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 目に飛び込んで来たのは、濃い茜色。  血にも似た禍々しい色をぼんやり眺めていた少女は、ふと瞬いて頬に手を添えた。小首を傾げる。  まるで突然叩き起こされたかの様に、直前までの行動が思い出せない。 「ええと、支倉穂乃香(はせくら ほのか)、英学園高等部二年生、十七歳」  それでも、自分が何者なのかは認識出来ている。うんうん、と頷いた拍子に、掛けていた眼鏡がずり落ちた。外して目を近付けると、レンズは無傷、淡い桃色のフレームに歪みも無い。 「コレが無いと何も見えませんからね」  眼鏡を掛け直してクリアになった視界を覆い尽くすのは、あの不吉な色。それが空だと分かった時、穂乃香は自分が仰向けに寝転がっている事に気付いた。  ゆっくり上体を起こす。頭部にも四肢にも痛みは感じないので、強打や負傷はしていないと思われた。  着ている紺色のブレザーが土で汚れているのと、左右の三つ編みのうち左側だけがヘアゴムの紛失で解けてしまっている他は、特に異常も見られない。 「取り合えず無事みたいですね」 「・・・・・・確認が済んだなら、そこを退いてくれ」  安堵する穂乃香のお尻の辺りで、何かがもぞもぞ動いた。唸る様な声がスカートの下から聞こえる。  聞き覚えのある声に視線を下げると、見知った少年が下敷きになっていた。穂乃香のブレザーと同色の制服を身に付けて地面に伏している少年を見て、目を丸くする。 「あら、あーくん」 「あーくん、って呼ぶな」 「・・・・・・じゃあ、五十嵐君。幾ら剣道部の練習が厳しくて疲れているからって、そんな所で寝たら風邪を引きますよ?」 「お前と言う奴は」 「冗談ですよ、そう怒らないで下さい」  穂乃香が『あーくん』と呼んだ少年は五十嵐秋人(いがらし あきと)、同い年の幼馴染みだった。  怒気を孕んだ声に追い立てられ、秋人の背中から降りる。革靴の下で、乾いた地面が、ざり、と鳴った。  ようやく体の自由を取り戻した秋人が、両手をついて立ち上がる。  彼の制服の生地に食い込んだ土を取り除こうと伸ばした穂乃香の右手は、しかし届く寸前に払い退けられた。  あ、と声を漏らす穂乃香から目を逸らして、秋人は荒っぽく制服を叩いて汚れを落とす。  行き先を失った手を引っ込め、穂乃香は俯いた。痛みが残る指先を、そっと包む。  子供の頃は、いつも繋いでいた手。大きさも、体温も、同じだと思っていた彼の掌は、年を経る毎に力強く、逞しさを増し――いつしか穂乃香を拒むようになった。  今みたいに。 「それにしても、ここは一体何処だ?」  秋人はぼやきながら散らばった通学鞄と部活用のスポーツバッグを拾い集め、状態を確かめていた。取り出した竹刀を軽く振り、破損していない事にほっとした表情を見せる。  その横顔から目を離せずにいると、彼がこちらを振り向いた。が、視線が交わったと思ったのも束の間、直ぐに背けられてしまう。  肩を落として周囲を見渡し、土がこびり付いた通学鞄を見付けた。歩み寄って開けると、酷く揺さぶられたのか中身はぐちゃぐちゃになっていたものの、紛失している物は無さそうだった。  使い慣れたペンケースやノートを手にすると、少しだけ気持ちが落ち着く。息を吐いて、ふと空を仰いだ。  空を染める色に変化は無い。雲も無く、風も感じられない。  不安を掻き立てられる光景に、嫌な感じが足下から這い上って来た。ひとつ身震いをして目を逸らす。  下ろした視線が、穂乃香を見詰めている秋人とぶつかった。途端に、秋人は慌てて体を反転させる。  彼は片方の掌を握り締めていた。穂乃香を振り返って口を開きかけ、再びばっちり目が合うと顔を背ける、それでいてちらちら窺い見る、と言う謎な行動を繰り返す。  何故、彼は自分を見ていたのか。穂乃香が不思議そうに首を捻る先で、不意に秋人が眉を顰めた。訝しげな声を漏らす。 「何だアレ?」  穂乃香も、秋人が見ているものを知ろうと身を乗り出す。  乾燥してひび割れた大地の先で、何かが動いていた。目を凝らすと、土埃を巻き上げながら近付いて来るものが見えた。それも、一つや二つではなく、複数。  荷物を担いで足早に戻って来た秋人が、穂乃香の右腕を掴んだ。高等部に進学してから一層、精悍さを増したと女子の間で評判になっている彼の顔は、険しさで歪んでいる。 「逃げるぞ」 「え?」 「早くっ!」  反応が鈍い穂乃香を叱りつけて、秋人が駆け出す。訳も分からないまま、穂乃香も通学鞄の取っ手を持ち直して地面を蹴った。  半ば引きずられながら走り始めて間もなく、足裏から地響きが伝わって来た。ちらりと背後へ目を遣ると、こちら目がけて押し寄せるものが見えた。  穂乃香は直ぐさま前へ向き直り、足の動きを速める。  彼我の距離は先程よりも明らかに縮まっていた。その為、追い掛けて来るものが何なのか、より鮮明に視認出来た。  ただ、目から入って来た情報がにわかには信じられなくて、一つ一つ確かめる様に反芻する。  多分、人間なのだろう、アレは。  老いも若きも、頭髪が寂しい者も白髪を振り乱す者も、男も女も入り交じっていた。容姿がばらばらな彼らには、しかし幾つかの共通項があった。  肌の色は病的なまでに白く水気を失い、  眼球は光がなく虚ろ、  身にまとう衣服はぼろぼろで、  砂利が混じる地面を裸足で走っている。  それらの特徴は、あるものを起想させた。  ――お化け屋敷とか、怪談特集とかで見かけますよね、ああいう格好。  そんな不気味な集団に追われている最中でありながら、穂乃香は危機感の乏しいマイペースさで分析する。更に思考を進めようとした穂乃香へ、秋人の苛立たしげな叱責が飛んだ。 「もっと速く!」 「は、はいっ!」
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