最終楽章 クインテット

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 店員の声に見送られて沙羅はパティスリーKIKUCHI渋谷店を出た。彼女が抱える大きな袋にはクリスマスケーキの箱が入っている。 今日はクリスマスイブ。渋谷の街路樹はイルミネーションの電飾で飾られ、日が沈む頃に街は冬の宝石箱となる。 UN-SWAYEDの四人は明日のライブに備えて武道館で最終リハーサルの真っ最中。リハーサル終了予定は17時。 今夜は久々に五人揃って食卓が囲める。夕食のメニューは晴のリクエストですき焼きになった。クリスマスなのに……と思いつつ、すき焼きの材料は用意済みだ。  帰宅した沙羅はクリスマスケーキと共に購入したバウムクーヘンの包みを嬉々として開き、紅茶の準備に取り掛かる。 (ケーキは夜までお預けだけど、今はおやつの時間だもんね) 棚からアールグレイの茶葉の缶を取り出す時、同じ段にひっそり置かれたコーヒー豆の袋が目に留まった。未開封のそれはパッケージに珈琲専門店Edenの名前が刻まれている。 Edenのコーヒー豆の最後のストックだ。 (Eden(エデン)は閉店しちゃったんだよね。一度もお店に行けないままだったなぁ) 悠真や晴が訪れた新宿四谷にある珈琲専門店Edenはある出来事を境に閉店してしまった。  2週間前の東京は今の穏やかな時間が嘘のように混沌としていた。 後にマスコミが“東京最悪の3日間”と名付けた12月9日から11日の3日間。囚人の脱獄、射殺、刺傷事件、連続爆破……都内で相次ぐ異様な事件に人々は困惑し、混乱した。 騒動の序章となった12月9日は沙羅の大学も午後は休校になった。25日からのUN-SWAYEDのライブも中止が検討されていた。 事件から2週間が経過してもそれに関連したニュースがワイドショーを騒がせている。 あの時の東京は街も人も混沌の闇に怯えていた。Eden閉店の経緯も晴が知人の弁護士から仕入れた情報によれば3日間の事件に起因しているらしい。 (早河シリーズ最終幕【人形劇】より)  沙羅達が平和にクリスマスイブを迎えられるのも明日のUN-SWAYEDのライブが無事に開催できるのも、顔も名前も知らない誰かがどこかで戦ってくれたから。この世界はいつも、知らない誰かの頑張りで支えられている。 詳しい事情はわからないが、美月と隼人も事件の渦中にいたようだ。 おまけに一ノ瀬蓮と本庄玲夏までもが事件に巻き込まれ、一時は報道陣が芸能事務所の前に殺到していたと悠真がぼやいていた。 (美月ちゃんもあれから元気なかった。大変な目に遭ったって聞いたけど、美月ちゃんも隼人くんも無事で良かったよ)  沙羅の知らない世界の裏側をおそらく美月は知っている。たまに同い年の美月がぐんと大人びて見える時があるのは、美月が普通の20歳の女の子よりも特異な体験をしているからかもしれない。  バウムクーヘンが美味しい。幸せの、味がした。         *  チキンの代わりに牛肉と野菜たっぷりのすき焼きを平らげた五人は夕食後に登場したクリスマスケーキに顔を綻ばせた。 真っ白なケーキの上には大きくて赤いイチゴがデコレーションされ、飾りのサンタクロースが微笑んでいる。 ケーキの切り分け担当は星夜だ。ケーキは綺麗に五等分に分けられた。 『はい。沙羅にはイチゴたっぷりのところ』 「ありがとう!」 沙羅の分にはmerryX'masと綴られたチョコのプレートと他の皆よりもイチゴが多く載っている。 『悠真ー、そろそろワイン開けていい?』 『明日に影響出ない程度にしろよ』 『了解でーす』  悠真の許可を得て晴が赤ワインのコルクを抜いた。沙羅と海斗はコーヒー、晴と星夜は赤ワイン、悠真も何だかんだ言いながらも晴にワインを貰っていた。 『明日は誰が来るんだ? お前ら誰を招待した?』 グラスに二杯目のワインを注ぎながら晴が尋ねた。  2日間のライブにはUN-SWAYEDメンバーのプライベートな関係者限定で招待枠がある。チケット争奪戦をせずともライブの席が確保されているVIP達だ。 『俺は純夜と桜ちゃんが明日、美大の友達が2日目。あと明日は社長の招待で親父が来る』 「星夜のお父さんも来るの?」 『そうなんだよー。親父は関係者席だから沙羅も顔見たらテキトォーに挨拶しておいて。テキトォーでいいから』 沙羅の席はチケット販売のない関係者席。 UN-SWAYED総合プロデューサーの娘の立場にいる沙羅はここに席を割り当てられた。アリーナ席だと小柄な沙羅は人に埋もれてしまうだろうし、業界の人間しか集まらない関係者席は沙羅にとっては安心安全な場所だった。 『晴は律を呼んだんだろ?』 『律は2日目に来るってさ。明日は龍牙さんと黒龍の連中がアリーナ陣取るらしい。花音は沙羅と同じ関係者席』  半年前の律とのいざこざが解決した後、晴と律は関係を修復した。 わだかまりや疎遠の期間があっても互いに心を開いて話し合えば、いつの間にか笑顔で次に会う約束をしている。 それができるのが友達だろう。 「海斗は誰か招待したの?」 『俺の方は高校や大学の友達と同じ事務所の仲間』 「もしかして早坂北斗くんも来るっ?」 『北斗は明日来るけど……なんで沙羅がニヤニヤして嬉しそうなんだよ』 「いったーいっ!」  口をヘの字に曲げた海斗にデコピンの一撃を食らった沙羅は額を押さえて顔を伏せた。 ダイニングテーブルの席の並びは海斗と沙羅と星夜、向かいに晴と悠真が座っている。沙羅の左隣にいた星夜が彼女を抱き寄せ、海斗にデコピンされた額を優しくさすった。 『沙羅はドラマで北斗にハマったからなぁ。実際はドラマみたいな爽やか男子じゃないよ? 浮気相手なら北斗より俺がオススメ……いってぇー! 悠真っ! 今俺の脚蹴っただろ!』 『気のせいじゃないか?』 『嘘つけ! その無駄にながぁーいおみ足で俺の長すぎぃーる脚を蹴りましたよね? 悠真の方向から攻撃が飛んできたんですが!』 どさくさ紛れに沙羅を誘惑する星夜の脚をテーブルの下で蹴ったのはクールに澄ましている悠真だ。 今夜もこの家は賑やかで、はちゃめちゃで、騒がしい。  星夜と悠真の軽口をまあまあとなだめた晴は仕切り直してシャンパンを開けた。沙羅も少しだけグラスに注いでもらう。 『ロゼなら沙羅も飲みやすいだろ?』 「うん。ピンク色が可愛い!」 晴がセレクトしたシャンパンはピンク色のロゼ。ブリュットと呼ばれるさっぱりとした味わいのシャンパンだった。 『兄貴の招待が隼人と美月ちゃんだよな?』 『隼人と美月ちゃんが明日、2日目に高校の連中と、インディーズ時代に世話になったライブハウスのスタッフを呼んである。野田さんが来てくれるぞ』 『おおー! のっさん来るのか!』  野田さんこと、通称“のっさん”は下北沢のライブハウスに長年勤めているスタッフ。UN-SWAYEDがインディーズ時代、バンド名がLARMEだった頃に交流していた人だ。 野田さんや昔馴染みの人達の名前にはしゃぐ彼らは楽しそうで、話を聞いているだけで沙羅も楽しかった。 『でもさー、のっさんや友達が来てくれるのは嬉しいけど、オヤジーズがライブ観に来るのは気まずくない? 晴も親父来るよな?』 『ああ。2日目に妹と一緒にどっかの席にいる。あえて家族は招待しなかったのにチケット取りやがって。ライブは保護者参観日じゃないっつーの』 『海斗と悠真も父親参観日じゃん?』  星夜に話を振られると高園兄弟は揃って露骨に嫌な顔を見せた。高園兄弟の父親と言えば、伝説のロックバンドemperorのボーカルのKEIだ。 『後で絶対ダメ出しされる……』 『あのクソ親父はドSだからな……』 「圭さんってドSなの? 昔会ったきりだけど優しいおじさんのイメージだよ?」 沙羅が知っている高園圭は物腰が穏やかな紳士だった。二人の息子も雰囲気は父親によく似ている。 『いやいや、圭さんは顔も性格も悠真に超絶そっくり』 『声はどっちかと言うと海斗っぽい。でも圭さんがたまに見せるドSの遺伝子はそのまま悠真に受け継がれたよな』 『うちの親父はバンド名に“皇帝”って名付ける俺様野郎。まじに兄貴そっくり』 『お前らうるせぇぞ』 三人から口々に父親そっくりのレッテルを貼られた悠真は珍しく不貞腐れていた。  明日彼らが見せてくれる景色とそこで生まれる感情は未知のもの。 ワクワクとドキドキとソワソワのクリスマスイブの夜の色はミッドナイトブルー。東京は雪の気配は微塵もなく、凛として綺麗な冬空が広がっていた。
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