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 昼過ぎに目覚めて、一階に降りると母親の小言が始まる。  相変わらずうんざりする一日のはじまりだ。 「親不孝者が降りてきた」  ああ、すんませんね。 「ひどい寝癖。いい歳して、昼過ぎに家にいるのはあんたぐらいよ」  全国に不登校がどれだけいると思ってるんだ。 「なんとか言ったらどうなの? 痛たた、また頭痛。あんたが高校に行ってた時は頭痛なんてなかったのに」  頭痛まで俺のせいか。  すぐに二階に戻る。  食料さえ手に入れば一階に用はない。  カーテンを閉めっぱなしの薄暗い自分の部屋。  隙間からわずかな光が差し込んでいた。  鏡に映る左手。  三本しか指がない。  俺は目を閉じ、カーテンの隙間を閉じた。  きっかけは去年の事故だった。  バイト中、現場の人が運んでいたマンホールが落下した。  それが、しゃがんでいた俺の指に直撃した。  はめていた白手がみるみる赤く染まっていった。 「慰謝料ぐらい払えってんだ、クソが」  愚痴を吐き、沸々とした感情をマウスにぶつける。    指を失ったことで一番支障をきたしているのはタイピングだ。  一日中パソコンとにらめっこしている生活の俺にとって、これはかなり不便だ。  慣れた今となってはそこまで気にならないが。  それよりも、指を失った弊害は人間関係の方がはるかに深刻だったな。   俺の左手を見て、にやにやした顔を向けるやつら。   「マジで指を無くしたのかよ。気持ち悪い」 「学校では手袋をしてくれないか。指の切断面なんてグロくてみんな見たくないから」  もう顔も思い出せず黒いシルエットと化したクラスメイトたち。歪む唇の動きだけが妙に生き生きと動くだけの。  そして、その唇の向こう側に、立っている少女がいる。  眼鏡をかけた彼女は、俺が見ていることに気がつくと、数秒間目を合わせた(ように思っただけかもしれない。眼鏡の反射で見えなかったからだ)。  そして言ったのだ。 「さようなら」  柚寧(ゆずね)の別れの言葉は空気すら振動させずに、俺の心臓を突き刺した。
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