《90》

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 立ち上がると次は、かよの顔が頭に浮かぶ。最期、陰腹を切り、血がじんわりと着物に滲み出てくる情景。鮮明に思い出す事ができる。虎松は胸を締めつけられた。そこで苦笑が込み上げてくる。我ながら、なんと不安定な心だ。わかっている。が、虎松の心は右へ左へ、時として、前へ後ろへぶれまくる。ここいらが本多忠勝と自分の違うところだと思う。いくさに熱くなる事はあるが本多忠勝の心はぶれない。胸の内に、何があっても揺るがぬ信念を一本持っているのだ。それでいて、平時の本多忠勝は茫洋さを感じさせるほど柔らかい。要は、深く、広い物をその身の内に持っている。ああなりたいと思っても中々なれない。虎松の内にある物は狭く、硬すぎるのだ。  闇の中に、ぽつりぽつりと篝が見えている。炎の揺れが幾分か虎松の心を落ち着かせていく。それでも、自分は未熟だと自責は止む事はなかった。 家康も自分を全然認めてくれていない。その証拠に、もう齢15を迎えたのにまだ元服を赦してくれないのだ。その上、虎松は正式な家臣ではなく、まだ家康の従者、という扱いだ。酒井忠次などは、虎松はまだ若いからな。これからだ、などと言って慰めてくれる。が、山県昌景の15の時はどうだったのか、本多忠勝の15の時はどうだったのか、と考えずにはいられない。 「俺に、赤い甲冑など着ける資格が本当にあるのか」 言って虎松は左の手甲を見つめた。左手を握っては開く事を繰り返す。 ふいに、闇に浮いていた篝が消えた。闇が濃くなった。どこからか微かに、鉄がぶつかる音が聞こえている。争闘の気配。近い。虎松は家康の陣小屋の板塀に背中をつけ、槍を構えた。眼を慣れさせる為、まばたきせずに闇を睨む。
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