置き傘さん

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傘を差すたびに思い出すことがある。 雨足が激しくなってきて、私は思わず空を見上げた。ほとんど暗い雲で埋めつくされている。その下で、ただひたすら、目的地に向かって歩いていた。 私はあの時のことを、高校生になった今でも忘れることが出来ない。今よりずっと前の話だ。 小学校の時のことである。 そこは家から近い公立の学校で、他の大多数となんら変わらない、平凡を絵に描いたような学校だった。当時流行っていたものといえば、都市伝説ぐらいだろう。確か、『置き傘さん』という話だった。 内容はこうだ。雨が降る日、閉校の時間に、裏門の傘立てを見ると、必ず赤い置き傘がある。それがヤバいらしい、みたいな、ふわふわした内容だった。誰が言い始めたのかも分からない、根も葉もない噂話だ。しかし、子供というのはそんな噂も簡単に信じてしまうものだ。当時の私がそうだったように、この都市伝説は、学年の誰もが興味を示し、心のどこかで恐れていた。 だから私は、佐藤君に「置き傘さんを見に行こう」と言われた時、大いに動揺したのだ。 雨の降る金曜日の放課後だった。委員会の仕事で遅くまで残っていた私は、湿気で息のつまりそうな廊下で一人、途方に暮れていた。 傘を持っていなかったのである。朝、ランドセルに入れたつもりが、どうやら忘れて来たらしい。朝が弱いせいであまり記憶がないが、入れなかったと思えばそんな気もした。 そこに話しかけてきたのが、佐藤君だった。彼は同じクラスではあったが、正直そこまで話したこともないし、席が近いわけでもなかった。ただ、彼は少し変わっているなあ、とそんな印象を持っていた。 頭が良く、テストも満点ばかりなのに、授業中は手を挙げようともしない。人気者の子から遊びに誘われてもすぐに断る。話しかけられても飄々とした態度で受け流す。まるで、クラスや教師の視線を避けているようだ。目立つのが嫌いなのかもしれない。とにかく、すごく大人しい子だった。 「傘忘れたの?」 「ああ、うん」 「貸してあげるよ」 そこまでの会話なら、恋愛小説にでもありそうな展開だった。が、佐藤君はそこで言った。 「その代わり、置き傘さんを見に行こうよ」 「え?」 私は思わず聞き返したが、もう一度同じ言葉が返ってきただけだった。 「やだよ。なんで見に行くの?」 別にこの後用事があった訳でもなかったが、私は渋って言った。理由は簡単。普通に怖かったからだ。確か、置き傘さんに触ると食い殺されてしまう、なんて噂もあった。 「でも、傘ないと帰れないだろ。いいの?俺、最後の一人だけど」 彼は恋愛小説にもならない言葉を連ねる。濡れて帰るのは嫌だった。親に怒られかねないし、教科書もびしょびしょになる。 「分かったよ」私は仕方なく了承した。「でも、見たらすぐに帰るからね」 「ああ。もちろん」 裏門の傘立てまで、廊下を歩いた。雨は止む様子もない。弾けるような雨音と、歩く度に聞こえる上靴のキュッとこすれる音だけが、耳に響いていた。 歩きながら少しだけ話したが、佐藤君の話は案外面白かった。クラスの人気者が彼と遊びたがる理由も何となく分かる気がする。彼の話は、勢いに任せたものではなく、内容だけで笑いを引き出す話ばかりで、少し感心したのを覚えている。 すぐに裏門についた。 佐藤君の話で少し上がっていた気分が、すごい勢いで転落する。薄暗く、人気のない裏門玄関は、怖い以外のなにものでもなかった。 「あ、あれじゃないか」 佐藤君は怖がる様子もなく指をさした。私も恐る恐るそちらを確認する。 「うわ」 心臓がドクンと跳ねるのが分かった。赤い置き傘がある。綺麗に畳まれていて、傘立ての隅っこにひっそりと存在していた。 「ほんとにあった」 私は小さい声でそう呟いた。傘から目を離せない。逸らそうとしても、吸い寄せられるようにして視線がそちらへ向いてしまう。 「名前とか書いてないのかな。ちょっと見てみようよ」 佐藤君はそんな私を気にもせず、ひょいと赤い傘を手に取った。右手はポケットに突っ込んだままで、気だるささえ感じさせる。 「名前は書いてないな。ほら」 そう言って、こちらに寄越してくる。私はほぼ反射的にその傘を振り払い、思いっきり後ろに飛び退いた。 「いや、いらないって。見たら帰るんでしょ。さっき言ってたじゃん」 「いいじゃん。一回触ってみろよ」 佐藤君は意地悪そうに笑って、出ている方の手でぐいと赤い傘を差し出す。 「いや、マジでいいって」私は泣きそうだった。 「おい、何してるんだ」 不意にいかつい声が聞こえて、私達はハッとそちらを見た。 体育の久保先生だった。 「もう閉校時刻だろう。何をしてるんだ。全く、こんな所でイチャつきおって」 「いや、イチャついてないですけど」 「先生こそ、どうしてここに?」 佐藤君が突然良い子面になる。思わずそれを睨んだ。私からしたら、その笑顔はもう偽物にしか見えないぞ。 「忘れ物を取りに来たんだ。ほら、早く帰りなさい。あと佐藤、ポケットから手は出しなさい」 佐藤君は仕方なさそうに傘を戻した。私はほっと息をつく。傘に食べられるなんて、絶対に嫌だった。 その後、佐藤君に折りたたみ傘を一本借りた。彼の妹のものらしい。月曜日に学校で返してくれとのことだった。彼の家は学校のすぐ近くで、私より先に家につく。私は彼の家の前でお礼を言って、その場を後にした。 折りたたみ傘を失くした、と母には結局怒られた。どうやら忘れたのではなく、学校のどこかに落としていたらしい。もう少し探しておけば良かった。そうすれば、あんな怖い思いをせずに済んだし、母にも怒られなかったというのに。 翌日、愚痴と一緒に学校での出来事を話すと、姉は面白がってばかりで慰めてもくれなかった。 噂好きの姉は、私と違って友人もたくさんおり、明るい性格で色んな人から好かれている。私とはタイプが違うからか、今まで期待通りに動いてくれたことはほぼほぼなかった。だから最早こんなことは慣れっこで、私は二人で買い物に行く途中、潔く都市伝説のことを話してやった。 「知らなかった。そんなのがあるんだ」 姉は怖がる様子もなく、ただ好奇心に満ちた表情で言う。「で、それがその傘?」 「そんな訳ないでしょ。持って帰ってくるわけないじゃん。てかこれ水色だし」 私は何を馬鹿なことを、と手に持った折りたたみ傘を見た。昨日、佐藤君に借りたものだ。スーパーへ向かう途中に彼の家の前を通るので、ついでに返してこようと思ったのだ。佐藤君は月曜日に返して、と言っていたが、二日早くなるだけだし、別に今日でもいいだろう。それに、彼に傘を借りたと友人にバレるのも、なんだか嫌だった。 しばらく歩くと、小さな一軒家が見えてくる。表札に、和風の文字で佐藤と書かれていた。 インターフォンを押すと、廊下を歩く音が聞こえ、ドアが開いた。「はい。どちら様で」 「昨日、佐藤君に傘を借りたので、返しに来ました」 「あら、わざわざありがとう」 佐藤君の母親らしい。気の弱そうな顔をした中年の女性だった。 「妹さんに、お礼を伝えておいて貰えますか」 そう言って折りたたみ傘を差し出すと、女性は突然困惑したように私達を見た。 「妹?うちの子は一人っ子ですよ」 「え?」 「それにこの傘、家で見たことがないけど」 姉が不思議そうに視線を寄こす。私は、 「でも、これはほんとに昨日借りたので」 と、傘を押し付け、「ありがとうございました」とだけ言って、走り逃げるしかなかった。 「ちょっと」姉が慌てて女性に頭を下げ、私を追いかける。 何が何だか分からなかった。ただ、一刻も早く、その場から離れたいと思った。 月曜日。また雨が降っていた。 湿気でベタついた教室で、無意識に彼の姿を追う。佐藤君は、すました顔で頬杖をつき、右手に持った鉛筆をスラスラと動かしている。私は先日の出来事で、佐藤君のことが気になって仕方がなかった。もちろん恋愛的な意味ではない。不審だったのだ。 なぜ彼は、妹がいるなどと嘘をついたのだろう。それにあの折りたたみ傘も見覚えがない、と彼の母親が言っていた。 わざわざ自分で買ったのか。なんのために? 国語教師の声は、全くもって耳に入ってこない。振り続ける雨音が、小さく聞こえるだけだ。 失くしたと思った折りたたみ傘は、私のロッカーの中にあった。これはおかしな話だ。金曜日は確実になかった。流石の私でもそれは覚えている。 もしかして。 佐藤君が隠したのではないか。 思った途端、背筋が冷えるのを感じた。 彼は『置き傘さん』を確認するためだけに、私の傘を隠し、妹のものだと偽った折りたたみ傘を貸した。全ては『置き傘さん』を見るために? ありえない。すぐにその説は崩れ落ちた。 そこまでして私と『置き傘さん』を見に行く動機がないのだ。行くなら一人で行けばいい。 はあ、とため息をつく。私は彼のことをほとんど知らなかった。疑えるほどの距離にいないのだ。根拠なく人を疑うほど傲慢なことは無い。 姉の影響なのかどうなのか、都市伝説は一つ上の学年にまで語られるようになっていた。今まで一学年内だけだった小規模な噂話が、尾ひれがついて広まり始めたのだ。誰が言い始めたのか、置き傘さんは鳩などの小動物を食ってしまうのだ、と言う話まであった。まるでウイルスが変異を繰り返しながら人々を蝕んでいくように、『置き傘さん』はゆっくりと浸透していった。 帰り道、友人と肩を並べて歩いていると、一人で歩く佐藤君を見かけた。昨日の家の方向に向かって歩いている。何事も無かったかのように、いつも通りの様子だった。 私はそれを見て、思わず言った。 「あの、ごめん。今日は親と待ち合わせがあって。あっちの道なんだ」 「あ、そうなんだ」 友人は残念そうに眉を下げると、「じゃあ、また明日ね」と手を振る。私も手を振り返した。 なぜ嘘を吐いたのか、問いただしてやろうと思っていた。傘を隠した云々は置いといて、妹がいるというのは嘘だった。そこを叩けば、他にもなにか分かるのではないか。 私は友人が見えなくなるのを見計らい、佐藤君の後をつけた。前と同じ道を通り、同じ角を曲がる。もう家が見えてきた。そろそろ声をかけようか、と一歩前に出る。 が、彼は家の前を通り過ぎた。 私は慌てて後ろに下がる。運のいいことにバレてはいないようだが、なんだ、彼はまっすぐ家に帰らないのか。 何をしに行くんだ? 私はますます気になった。つけていて、ランドセルの重さも分からなくなるほどに、その行方に興味を持っていた。一定の距離を保ちながら、彼の後を追う。 しばらく歩いて、佐藤君はようやく足を止めた。 そこは小さな公園だった。狭い敷地には滑り台と砂場ぐらいしかなく、雑草も生えっぱなしだ。高い金網に囲まれている。誰一人遊んでいる様子はない。何羽か鳩が歩いているぐらいだ。それどころか、周りは住宅街で、人通りさえなかった。 私は住宅の角から、そっと様子を伺う。佐藤君は高い草むらをものともせず、スタスタと奥の方へ入っていった。 そして、おもむろにランドセルからビニール袋を取り出した。中には、今日の給食のパンが入っている。それをちぎって、鳩の方に投げた。餌をやっているらしい。 なんだ、優しいところもあるじゃないか。 私は背伸びをする。頑張ってそちらに目を凝らした。 鳩が佐藤君の近くに寄ってくる。佐藤君は少し笑みを浮かべながら、パンをやり続けていた。 その時だ。 佐藤君が突然動いた。 ゴッと鈍い音がして、バサバサと大きな羽音が聞こえる。 心臓が飛び跳ねるように大きく震えた。佐藤君は、鳩を石で殴っていた。何度も何度も、顔色ひとつ変えずに、殴り続けていた。パンをやっていた時と同じ表情で、繰り返し殴っていた。 しばらくすると、鳩のもがく羽音が止んだ。石の鈍い音は続いたが、それも少しして聞こえなくなる。佐藤君は動かなくなった鳩をパンの袋に押し込むと、再びランドセルに戻した。 声が出ない。身体が震えて動かない。私は住宅の塀に手をつき、壁伝いにゆっくりと公園から離れた。血まみれになった石と、潰れてぐちゃぐちゃになった鳩の頭が目に焼き付いていて離れなかった。呼吸が乱れるままに、家に逃げ帰った。 多分、佐藤君にはバレていなかったと思う。私は結局、このことを誰にも言わなかった。 雨粒が傘にぶつかり、落ちる音だけが響く。まだ雨は降り続いていた。 後日、あの赤い傘の前に、潰れた鳩の死体が置かれ、問題になった。そして、それによって『置き傘さん』は学校中に広まることになった。噂は本当だったのだ、と。 私はあれを、佐藤君がやったのだと知っている。誰にも言いさえしなかったが、あの都市伝説を作ったのも、彼だったのだろう。 佐藤君は、自分の作った噂を広めることに、これ以上ない喜びを感じていたのではないだろうか。みんなが自分の嘘を簡単に信じ込むのが面白かったのだ。それと同時に、その噂を事実にすることに、病的なまでに固執していた。勝手に噂についた尾ひれさえ事実化し、より沢山の人たちを信じ込ませることに執着していた。彼は自分の噂に関係することであれば、何であろうと事実にする。私に『置き傘さん』を見せたがったのは、噂好きの姉がいるからだ。都市伝説を他学年にも広めたかったのだろう。鳩を殺したのも、囁かれた噂を本当にするためだ。 それが、私が一年間の間に導き出した真相である。そこまでは分かっていた。でも、私が佐藤君の家庭に問題があったと知ったのは、もうずっと後のことだった。 見慣れた街を歩く。水溜まりを踏む度に、ぴちゃりと水音が響いた。 私は親の都合で少し遠くの学校へ進学し、地元の子達とはすっかり疎遠になっていた。だから、今日会うのも本当に久しぶりだ。 同窓会はあの小学校で行われる。子供たちが帰ったあとに、教室を使わせてもらうのだ。わざわざ机を揃えてくれたりと、彼らには頭が上がらない。 通学路でランドセルを背負う子供たちが、またあの都市伝説の話をしている。 「置き傘さん、こわいよね」 「だね。また猫さん死んじゃったんだって」 雨が少し激しくなった。 ショッキングな思い出とはいえ、もう過ぎた話だ。今更、鳩に同情はできなかった。近くにいれば面倒だが、普段から会うわけでもない。それに、佐藤君の話は確かに面白い。ぜひもう一度話を聞いてみたかった。 三階建ての校舎が見えてくる。懐かしい風景に、思わず目を細めた。 そういえば、久保先生はまだいるだろうか。怒ると怖かったけど、優しくて話が分かる人だった。確か、佐藤君と『置き傘さん』を見に行った時、あの先生に注意されたんだっけ。「イチャついてる」とか言われて、それで、佐藤君に「ポケットから手を出しなさい」って。 いや。 待て。 私は校門の前で、思わず足を止めた。 佐藤君は噂を本当にすることに、異常なまでに固執していた。時に、生物の命さえ簡単に奪うほどに。 あの時流れていた置き傘さんの噂は、確か。 『置き傘さんに触れると食い殺されてしまう』 触れたら殺される? 人が死ぬ? じゃあ、あの時私を裏門に連れて行ったのは。赤い傘に触れさせようとしていたのは。だとしたら、あの右手には、もしかしたら。 「やあ、久しぶり」 聞き覚えのある声が聞こえた。 私は顔を上げる。 変わらない笑顔で笑う彼は、右手をポケットに突っ込んでいた。
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