして恋人同士になる。
そのように意気込み、僕は右拳を強く握り込む。
「犬くん。どうしたの? もしかして楽しくない?」
「そ、そんなことありません。めちゃくちゃ楽しいですよ」
「そう、なら良かった。じゃ、次行こっか」
「は、はい」
なんて幸せなんだろう。僕が神楽坂さんの隣を歩いている。
いや、普段から隣で歩いているが、この日は違う。デートとして歩いていることが特別だ。この日を一生の思い出になるように楽しまなきゃ。
一場面一秒を大切にしながら僕は神楽坂さんとのデートを楽しんだ。
言ってみれば僕にとってこれが人生最初のデートだ。今まで女性との交際どころかデートすらまともにしたことがない。だからこの日が一生の思い出になることは間違いないだろう。
「神楽坂さん、喉乾きませんか? 何か買って来てあげましょうか」
少しでも良いところを見せようと気遣う。こういう優しさが印象付けで大事だとどこかの本で見たことがある。
「あら、ありがとう。動き過ぎて喉乾いたところなのよ。じゃ、ウーロン茶をお願いできる?」
「はい! ただいま」
すぐさま僕は自販機に駆け寄った。
飲み物を買い、園内にあるベンチに腰掛ける神楽坂さんの元に急いで向かう。
それはまるで飼い主が投げたボールを拾ってくる飼い犬のように。
……いや、この例えは完全に僕が自ら犬と認めているみたいなので辞めておこう。
「あら、犬くん。まるで飼い主が投げたボールを拾ってくる飼い犬のように早かったわね」
忘れていた。例え僕が自ら犬と認めようが認めまいが神楽坂さんは僕を犬と認めていることに変わりはないということを僕は知っている。
デート中とはいえ、神楽坂さんとの犬コントは健在のようだ。
そう、普段二人でいる時は絶えず神楽坂さんは僕に対して犬を絡める言い方をする。別に嫌という訳ではないがなんとも複雑な気分になるのはいつものこと。今だけは犬ではなく人間扱いしてくれないだろうか。
「どうぞ。ウーロン茶です」
「ありがとう。頂くわ。偉いわね。よくできたね」
と、神楽坂さんは必要以上に僕の頭を撫でる。犬が芸を覚えた時の飼い主の反応と一緒だ。結局、完全な人間扱いは諦めた方がいいかもしれない。
喉を潤した神楽坂さんはある一点を見つめる。その先は園内マップの掲示板だ。
「どうかされましたか。神楽坂さん」
「いえ、なんでも。ところで犬くん。園内を一周回ったけど、どうだった?」
「どう、というのは?」
「何かお気に入りの動物は居たかな?」
「そうですね。僕は象が良いと思いました」
「ほう、それは何故かしら」
「だって象って動物園に来ないと見られないじゃないですか。それにあれだけの巨体にも関わらず大人しいし、凶暴でもないところが良いです。優しそうな顔が好印象です」
「なるほど。犬くん的には優しそうと。じゃ、犬くんはどこまで象のことを知っているのかな?」
「え? さぁ、鼻が長くて耳が大きいということしか……」
「ダメだな。犬くん。果たしてそれでお気に入りと言えるのかな。そんな君に私が象の正しい知識を教えてしんぜよう」
始まってしまった。神楽坂さんは無類の動物好きだ。哺乳類であればどんな動物でも知識が出てくる。普段から調べているのか元々知っているのか不明だが、神楽坂さんに動物について語らせたらもう止められない。でも、為にもなるし楽しい話なので知らずに僕は聞き耳を立ててしまうのがいつものことだ。
「まず象の印象とも言える長い鼻。なんとこれは全て筋肉で出来ており、骨が一切ないのよ」
「え? そうなんですか」
「考えてみなさい。骨があったらあんなに自由自在に曲がらないわよ」
「言われてみればそうですね」
「プロレスラーのチャンピオンが戦ったとしても絶対に象には勝てない。それぐらい象の鼻は力強いんだぞ」
「象の鼻って凄いんですね」
「でも、象が鼻を器用に使うのは生まれつきではなく特訓によって出来る技と言われているのよ」
「まぁ、人間も生まれてすぐ歩ける訳ではなく特訓によって歩きますしね」
「その通り。大体六年くらいの特訓みたいよ」
「六年? 長いですね」
「象の身体が大きいデメリットとして口が地面から離れていること。だから生きる為には鼻が使えないと生きていけない。屈むことも一苦労だから食べ物を取る為には鼻をうまく使うことが必要不可欠。だから象にとって鼻と言うのは大事なパーツなの」
「なるほど。じゃ、なんで耳が大きいんですか?」
「どこかの『耳がでっかくなっちゃった』の人と違い、ちゃんと耳が大きい理由はあるわよ。その理由が体温調節の為。身体が大きいと体温がこもりがち。そんな体温を外に発散する役割があの大きな耳。象の耳には血管が多くあり、それを冷やすことで体温を冷やしているの。巨体には巨体の苦労があるのよ。ほら、人間でもおデブさんは体温が高いからそれを逃がす為に口や鼻から二酸化炭素を放出する為に息遣いが荒いでしょ。一緒よ」
「人間の例えは少し違うような気がしますが、神楽坂さん。象に関してはよくそんなこと知っていますね」
「基本よ。基本。犬くんもそれくらいの知識を持って動物園に来なさい」
「いや、誰もそんな知識を持って動物園に来ないですよ」
「なんだ。違うのか。じゃ、何しに来ているのかしら」
神楽坂さんは真剣に頭を悩ませる。
普通は動物を見るだけで充分に楽しめる。だが、神楽坂さんの場合は実物の動物を見て自分の知識が正しいかどうか確かめに来ているように見える。
神楽坂さんの動物雑学を聞いたところでデートコースは終盤を迎えていた。
普通なら園内を一周すれば充分だが、僕たちは三周していた。さすがに飽きてくるが、神楽坂さんはそうでもないらしい。下手をすれば永遠に回っていられる勢いだ。僕としてはもう充分だが、神楽坂さんと横並びで歩いているだけで楽しい。
神楽坂さんとデートするには動物園が正解だった。気まずくならないし何より神楽坂さんは楽しそうに喋るからだ。
そんな時間は永遠には続かず、園内放送が流れた。
『園内にお越しの皆様。ご来園、誠にありがとうございます。当園は十七時をもちまして閉園とさせて頂きます。園内にいる皆様は退園のご準備をお願いします。繰り返します……』
腕時計を確認すると時刻は十六時三十分を示していた。
終わる。神楽坂さんとの楽しいデートが後、三十分で終わる。
僕は脳内で迷っていた。言え、神楽坂さんに気持ちを伝えるんだ。今、言えなきゃこの先ずっと言えずに終わる。そんなの嫌だ。心に決めろ。僕。言え。言うんだ。
「あ、なんだ。もう、こんな時間か。楽しい時ってどうしてこんなに早く過ぎ去るんだろう」
神楽坂さんは寂しそうに言った。これは待っている? 言ってもいい合図なのか。だったら行くしかない。
「か、神楽坂さん!」
園内の時計に目をやる神楽坂さんに向けて僕は言う。
「ん? どうしたの?」
「大切な話があります」
「大切な話?」
「今日じゃないと言えない大切な話です」
神楽坂さんは僕に向き合った。
聞く体制になっている。いざとなったら急に緊張してきた。
僕は今、どんな顔をしているだろうか。真っ赤になっていないだろうか。いや、おそらくなっている。それでも言うしかない。
喉まで気持ちが出かかっていたその時だった。
「実は私も犬くんに大切な話をしなくちゃいけないの」
「え?」
まさか神楽坂さんも? いや、待て、待て。こんな大事なことを女性に言わせるのか。女性からデートに誘ってもらって告白まで言わせてしまえば男としてそれは情けない。立場がなくなってしまう。そんな受け身でいいのか。いや、ダメに決まっている。ここは男の僕から言わなくちゃならない。
「実は……」と、神楽坂さんが言いかけた時である。
「待ってください。そういう話は僕に言わせて下さい」
慌てて僕は神楽坂さんの発言を止めに入る。
「そういう話? なんのこと?」
「へ? いや、その、なんと言いますか……」
僕が言葉に詰まっているその時である。
「実は……今日のデートは囮デートなのよ」
神楽坂さんは不意を付くように言った。
「囮デート?」
なに。囮デートとは初めて聞く。警察でよく言う囮捜査みたいな言い方ではないか。
ちょっと待て。と、なればこのデートは普通のデートではなく偽りデートなのでは。頭の中で必死に整理しようとするがどうしても受け入れがたいものであった。
「まぁ、細かい話は追々するとして大体状況は掴めたわ」
「神楽坂さん。それはどういうことですか? 僕には何が何だかさっぱりです」
「ごめんね。犬くん。騙すような真似をして。でも許してね」
神楽坂さんは片目だけ閉じて謝罪の言葉を述べる。その仕草に心のどこかで許してしまう自分がいた。僕はやっぱりお人好しなのだろうか。人がいいと言えば聞こえはいいが、単純と言われればその通りである。
僕の感情は置いといて。この展開は僕の中であることが予想できた。
「はぁ。もしかしてアレですか?」
と、毎度おなじみの展開に僕は頭を悩ませる。
「えぇ。アレよ。さて、始めるわよ。新たなビシネス」
神楽坂さんの目付きが変わった。変わったというよりもいつもの目付きに戻ったと言うべきか。僕がよく知っている神楽坂動物相談所として活動している時のあの眼だ。
至福の時間から一転、僕の中で悪い予感がしていた。
その悪い予感は見事に的中することになる。
今回の舞台はこの動物園である。
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