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〈 7 〉自由と感謝
猫の彼女はやはり滑るように歩いて玄関に向かう。本当にどこに住んでいるのだろう。公園だとは思わないがこの近所でなければ、帰れる時間ではない。
「帰れますか? もう日付もすっかり変わっていますが」
背中から聞くと、
「すぐそこです。でもそちらには行かないかもしれません」
僕を振り返って言ったあと、また微笑んでくれた。やはり真希のように少し俯くが、見る角度によって感じ方が違うのだとしたら、今の笑顔はどちらなのだろう。
「本当にありがとうございました」
彼女は玄関のところで、きっちりゆっくりと頭を下げてくれた。
「いえ、こちらこそ。紫陽花をありがとうございます」
そう答えて僕も軽く頭を下げると、
「今、公園は色とりどりに満開です」
彼女は今度は僕を見てにこりと笑ってくれた。
「本当に公園に住んでいらっしゃるように聞こえます」
僕もそう言って微笑んだ。正直なところ、どんな言葉をかければいいのかわからなかった。
「でもこんな時間です。せめて朝までここにいらっしゃいませんか?」
先日の雨の日とは少し違う感情が僕の中に芽生えていた。
彼女はまた意外そうな表情を浮かべたあと、もう一度にこりと微笑んでから
「ありがとうございます。でももう時間がなさそうです」
そう言った。そして少し俯く。
午前2時、断られても引き留めていいくらいの時間だとは思う。でもそれはしてはいけない気がしてしまうほど、彼女の様子は凛としていた。
「また遊びにきてください。本当にあなたとまた話したいです」
自分の胸の中にいろんな思いが渦巻いていることは感じる。でもそんな言葉しか声にすることができなかった。
「ありがとうございます。ではもしあの庭に猫がお邪魔することがあれば、ミルクを飲ませてあげてください」
彼女はそう言って、スタジオの奥のチェロがある窓の方を見る。
「そうですね、またチェロを聴いてもらいましょう」
彼女はもう一度俯いて笑ったように感じる。
「本当に優しい素敵な時間をいただきました。……あの……さっき言ったことを少し変更させていただいていいですか?」
顔を上げた彼女は、僕から一瞬視線を逸らしてからまたまっすぐに見つめてくる。
「はい、なんですか?」
彼女の表情は微笑んではいないけれど、とても柔らかだった。
「自由でいるために孤独でいると言いました。孤独と自由は背中合わせのひとつのものだと思っていました」
彼女が息を継いだ一瞬、僕は頷いた。
「それは誰の記憶にも残らないことだと思っていました」
僕は今度は頷かずに彼女の口元を見た。続きの言葉を待っていた。
「でもほんの少しでも、思い出してもらえたらどんなに幸せだろうかと思ってしまいました。私との時間だけではなくて」
彼女は恥ずかしそうにまた俯いてからそのまま言った。
「私のことも」
「もちろんです。きっと思い出します」
間髪をいれずに答えていた。僕は間違いなくこの人のことを思い出すだろう。こんな不思議な人のことを忘れるはずがない。
「ありがとうございます」
彼女はまた丁寧に頭をさげながらお礼を伝えてくれたあと、玄関のドアノブに手をかけた。
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