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〈 1 〉猫
「私、猫なんです」
目の前で、僕のいれたホットミルクが入ったマグカップを両手で包んで、僕のバスタオルを頭から被ってその女性は言った。
そして、カップの中のホットミルクをフーフーと吹いている。
猫舌……ってこと?
彼女はさっきからずっと、ホットミルクを吹いている。
びしょ濡れになっている髪や身体を拭くために渡したバスタオルを、頭から被ってしまったから、ちゃんと拭けていない髪の先からポツンと雫が落ちる。
「猫舌ってこと?」
彼女を見つめながら聞いてみる。
「はい、猫だから猫舌です」
彼女は多分バスタオルの下から、僕を見ているはず。目は合わなかったけれど。
「人間には幸せになるのがふさわしい人と、そうでない人がいます。それは多分前世の行いとか因縁が関係してると思います。私は人間になったら、きっと幸せになるのがふさわしくなかったので猫を選んだんだと思います」
どう見ても、人間の姿をしている彼女は涼しい声で言った。二十代なのかな、若く見える三十代かもしれない。
酷い雨のなか、うちのガレージのポーチで雨宿りをしていた彼女の言葉にただ戸惑った。多分、その手の病気なんだろう。でもだからと言って、この雨の中を追い出すわけにはいかない。見たところ凶器のようなものも持っていないようだ。
「雨、よく降りますね」
脈絡もなく言った。彼女が黙ったあと、漂う沈黙の空気に耐えられなかった。
「そうですね。このミルクをいただいたら、お暇しますので」
彼女はもう冷めたミルクを、それでもゆっくりと飲んだ。
雨の音は強くなっている。でも、さすがに泊めることは……、どこの誰ともわからないのだから。
僕の部屋は2階で、ここはスタジオなので泊める場所がないわけではない。でもかなり高額な機材もある。
彼女にはそんな僕の心が見えたのか見えないのかわからないけれど、カップの中のミルクをゆっくりと飲んだあと、珍しそうにスタジオの中を見まわした。
「美しい音楽がいつも聴こえていました。ここで生まれるんですね」
そう言ってまたミルクを口に運ぶ。
「ああ、はい。録音スタジオですので、いろんなミュージシャンの方々がここで奏でてくれます」
「ああ」彼女はそう頷いた。そしてカップの中のミルクをコクンと喉を鳴らして飲み干す。両手で包んでいたカップをゆっくりとテーブルに置いて、頭からかけていたバスタオルを外して畳んだ。
「ごちそう様でした。おかげさまであたたまりました」
そう言って立ち上がった。雨音は強くなっている。強くというか、ほとんどどしゃぶり。
彼女はペコリと頭を下げて出口の方に向かう。
「帰りますか? 帰る場所がわかりますか?」
ソファから立ち上がった僕に向かって彼女はクスっと笑った。
「野良なので帰る場所というのは特に。でもいつもいる場所には行けます。この先の公園ですから」
いやいや、浮浪者? でもそんな感じもないけど。
「電話番号とかなにか思い出しませんか?」
彼女はまたクスと笑う。
「猫は電話は持ちません」
「では飼い主の方の・・・」
そう言いかけて口を噤んだ。野良だってさっき言ってた。
「では、ありがとうございました」
頭を下げて彼女はドアに手をかけた。いやいや豪雨だし。
「あの、傘は?」
「使ったことはありません」
彼女はまたクスと笑って、ドアを開ける。
この豪雨、本物の猫でも雨宿りするぞ。
「待って!」
ドアの外に出て、歩き出そうとする彼女の腕を持った。
「この雨はさすがに。もう少しましになるまで、たいくつしのぎに付き合ってください」
彼女は不思議そうに僕を見たあと、今度は嬉しそうに微笑んだ。
「ミルクをもう一杯いただきたいと言ってもいいですか? とても美味しかったです」
そこまで言うと、きっちりと頭を下げて
「ありがとうございます」
と言ってくれる。そのやりとりの間に、僕もかなり濡れた。入口に雨除けはあるのに。彼女には、もう一度新しいバスタオルが必要だと思う。
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