完結編I

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「……まさ、裕昌!」  はっと、我に返る。今、何か考え事をしていた。その内容はよくわからないけれど。 「……お兄ちゃん?」 「大丈夫?ぼーっとしてたみたいだけど……」  ランドセルを背負った兄の貴昌が心配そうに裕昌の顔を覗き込む。 「うん。大丈夫」  裕昌の言葉に安堵すると、貴昌は裕昌の手を引いて玄関へ連れ出す。 「行ってきまーす!」 「……行ってきます」  返事はない。父は既に会社へ向かい、母はいつのようにアトリエにでも籠っているのだろう。いつもの事なのに、何故か空虚な空間だと感じてしまう。  だが、なるほど、と気付いてしまった。いつもいるはずの愛猫の姿がない。 「ああ、そっか……つむぎ、死んじゃったんだっけ……」  小学校では、週に一回朝の集会が行われる。校長先生の挨拶、先生からの連絡事項や、行事の案内、生徒の表彰、委員会の連絡事項など。  月に一回は表彰されている、と言っても過言ではないほど前に呼び出される五十鈴貴昌は、校内で有名人だった。 「お前のお兄ちゃんすごいよなー!今度は絵のコンクールで最優秀賞って」 「この前は運動会の50m走で一位取ってたしね!」 「上の学年の人たちが言ってたんだけど、テストだと毎回100点らしいよ!?」  それ本当!?とクラスメイトに詰められ、裕昌は愛想笑いでうん、まあ。と返した。  お決まりのやりとり。  裕昌自身も絵なら賞を取ったことはあるが、それに触れられたことは一度もない。必ず隣には兄がいる。だから、きっと何かのまぐれだったんだと思っている。  テストだって、頑張って勉強して90点以上を取ったことも何回かある。自分の中では、頑張ったんだと思っていた。 「ねえ、今日テスト帰ってきたんだよ!」  貴昌が嬉しそうに両親に伝える。裕昌も父と母に、報告するのが楽しみだった。 「じゃーん、二教科とも100点!」  無邪気に二人の前にテストの結果を見せる貴昌。 「流石、いつも通りだな」 「相変わらず通常運転ねー。やるぅ」  これがいつも通り。これが、兄の当たり前。 「裕昌は?」  貴昌がこちらを振り返る。裕昌は、言葉を必死に選んで。 「あ……まだ、返ってきてない……」  隠した。 「あら。そうなの?私、裕昌のテストの結果全部知らないのよね」 「私も忙しくて見たことはないな。裕昌は好きにしたらいいと思うが」  当たり前だ。今までも、今も、これからも、ずっと隠してきていたのだから。  言えない。言えるわけがない。目の前には必ず、超えられない壁がある。  何をやっても、霞んでしまう。何をやっても、求められることはない。  苦しい。胸の奥が狭まる感覚。上手く息が吸えなくなって、浅い呼吸を繰り返す。 「裕昌?」  このあと、五十鈴裕昌は何事もなかったかのように、部屋に閉じこもる。  記憶ではそのはずだった。  無意識に、その場から逃げ出した。 「裕昌!?」  あの空間から逃げ出すように。いや、居場所を求めるように、裕昌は必死で走る。  これが自らの意思で行われているのだと、やっと自覚する。過去の記憶だというのに、あの空気に耐えることが出来なかった。  重苦しい空気でもなく、蔑んでいる空気でもなく、怒りに満ちた空気でもなく。  ただ、悪意の欠片もない何気ない言葉と、五十鈴家の日常しかなかった。  あれが当たり前で、あれが普通。 「あ。ここにいたんだね、裕昌」  平然としている貴昌が追い付き、歩み寄る。 「……っ、ぜん、ぶ……っ!」  ここが夢の世界であるならば、これくらいは。 「全部、あんたの所為だろ……っ!?」  自分は最低だ。 「あんたが天才で……それを何とも思ってないから……!俺は……!」  勝手に抱いた劣等感を、兄の所為にして。 「俺が、どれだけ苦しんだか知らないんだろ!?」  声が裏返るほどの叫びが、二人きりの公園に木霊する。  出来ることなら、兄にはもっと怒ってほしかった。兄の口癖は「裕昌はそれでいい」だった。 ああ、きっと諦められているんだ。幼い裕昌にはそう聞こえた。 自分はこれだけ努力しているんだから当たり前だ、裕昌だってやればもっとできるはず。そうやって兄として怒ってくれれば、少しは腹が立って、意地でも見返そうと粘ったかもしれない。  両親には、もっと褒めてほしかった。二人の口癖は「裕昌は好きにしたらいい」。兄にはそれなりに反応するのに、自分の時に返ってくるのはその答え。幼かった裕昌は気が付いてしまった。  いらないんだ。皆にとって自分はいらない存在なんだ。いや、居ても居なくても変わらない存在なんだ。 「それが、君の本音なんだね」  それまで黙っていた貴昌が裕昌に問う。裕昌は俯いたまま答えない。 「それが、君の本質なんだね」  何故、こんなにも腹立たしい気持ちになるのだろう。その通りだというのに。 「五十鈴裕昌。徒の人間。非凡な者達から生まれた本当の意味で平凡な存在。異能も与えられず、視えないし霊力も人並み程度」 「…………は……?」  待て。兄が何故、見鬼や霊力のことを知っている。 「でも、今の君はどうかな。……ああ、そうだったね。まだ君は『あの子達』と出会う前の『五十鈴貴昌の弟』だし。気付くこともできないかな」 「お前……兄じゃないな」  貴昌、のふりをした誰かが不敵な笑みを浮かべる。 「私のあどばいす、ちゃんと覚えててよね。今目の前にあるものを失くさないように」 「……サグメ」  貴昌だったものは、古代の装束を身に付けた鬼の少女に姿を変える。 「裕昌お兄ちゃん、そうやって自分を決めつけちゃってていいの?」 「……」 「誰の想いも聞いてないのに決めつけちゃったら、それこそ君は『弟』のままだよ?」  他の人の想い?  裕昌はそうサグメに問う。 「君の事、皆がどう思っているかだよ」 「……皆優しいって言ってくれる」  違う。優しいのではない。臆病なのだ。人に嫌われることも、人を嫌うことさえ忌む。 「うわー……自己肯定感ひっくー……」  サグメが二の句を告げることができないほどショックを受けている。 「もう自分を変えるのには遅すぎる。とっくにそういう時期は過ぎちゃったし」  裕昌は掌に爪を喰い込ませる。いや、自分なんて変われない。元々何もない自分には、何をやっても意味がなかった。  そんな二十数年だった。 「ま、いいならいいけどさ。果たしてそんな君を、『あの子』は好きでいてくれるかな?」 「……っ」  あの子。  黒い耳が見えた気がした。 「はっきり言ってあげるよ」    サグメの声音が僅かに低くなる。 「普段の君を『五十鈴裕昌』だとすると、今この時間、『五十鈴貴昌の弟』である君は大分自己中心的な考え方をしている。……いや、殻にこもりすぎて視野が狭すぎると言った方が正しいかな」  裕昌は押し黙る。 「顔を上げて周りを見て。誰がいるか確認して。彼らが君をどう思っているかちゃんと知って。それを信じる勇気を持つのは裕昌お兄ちゃん自身だよ。……そして、ちゃんと自分の言葉で聞いて、本音を話してごらん?あの子に望むことが沢山あるのなら、どれか一つでも話してみなよ」  そこまで話し終え、サグメは一つため息をついた。 「君たちが後回しにしてきた事なのに、なんで私がお世話しなきゃならないのかなー。あの黒猫も君も、自分のことは語りたがらないわ一人で抱え込むわ、じれったいことこの上ない」  合っている。サグメが語った言葉は全て自分に当てはまっていた。自分の事しか見れていなかった。自分が誰に支えられて、誰に助けられて今ここにいるのかを思い出す。 「健気なサグメちゃんからもう一つだけ助言」  ぴん、と人差し指を立てる。 「何も生み出せないなら、周りからもらっちゃえばいいんだよ」 「…………はあ」  いまいち納得していない声を上げる裕昌。この鬼は一体何を考えてこの場にいるのだろう。自分は悪戯の標的ではなかったのか?これではまるで。  刹那、胸を鋭い槍で貫かれたような痛みが襲った。その痛みに耐えきれず、その場で蹲る。 「……っ、はっ……」  何かに締め付けられているような感覚。握り潰されているような、そんな痛みが続く。 「まずい……。裕昌お兄ちゃん、今すぐ起きて、起きろ!」
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