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リーハと厨房での夕食会と2人きりの宵の散歩は、これからの新しい生活を予感させて幸せな気持ちで一杯になった。
正式な結婚までは、まだもう少し時間が掛かりそうだが、リーハをミルレイへ連れて帰るという当初の目的は果たせそうだ。
ミルレイの情勢は今どうなっているか分からないが、本格的な冬場になれば、どの国も戦争を仕掛けてきたりはしなくなる。
あと少し持ち堪えれば、今の不穏な情勢も落ち着く筈だ。
そうしたら、ミルレイの砦をリーハに見せて回ることも出来るだろう。
そんなことを考えながら帰ってきたハインの客間の扉の前に、見知らぬ男が2人立っていた。
ティンはその前を軽く会釈して通り過ぎる。
今のティンは側近達の服を借りて一応変装中だ。
ハインを訪れている客のことは気になるが、この格好では訪ねる訳にもいかない。
与えられた部屋に戻って扉を開けると、椅子に足を組んで座るバルが目に入った。
「バル?」
驚いて問い返すと、バルが振り返ってにやりと笑い掛けてきた。
「お帰り、リーハちゃんとの逢瀬はどうだった? 楽しんで来たか?」
直球で揶揄って来るバルには、苦笑を返す。
「楽しんで来たと言えば満足か? というか、首尾は聞かないんだな?」
少しバツが悪くなって問い返すと、バルがまたにやりと笑った。
「そんなお忍び姿で機嫌良く帰って来たお前を見て、誰がうまく行かなかったと思うんだ? まあ、周囲に反対されようが、あのリーハちゃんなら振り切ってでもお前に付いて来ると思うけどな。」
そのバルの確信を持った言い方には、苦い気持ちになる。
「両公爵家の許可は取れたが、女帝陛下からはまだ正式に認める訳にはいかないと条件を出された。まあ、それは表向きの話しで女帝陛下自身はリーハと私の結婚には賛成してくれているようだ。」
オルケイア家の3人の話しを集約するとそういうことになるようだ。
「ふうん。それで? その条件とは?」
芝居がかった口調で言うバルに、ティンは肩を竦めてみせた。
「リーハをミルレイに連れて行く。リーハがミルレイで暮らして行けることを確かめる事。それから、父上がリーハとの婚約を認めれば良い。ということらしい。」
ふっと笑みを浮かべて返したティンに、バルが目を瞬かせた。
「何だ、それならもう条件は満たされてるじゃないか。ただ単に婚約を認めるのをちょっとだけ先延ばしにしただけってことか?」
「そのちょっとした時間が、女帝には必要なんだろうな。帝国貴族達を黙らせる為に。」
そう答えたティンに、バルはふうんとまた鼻を鳴らした。
「だけどだ。それではあの偉そうな王弟殿下を袖にする決定的な武器が無くなるな。リーハちゃんは、あいつみたいな強引な男は苦手だろ? ここできっぱり断り損ねてズルズルすると、ミルレイにとっても良くない。」
そのバルの分析に、ティンも頷き返す。
ヴァンサイスをどうするべきかは、ティンにとっても悩みどころだった。
恐らくリーハはきちんと断るつもりだろうが、相手が他国の王弟殿下では、公爵家としても余り強くは出られない。
女帝にしてもそうなのではないだろうか。
「うーん。お前が色良い返事を貰っていたら、殿下の部屋に直行で、怖い酒盛り会に水を挿しに行けたのにな。」
そのバルの発言に、ティンは目を瞬かせる。
「え? 殿下の元に訪れているのは、ヴァンサイス王弟殿下なのか?」
それにバルがにやりと笑う。
「何でも、少し酒を酌み交わして語り合いませんか、とかいうお誘いだったらしい。まあ、怖い舌戦が繰り広げられてるんだろうな。酒の席だからとかどんな発言が飛び交ってるか、怖い怖い。俺はティンが近付かないように部屋で待機してますってことで、逃げ出してきた。」
バルは怖いから逃げたと言いながら、ティンが婚約を認められていれば参戦しようとしていたのではないか、と恨めしげな目を向けておく。
「殿下にこれ以上ご迷惑をお掛けする訳にはいかないな。私が行ってきちんと話しをして来よう。私達の心は決まっていると。ついでに良好な隣人の関係を保ちたいと。」
「いやいや、それは火に油でしょ。売り言葉に買い言葉で、将軍閣下に開戦宣告でもされたら事だ。」
それもそうだが、ヴァンサイスがハインを訪ねてきた時点で、もうこの話しはここで終わるようなものでは無くなっているに違いない。
「私もミルレイ辺境伯息だ。いつまでも殿下の背中に隠れている訳にはいかない。着替えてから、顔を出して来る。」
そう答えたティンに、バルが肩を竦めてみせた。
「あーあ。俺は止めたのに。結局殿下の言う通りになったな。」
ぽそりと漏らしたバルに、ティンはふうと溜息を吐いた。
手早く着替えを済ませて、バルと共にハインの部屋へ向かうと、扉の前の廊下には、先程も見掛けた男達が立っていた。
ふと目が合うと、その内の1人が一歩前へ出てきた。
「ミルレイ辺境伯の養子になった、ティンカン・イムダイン殿とは、貴公か?」
そう声を掛けてきたのは、40歳前後に見えるガタイの良い男だ。
国許から連れて来たヴァンサイスの護衛なのかもしれない。
「その通りだが、そちらは?」
扉の前で足を止めて問い返すと、男がふっと笑った。
「ヴァンサイス殿下の護衛としてお供したワーティスト・ルンメイだ。」
身分は名乗らなかったが、ティ・トルティアクトルでは有名な軍人なのかもしれない。
「同じく護衛のフライト・リンゲルだ。」
もう1人は、ワーティストよりも少し若そうに見える。
「お初にお目に掛かる。不勉強で申し訳ないが、貴殿らは将軍閣下でもあらせられるヴァンサイス殿下の側近でいらっしゃるのだろうか?」
そう軽い挨拶と共に問い掛けたティンに、ワーティストがまたふっと笑った。
「両国の変わりなき友好の為にも、この名が貴国との境で知れ渡ることがなければ良いのですが。」
痛烈な嫌味に、ティンは苦笑を浮かべるしかない。
ミルレイ辺境伯息であるティンのことは、やはり相当意識されているようだ。
「成る程、お互いそうであることを祈りましょう。では、失礼します。」
そう流して扉に向かうティンを、ワーティストは止めなかった。
扉を叩いて入室許可を求めると、扉が内側から開く。
開けられた扉の向こうには、ヴァンサイスが立っていた。
ティンは、慌てて扉の傍に避ける。
丁度帰るところだったのだろうか。
「失礼致しました。」
言って深々と頭を下げると、ヴァンサイスが部屋を出て真っ直ぐティンに近寄って来る。
「見覚えがあると思えば。私の妻になるリーハ姫に身の程知らずにも言い寄っていた男か。」
高圧的な言葉が降って来るが、内心の苛立ちを隠して少しだけ上げた目線を下げておく。
どれ程腹が立とうとも、相手は隣国の王弟殿下だ。
失礼を働く訳にはいかない。
「リーハ姫も迂闊なことを。今日は一日私の求めには応じず、お前と会っていたようだな。」
ヴァンサイス側にはリーハとティンのことは筒抜けだったようだ。
確かに、リーハの部屋を訪ねるのにこそこそしていた訳ではない。
「失礼ながら。昨晩求婚した私に、リーハ姫は会う機会を下さいました。姫のお身内の方ともお話しをさせて頂きました。」
そこははっきりと強調しておくと、ヴァンサイスは目を細めてこちらを睨んでくる。
「女帝陛下は、昨日のことがあって公式の謁見を控えておられた。どう画策したのか知らないが、女帝陛下からの許可は貰っていない筈だ。」
そこは冷静に推し量るように返して来るヴァンサイスに、ティンも顔を上げてしっかりとそちらに目を合わせる。
「姫の叔父上からいくつかの条件を飲めば、婚約を認めると言付かっております。」
はっきりと答えたティンに、ヴァンサイスが眉を顰める。
「馬鹿な。そんなことが認められる筈がない。」
ふんと鼻を鳴らしてヴァンサイスが吐き捨てる。
「失礼ながら、殿下がリーハ姫に執着なさる理由は何です?」
最早腹を割ってその辺りは話さなければ、いつまで経っても話しは平行線だ。
ティンはついでに襟元に手を回して守護石の鎖を引き上げた。
緑色の巾着に入った守護石と2人のプレートの首飾りは相変わらず絡み合っている。
ヴァンサイスの視線は、はっきりとティンが持ち上げた鎖から下がる守護石に向けられた。
「王に代わりは利かないが、玉座の守護者は違う。入れ替わることが出来る。つまり、お前でなくても構わない。王の信を得た者ならば、すげ替えられるものなのだ。」
ヴァンサイスの発言にはやはりという苦い気持ちが湧く。
「つまり、彼女が琥珀の守護石に選ばれた主人だから、貴方は執着なさるということですか?」
そう確認を取るティンに、ヴァンサイスは顔を歪めて笑った。
「トゥンガーナ王の守護石は、長い年月流れ続けて王を待って力を蓄え続けた極上の秘宝だ。その使い途もご存知ない王にはきちんとした導き手が要る。」
「それを必要とするかどうかは、石の主人が決めるべきことでは? 玉座の守護者と仰ったが、玉座の主人の意思を顧みない守護者を果たして玉座の主は必要とするでしょうか?」
冷静に返すティンに、ヴァンサイスは鋭い目を向けて来る。
「・・・ならば、試してやろう。」
言うなりヴァンサイスはティンの持つ守護石に手を伸ばす。
躊躇いなく石の包まれた巾着を握ったヴァンサイスは、ティンが止める暇もなくそれをぐいっと引く。
と、どんな力を込めたのか、鎖が千切れて巾着がヴァンサイスに持っていかれる。
が、勢いが付きすぎたのか、巾着はヴァンサイスの手から溢れ落ちて勢いのままに地面に叩き付けられる。
「あ!」
そう声を上げたのは誰だろうか。
廊下の硬い床に乾いた音が響き渡る。
と共に、ミシミシと嫌な音が広がっていく。
そちらに目を向けたヴァンサイスがはっと目を見張る。
「で、殿下!」
口にしながらワーティストとフライトがそっと近付いてくる。
「まさか・・・」
呆然と呟くヴァンサイスが巾着が落ちている場所へ近付く。
その後を追うティンは、ハインと近衛騎士が部屋から出て来たのに気付いた。
「そんな馬鹿な・・・」
廊下にしゃがんで巾着の口を開いているヴァンサイスは呆然とした表情で固まっている。
覗き込んだティンは、開かれた巾着から覗く砕けた琥珀と緑柱石が目に入った。
そういえば、石を一緒にした時既にヒビが入ってしまっていたことを思い出した。
衝撃には弱くなっていたのだろう。
どうしたものかと迷っていたところで、ヴァンサイスにハインが近付いて行く。
「ヴァンサイス殿下。如何なさいましたか?」
そう問い掛けるハインの目がクセのある色を宿している。
わざとらしく覗き込んだハインが大袈裟に目を見張る。
「これは、少々お酒を過ごされましたか?」
酔っぱらっているという程には見えないヴァンサイスに対するこれは嫌味半分だろう。
「いや・・・」
流石のヴァンサイスも歯切れの悪い返しをする。
それ程、衝撃を受けたのだろう。
「ティンカン。その守護石はナイビア公爵から預かったのだったな?」
「はい。」
ハインの問いに、ティンは頷き返す。
「ファーバル、夜分に申し訳ないがとナイビア公爵をお呼びしてくれ。内々にこの話しにかたを付けることにしよう。」
ばっと振り返ったヴァンサイスが微妙な表情を浮かべているが、ハインの言葉を遮る理由が思い付かないようだ。
頭を下げて廊下を足早に歩いて行くバルを止めなかった。
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